不登校に悩む人、必読!『ありのままで ~しあわせな不登校のすごしかた~』(無料配布)が手元に届きました
わたしは、Facebookオンラインサロン「お母さんのがっこう365」に入っています。
《お母さん》とついていますが、お母さんだけでなく、お父さんでも、また不登校などに関心のある大人も入ることができます。
その主宰者の吉田晃子(よっぴー)さん、星山海琳(まりん)さん母娘から、すてきな冊子が届きました。
それがこちら↓
喫茶店で読んでいたので、紙ナプキンを細くちぎってしおり代わりにしました。 右どなりの丸い紙は、よっぴーさん・まりんさんからのお便りです。とても素敵でした♪
この冊子は、NPO法人自由創造ラボたんぽぽがクラウドファンディングを募って作成し、なんと無料配布しているものです。
不登校や教育について、いろんな方が寄稿しています。
https://labotanpopo.wixsite.com/labotanpopo
本文部分は著作権の関係で許可が必要なので、目次だけ……。
さっそく、読んでみました。
まず驚いたのは、不登校まわりや関連領域で活動している人がこんなにも大勢いるということ。
みなさん草の根的に、自分ができること、やりたいことをやっています。
なんだか、それだけでも心強いですよね。
このバリエーション豊かな文章の中から、わたしの印象に残ったところを紹介していきますね。(敬称は省略します)
「あなたはあなたのままでいい」前川喜平(前文部科学省事務次官)
前川さんは、「学ぶ」ということ、「大人になるために必要なこと」を平易な言葉で語ってくれています。
誰かから話を聞いて「へぇ~」と思うことがあったら その分、
あなたは気づかないうちに
たしかに賢くなっているんです。
(中略)
ゆっくり、自分のペースで、
学びたいところで、学んでいけばいいんです。
あなたが学びたいように学んでいけばいいんです。
短い詩のような文章はさらっと読めます。
「ふ~ん」と流してしまいそうなくらい、シンプルな内容です。
わたしには、長男のふだんの姿が自然と浮かんできて、ああ、本当にその通りだなと感じました。
学ぶことについて言葉を尽くそうと思えばいくらでも尽くせるのだろうけれど、煎じ詰めればこれで済んでしまうんですよね。
そんなことに気づかされました。
「白いご飯を食べられなくても行きていける!」田中洋輔(NPO法人D.Live代表理事)
白米が嫌いな力士・炎鵬関の話を枕に、これはまるで不登校と同じだと語っています。
「日本人なら白米が好き」と疑いなく考えてしまいますが、炎鵬関はそうではない。
田中さんは
僕は、「学校」は白米と同じだなと、思う。
みんな行って当たり前。みんな食べて当たり前。
(中略)
しかし、僕は思うのだ。
別に白米が食べられなくてもいいじゃないか、と。
(中略)
なにを食べても良いように、どこで学んでもいい。
と綴ります。
こういうアプローチは、ドキッとしますね。
ちなみに、ワインが飲めないフランス人もいると聞いたことがあります。
白米が食べられなくても、ワインが飲めなくても、そのことだけで困ったことになるわけじゃない。
食べ物はほかにあるし、飲み物もほかにある。
学校に通うということも、同じではないかと問いかけてくれます。
「ホームスクールという選択肢があることの素晴らしさ」ベンソン(進士)万里子(カナダ在住)
ベンソン家には3人の子どもがいます。
カナダはブリティッシュコロンビア州内で引っ越したときに、長男が通う学校の教育方針、教育スタイルが変わってしまったことをきっかけに、ホームスクールという選択肢を選んだ一家です。
これが、日本しか知らないわたしのような人間からすると、いやもう夢の世界!
引っ越し前のソルトスプリング島のプログラムがすごい。
幼稚園~小5くらいまでを対象として、自然学習にアカデミックな要素(読み書きなどの基礎学力)を盛り込んだ、日本で言えば「森のようちえん」をお兄さん・お姉さん向けにしたようなプログラムなのです。
(このプログラムは<MYSEEC=Middle Years Shared Ecological Educational Centre>というそうです)
担任の先生が、自分のことを母鷲(マザーイーグル)に例えて、マザーイーグルが羽を広げたらすぐに彼女の前に集まるようにささやきます。
実際に、先生が腕を広げたら、騒いでいた子どもたちは静かになって、先生を囲んで座り、さまざまな物語に耳を傾ける……。
詩的ですね。
これだけで、ため息が出ます。
が、引っ越し後のペンダー島では日本と同じような教育方針で、長男くんは退屈しきってしまいます。
私たちは、子どもの読み書き能力などは、子どもの好奇心、または学びへの意欲が出てきたときに、ほぼ自動的に、かつ、深いレベルで浸透し、身につくものとして理解していた。一方で、担任の先生は、早期に基本的な学力をあげることに集中することで、より効率的な学習ができるという、いわゆる古典的な教育方法を実践していた。
ここ、すごくわかります。
わたしたちも、1年前まではここに出ている「担任の先生」と同じように考えていて、そこからベンソン夫妻のような考え方に変わっていったので、よくわかります。
で、ホームスクールプログラムを選ぶことになるのですが、この仕組みがまた面白いんです。
ホームスクールと学校教育のハイブリットでホーム《ラーニング》と呼ばれ、先生の監督のもとホームスクーリングを行い、希望があれば学校行事にも参加できるようになっています。
週1回、学校の一室でホームスクーラーが集まって交流する場もあります。
親も子どもも交流ができて、「自由な時間の過ごし方が印象的だった」と万里子さんは述べています。
極めつきは、教育補助金!
