4年ぶりの投稿です。ごぶさたしています
大変ごぶさたしております。
最後の投稿が2019年5月ですから、丸4年も間が空いてしまいました。
長男は中2に、次男・三男は小3になりました。
小学生だった長男が中間教室に楽しそうに通っている、という話で止まってましたね。
中間教室は先生が変わって雰囲気も変わり、夏休み明けから長男の足は遠のいてしまいました。
長男ははっきり言わなかったんですが、ひとりの先生が勉強するように言ってくるなど締め付けが強くなり、居心地が悪くなってしまったようです。
今思うと、通い始めた時の雰囲気は、むしろ例外的に居心地が良かっただけかもしれません。
勉強しない子を柔らかく排除するのは不登校支援という文脈ではダメだと思いますが、学校復帰を手放したがらない教育行政の自己規定からすると「当たり前」なのだと思います。(これは良し悪しではなく、そういうものということです)
その後、私は友人と居場所運営をしていたこともありました。
当時は幸い時間があったため、ほぼボランタリーな活動でしたが、続けることができていました。
が、1年ほどで私が仕事をしないと家計が厳しい状況になってしまい、友人には申し訳ないと思いつつ運営から手を引きました。
居場所をやってみたことで出会えた方、初めて知ることもたくさんありました。
二拠点生活とデモクラティックスクール
2020年からは、愛知県岩倉市との二拠点生活に1年半、挑戦しました。
愛知県一宮市にあるデモクラティックスクールに通うためです。
知人を通して知り合った方が運営していて、一宮は夫の郷里でもあったため、いっちょやってみるかということに。
ちょうど下の子たちが就学を控えたタイミングだったこともあります。
(下の子たちは、本人たちと話し合って、最初から長男が通っていた近隣の小学校には通わないことにしていました)
場所に縛られない仕事をしていた夫が子どもたちと平日は岩倉の団地で暮らし、週末に青木村に帰ってくるという生活がはじまりました。
日系ブラジル人や高齢者が多くいる団地で、近所には外国食材の店もありました。子どもたちは公園で日系ブラジル人の子たちと自然に仲良くなって、相手のおうちにいつの間にか上がりこんでいるなんていうこともありましたっけ。
デモクラティックスクールにも、3人それぞれのペースで通っていました。
が、新型コロナウイルス感染症が広がり、一番激しかった2021年のデルタ株流行時に、最終的に感染予防策で運営者や他の保護者と折り合えないという予想外の展開に。
蓋を開けてみれば運営者以下他の保護者は「コロナはただの風邪」「子どもにマスクは危険」「ワクチンは危険」という考えの人が大半だったのでした。
このデモクラティックスクールを一番気にいっていた長男は、運営者から1対1で折伏される流れになったことで運営者を信頼できなくなり「もういい」と……。
加えて、夫が1年半で52往復にのぼった移動とワンオペ家事育児と仕事で限界を迎えていたこともあり、不本意ながら撤収することになりました。
子どもたちには本当に申し訳ないことをしました。
まさかこんなところでつまづくとは予想できず、私の人を見る目のなさに(私が見つけてきたデモクラティックスクールだったので)、とても落ち込みました。
夫は夫で、いったいこの1年半は何だったんだろう……と、しばらく落ち込んでいました。
とはいえ、なかなか会えない夫の母と交流が持てたり、青木村とはぜんぜん違う団地生活が体験できたことはよかったです。
ホームスクーラー生活へ
そこからは、青木村で家族5人が常にステイホームのホームスクーラー生活が続いています。
ホームスクーラー生活がはじまってしばらくして、三男がYouTubeか何かで塾というものを知り、「行ってみたい」と言い出しました。
「もし勉強したいと言い出したら、ここの塾がよさそうだな」と目星をつけていた塾に、お試しで通いはじめることに。
「とっても面白いよ!」という三男につられて、次男と長男も芋づる式に通うようになりました。