ホームラーニングプログラムに登録すると、お金が出るのです。
その理由が超まともで、「政府や学校側にとっては、その分子どもの教材費、設備費などの経費が節約できる」から。
涙ぐんでしまいますよ。
日本では、ホームスクール、ホームエデュケーションをやろうとすると、全部自腹です。
「義務教育は無償」といっても、それはあくまで学校に通う範囲の話なのです。
(無償と言いつついろいろ出費が嵩むのが日本の義務教育ですが、それはまたの機会に譲りましょう)
ああ、カナダに移住したい! と思ったのはここだけの話です。
「未来から考える教育 ~親が自分を愛することからはじまる子どもの成功哲学~」川本潤(未来の教育コンサルタント)
3人の子供を持って教育について取り組んできた結果、むしろ教育が必要なのは大人の方なのかもしれないと思うようになりました。
子どもたちは産まれた時から皆素晴らしく多くを教えてくれました。親として私にできることといったら、子どもの邪魔をしないこと、子どもの可能性を奪わないこと、その子らしさの輝きを曇らせないこと、それくらいしかありませんでした。
強いてあげるならば、こうなってほしいと願う人間像に、自分自身が近づいていく後姿を示すことくらいです。変容を厭わず挑戦を楽しんでいる大人が近くにいると、子どもも人生と生命を愛し続けることができるはずだからと。
ああ、首がもげそうなほどぶんぶん振ってしまいますよ。
わたしにはまだまだ不健全なところがあるので、ここに書かれているような後姿を見せられているとは言えませんが、それでもこうありたいと思います。
そして、子どもに対して「できること」よりも、「やらないこと」を考えたほうがいいのかもしれない、ということは実はとても大事な視点だと思います。
川本さんは、こう締めくくっています。
余談ですが、この原稿を書いている時点で長男は不登校ですが、それが何か問題だと思ったことはありません。成績や教育に関係なく、彼は偉大な存在だからです。
ああ、いいな。
みんな、beingしているだけで偉大な存在なんですよ。
「父親のつながる力と 多様な生き方・学び方」下村健士(ZOOM版教育と子育てを語り合うお父さんの会)
下村さんのお嬢さんが不登校になったとき、下村さんは親の会や教育について考える勉強会に参加して、とてもびっくりしたそうです。
その理由は、集まっているのがお母さんたちばかりだったから。
そうなんですよ。
わたしも親の会に入っていますが、見事にお母さんばかりですね。
父親は子どもの不登校にほぼ関わらないか、関わっても否定的な言葉を投げつけてむしろ害悪、というケースも珍しくはありません。
(もちろん、この下村さんのように、きちんと関わっている父親もいます)
この世で大切なことは、人と深いつながりを持っていることです。
信頼できる人がいるから、自分の問題を根本から見つめていくことができるのです。
すごくシンプルなことですが、このことを実感を伴って知っている人は意外に多くはないのかもしれません。
以前、こんな記事を書きました。
「仲間」はとても大事です。
そのことに、親の性別は関係ありません。
「思い通りにならないのが子育て。だからこそ、愛するということ」西野奈津子(一般社団法人ひまわり教室代表理事)
そして『愛する』ということは、自分から心が離れてしまった人の幸せを素直に祈ることのように思います。愛するということは人間にとって最も強くて冷静な感情に思えるのです。親が子どもに与える最高の思いは、この『愛する』ということだと思っています。
「愛する」という言葉をこんなに的確に表現した言葉をわたしは知りません。
いやむしろ、子どもに対して「愛」とか「愛する」とか軽々に使えないと思っていたのですよ。
つい最近、友人が「軽々しく愛を口にしましょう」と素敵な言葉を贈ってくれて、少し気持ちが変わっていたところでした。
話が飛びますが、宇多田ヒカルのニューアルバム『初恋』に収録されている「あなた」という曲も、びっくりするくらいストレートな愛がうたわれていて、びっくりしました(語彙が)。
この曲の「あなた」は恋人というより、おそらく子どもへの愛をうたった曲なのではないかと推察します。
西野さんの言葉に戻ります。
この文章の肝心なところは「自分から心が離れてしまった人の幸せを素直に祈る」というところでしょう。
相手がどう出るか、どうあるかは関係ない。
愛を叫ぶのではなく、幸せを祈る、という「抑制」も愛することの本質なのかもしれません。
「歩く花」吉田晃子・星山海琳(AI-am)
合わない場所で耐え抜くより自分を生きるのがいい、と考えている親や大人がそばにいることは、ほんとうに恵まれている。すごくうれしいことだ。
でも、そう教えてくれた、伝えてくれた相手のほとんどは、「自分を生きる」ってどんなことか、体感として知っているわけじゃない。だからわたしたちは、わたしがわたしとして生きる姿をみる親や大人たちへ、なまなましい、「自分を生きる」そのありかたを返していくことができる。そうしておたがいに、敬意を育んでいく。
これも、ドキッとしますね。
前段のような《理解ある》大人は、今はそれなりに増えてきていると思います。
が、子どもが大人の考える「自分を生きる」と違ってきたときに、それを受け入れられるか?
それは、その大人自身がほんとうの意味で「自分を生きる」ことをしていないと、おそらく葛藤が生まれるのだと思います。
「学校行きたくない? いいよ、いいよ」
子どものそばにいる大人が試されるのは、実はその先なのではないでしょうか。
冊子の入手方法
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送料として300円がかかりますが、本体は無料です。
ひと色ではなく、それぞれの人の考えがいろんな言葉で綴られています。
自分の好きなフレーズをぜひ見つけてみてください!