今は、次男・三男は週3回、長男は週2回通っています。
加えて、次男・三男は月2回のアトリエ教室、週1回の民営フリースペース、三男は月2回のピアノ教室、長男・三男は週1回の空手、という感じで一気に忙しくなりました。
家庭学習も復活
次男・三男が文字や数字に興味を持ちだしたことで、昨年から家庭学習も復活しました。前は長男の家庭学習を断念した夫ですが、もともと私以上に子どもたちをよく観察していることもあって、今回はいい感じで推移しています。やはり子どもとやりとりするのは、夫のほうがうまい……。
夫ができない時は私が見て、わからないところを教えたり、一緒に考えたりしています。
学習としては主に国語と算数を、教科書とドリルを使ってやっています。
最初はカタカナとひらがなが気まぐれに混じる“怪文書”を書いていた次男・三男も、それなりに文字を書けるようになってきました。
三男は、漢字検定を受けようかなと言っています。
算数は、特に次男はハマったようで、今は二桁同士の掛け算のワークブックをやっています。
他には、テレビ番組を録画したり本を買ってきたり(主に夫)、イベントに誘ったり連れて行ったり(主に私)しています。
お金も時間も潤沢には使えないけれど、子どもたちが興味を持ったことについては、その熱が消えないうちにできる限り手助けするようにしています。
とはいえこれも、夫も私も家で仕事している自営業だからできること。
行き当たりばったりではじめたホームスクーラー生活ですが、図らずも比較的容易に実現可能な環境だったことは、幸運だったと言わざるを得ません。
児相職員がうちに来た!
と、平和なホームスクーラー生活に、思わぬところから矢が飛んできたこともありました。
なんと、匿名氏から児童相談所に「あの家はこどもを学校に行かせずに閉じ込めている」と通告(いわゆる通報をこのように呼ぶらしい)されたのでした。
長野市にある児相の職員ふたりが、確認のために1時間以上かけてわが家にわざわざお越しになりました。
私は仕事で家を空けており、対応したのは夫でした。(少々のことではビビらない、そして自分が悪くないのに謝るみたいなことは一切しない夫でよかった)
「奥さんは何か配信とかされてます?」と言ってきたそうで、私のこのブログ(4年放置)かInstagram(こどもがホームスクーラーとは書いているが基本食べ物ネタ)かFacebookか、とにかく何らかの発信を見ている匿名氏の仕業だったようです。
夫が事情をしつこいくらい詳細に話し、子どもたちにも会わせて、児相職員は「今後同じような通告があったとしても、だいじょうぶですと伝えます」と納得して(気圧されて?)帰っていきました。
不登校家庭が児相に通告されるというのは聞いたことがあったので、「うちも通告されることがあるかもしれない」と考えたことはありました。
特に、共稼ぎ家庭などで日中やむなくこどもだけで家にいる状態だと、ネグレクトだと突っ込まれることがあるようです。
わが家は夫婦ともに自営業で特に夫は在宅していることがほとんどなので、子どもだけになる時間は極力ないようにしているものの、そんなこと周りは知らないでしょう。
学校に行っていない事情を知らない人は当然いますし、そういう人の中には「学校に通わせないなんてひどい親だ!」と義憤にかられる人がいても(迷惑極まりないが)おかしくないとは思いますが、ただでさえ多忙な児相に虚偽の通告はあかんやろ……。
今は子どもがいる家庭に嫌がらせをしようと思ったら、児相に連絡するのが一番手軽です。子どもの命最優先で通告のハードルを下げるための匿名、ということなんでしょうが、悪意のある人にはいいシステムですねー。(棒読み)
気持ちの変化
いろんなことがあった中で、私の気持ちも少しずつ変わってきました。
長男をいじめた子どもたちと傍観者たち、当時の校長と担任、教育委員会に対して思うことは当時から変わりませんが、「学校みたいな危険な場所は行かないほうがいい」と尖りまくっていた気持ちは、「何の心配もなく行ければどんなにいいか」と変わりました。
どれだけ変わったかというと、「学校なんて行かなくていいよー」としか言わない人にモヤッとするほどには……(毒舌御免。子どもたちはどんどん大きくなるのよー。そして支援はものすごーく手薄でめちゃくちゃ孤独なのよー)。不登校の問題は、学校に行かないことではなく、その先にあるからです。
学校に行かないという選択をしても、大人の教育を受けさせる義務と、子どもたちが学ぶ権利は依然としてあります。
そこをオーダーメイドでやっていくのは、簡単なことではありません。
放任でいいというのもひとつの考え方で、わが家もそういう時期がありましたが、それがベストだったとは思っていません。
いろいろ問題はあるとしても、学校はいろんな体験ができるようにできています。
同じことを家庭でやるのはほぼ不可能で、子どもになるべくいろんな体験をしてもらいたくても、「お金の問題」と「親の時間と手間をどこまで割けるかという問題」がどうしてもつきまといます。
あとは、同世代の友だちを学校外でつくることの困難さたるや。
これはもう、いかんともしがたいところです。
親が友だちを連れてくることはできないし、友だちはつくるものというよりできるもの。
申し訳ないと思いつつ、子どもたち自身が「友だちほしい!」と切望して行動してもらうしかないかなと思っています。
これがわが家の「ふつう」
そんなこんなで、今は不登校関係でつながりをつくること、不登校をディグることからは距離を置き、遠くから眺めている状態です。
世間的にはイレギュラーなこの暮らしこそが、私たち家族にとってふつうになったからかもしれません。
・不登校の予防に力を入れるよりも、学校の在り方を変えてほしい。
・不登校という言葉が意味を持たなくなるくらい、学校や学びのスタイルが選べて当 たり前の社会であってほしい。
・経済的な格差が学びの障害にならない社会であってほしい。
・いじめをゼロにしたい。
その気持ちは変わりませんが、今は、訴えたい情熱は前ほどありません。
訴えることはとてもエネルギーがいるし、心が穏やかではいられなくなるからです。
(だからこそ、活動を続けている人をとても尊敬しています)
諦めといえば諦めかもしれないし、逃げといえば逃げかもしれないです。
中2の長男はN高に行こうかな、と言っています。
私の友人のお子さん、取材で知り合った大学生にもN高卒業生がいて、いろいろ話を聞いています。
よさそうなところ、そうでもなさそうなところ、どちらもありますが、長男が興味を示していることが一番大事だと思っているところです。
3人はとっても素敵な子に育っています。
それはもう、自分の子と思えないくらいなもんで。(親バカと笑わば笑え)
「生きてるだけで丸儲け」が私の座右の銘ですが、その言葉の意味を、毎日囲む食卓で感じているところです。
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このブログでは、「私の経験からよかったと思う」団体、媒体などをいくつか情報提供してきました。
が、その後の経過により、情報提供というかたちでおすすめするのは控えたいものが出てきたので、当該記事については非公開とします。ご了承ください。
ツイッター、それは不登校の「情報」と「仲間」が一気に集まる場
最近、アカウントを作り直して、またツイッター界に出入りするようになりました。
最初に作った時は、ありがちなんですが、カッとなることが多くなってしまい、しんどく感じてやめました。
今回作り直したのは、ROM専でテレビドラマや好きなアーティストのアカウントをフォローしたいがため。
それが、気が付けば不登校アカウントになっていました(苦笑)。
きっかけは忘れましたが、私と同じような経験をされた方や、共感できる考えを持った方が不登校アカウントには多くいることを知りました。
情報も仲間も一気に集まります。
おかげで、自分の考えをブラッシュアップするスピードも速い速い!
これ、2年前に知りたかった……!
当時の私はなぜ、ツイッターの門を叩かなかったのか。
ツイッターってメルカリに似ていて、「こんな物、さすがに売られていないだろう」というものでも意外と出品されているように、いろんなテーマのアカウントがあるんですよね。
一番の収穫は、わが家が目の当たりにした校長や担任の言動、教育委員会の言動などが特殊なのではなく、びっくりするほど同じ言動があちこちで確認できたことです。
「いじめ不誠実対応裏マニュアル」でも流通しているんじゃないかというくらい、同じなんですよね……。
これはもう驚くほどで。
あとは、誰からも「いいね」されなくても、吐き出した言葉を瓶詰めの手紙みたいにツイッターの海に放流できるのは、精神的にとてもいいです。
思った時にパッとツイートできるのがいいですよね。
思いがけずリプがついたら、またそこから話が広がったりもして。
もちろん、ツイッターはいいことだらけというわけではなく、いくつか気にしたほうがいいポイントはあります。
1.不登校を否定しない、受容的、考え学ぶことを厭わないアカウント
フォローするならこういう不登校アカウントが理想的、と私は思います。
ツイッターは自由に発言できるからこそ、わざわざ不快な思いをしにいく必要はありません。
不登校を否定していないアカウントであることが一番のポイントです。
さらに、不登校や教育まわりのことを学んで、考え続けている人からは、いろんなことを教わることができます。
具体的に聞きたいことがある時ももちろんですが、何気ないツイートにも含蓄や気づきがあってですね。
いろいろ学べます。
2.教師アカは要注意
学校で教師をしている人(ツイッターなのであくまで自称ですが)のアカウントもたくさんあります。
ただ、一見理解のあるようなアカウントでも、あるテーマになると「あれっ?」と違和感盛りだくさんとか、言葉遣いにいろいろにじみ出てしまってひっかかる、というケースが散見されます。
最近だと、NHKで放送されたいじめ特集の感想として「いじめ対応はやってられない」「ここまで現場に求められると困る」というツイートをしている教師アカもけっこうあったようです。
最近は学校の先生も大変だそうですから、気持ちはわからないでもないですが、あの内容を見てもそういう感想しか出てこないのだとしたら、至極残念です。
もちろん、外からはうかがい知れない現場の生の声を発信しながら、学校の理屈に染まっていない発信をしているアカウントもあります。
そういうアカウントと交流できると、知見も広がるというものです。
3.ネガティブなツイートとの付き合い方
今もまだ継続中ですが、「不登校YouTuberゆたぼん」の報道をきっかけに、彼に対するバッシングが吹き荒れました。
結果的に、不登校全体に対しての世間の偏見が一気に可視化されて、不登校に対してそれなりに考えたり情報を得たりしていた私でも、恐怖感を覚えたほどでした。
LGBTと同じように、不登校に対する社会の見方も、この10~20年ほどでだいぶ変わったんじゃないか……という淡い実感を吹き飛ばすほどでしたから。
状況が比較的安定していて、不登校に対しての理解が深まっている人ならば、飛び交う罵詈雑言もある程度冷静に見られるかもしれません。
(実際、ある程度知識のある人なら簡単に反論できるようなコメントが多いです)
が、今まさに悩んでいるという人は、こういう時はなるべくネガティブに盛り上がっているアカウントには近づかないに越したことはありません。
学ぶことがあるとしたら、不登校への偏見や罵詈雑言のツイートへの説得力ある反論で「理不尽な相手とのケンカの仕方」を学べるという点でしょうか。
理不尽な相手は最終的にはブロックですが、いくつも見ているうちにパターンが見えてきます。
私もかなり学ばせてもらいました。
リアルな世界で、不登校への偏見を投げつけてくる人もいますから、咄嗟に言うべきことを言える反射神経を養うためにも、ケンカの仕方を蒐集することができるのはツイッターの利点かもしれません。
慣れてきたら、渦中に飛び込んでケンカの腕前を上げるのもいいかもしれませんね。(私はまだできない)
4.ほっこりアカウントやメンターアカウントも混ぜる
不登校や学校ネタばかりになると息苦しくなるので、ほっこりできるかわいい動物動画アカウントとか、漫画家の瀧波ユカリさんやコラムニストのジェーン・スーさんのようなエンカレッジ&エンパワメントしてくれるメンターアカウントもフォローしておくと、気分がよくなるのでおすすめです。
私は、瀧波さんのツイートに、たびたび助けられています。
……そんなわけでツイッター、不登校の当事者や保護者にとっては、思った以上に活用できるSNSです。
気持ちを吐き出す場としてもよし、有益な情報をdigしてもよし。
リスクは上手に回避しつつ、しんどくならない程度にお付き合いしてみてもいいかもしれません。
中間教室その後(半年経ちました)
長男が中間教室に通うようになって、半年が経ちました。
――中間教室とは?
中間教室というのは、どうも長野県内独特の用語のようですね。
上田市では「ふれあい教室」と呼ばれています。
佐久市だと「チャレンジ教室」だそうです。
おそらく全国的には、「適応指導教室」というような名前で呼ばれているのではないでしょうか。
全国的な名称である「適応指導教室」も、今は「教育支援センター」と名前が変わってきているようですね。
さすがに「適応指導」はねぇ……。
露骨というか、身もふたもない感じですもんね。
さて、その中間教室です。
長男にとっては幸い、今のところ「嫌なことが何もない」(最高か!)という、ストレスフリーな場所になっているようです。
平日はだいたい毎日通っています。
行かない時というのは、
・何となく気がのらない
・『月刊コロコロコミック』(小学館)の発売日(隅から隅まで熟読したいので)
・映画を見に行く(映画が朝イチなら観終わった後に行くことも)
くらいでしょうか。
長男が通っている中間教室は、朝9:30に開室して、15:30までいることができます。
長男は9:30に行って、「迎えは15:30きっかりでお願い」と滞在時間が最長になるようにしたいようです。
いつも、ポケモンの大きいリュックにお弁当と水筒、それからゲーム機やマンガ本などいろんなものを詰め込んで出かけています。
長男が半年間通ってみて、私が感じたことを「ココがいい!」「ココが残念!」に分けて挙げてみたいと思います。
ココがいい!①強制がない
何といってもココが! 最高! ですよ!
好きなことをして過ごすことができます。
長男は、ゲームやマンガなどを持って行っています。
あとは、教室にあるマンガや本を読んだり、他の人とバドミントンをしたり、カードゲームをしたり、スライムを作ったり……という具合に過ごしているようです。
勉強したい子は、ドリルなどを使って勉強をしているようです。
そういうお子さんの要望にもこたえてくれるのはいいですよね。
ココがいい!②先生方が穏やか&朗らか
長男が通っていた学校では、対応がとにかくがっかりの連続だったので、「いい感じの先生ってどこの世界の話よ?」と思っていましたが、中間教室の先生は穏やかで朗らかな先生ばかり。
たまたまかもしれませんが、ベテラン先生ばかりです。
この3月までは先生が3人でした。
うち、ひとりが3月末で退職、ひとりが異動、ひとりが残留、となりました。
4月からは、新しく男性の先生がふたり来られました。
今度もまた穏やか&朗らかな先生で、先生は変わっても雰囲気はあまり変わることなく通えています。
先生の異動の頻度がどれくらいかわかりませんが、在籍年数が短いと、変化が苦手なお子さんにはしんどいかもしれませんね。
先生も子どもも人数が少ないので、長男から細かい話を聞かずとも、先生方の感じがよく伝わってきます。
夫は「ああ、先生というのは教育者なんだな」と、この中間教室で初めて感じたそうです。
(長男が先生のメガネを不注意で壊してしまったことがあり、その対応を見ていて、そう感じたみたいです)
先生は「私たちも〇〇くん(長男)のおかげで楽しませてもらっています」という言い方をよくします。
おべっかなどではなく、長男と過ごす時間を本当に楽しんでいること、そして長男の個性や良さを理解してくださっていることが伝わってきて、とてもうれしい気持ちになります。
ほんのひとことですが、心がじわーっと温かくなるのです。
ココがいい!③仲間がいる
「友だちはつくるものではなく自然にできるもの、なんならいなくてもよし」というのが前提ではありますが、それでも仲間がいるとできることが増えるし、分かち合う楽しみも出てきます。
長男と似たような年の小学生が何人か来ています。
送迎の時に挨拶する程度ですが、あまり無理がないというか、その子のままでいる感じです。
バレンタインデーにはチョコレートを持ってきてくれた子がいたので、ホワイトデーに私がマフィンを焼いて、「みんなでおやつに食べてよ」と長男に持って行ってもらいました。
お茶の時間みたいな感じで、先生も子どもも一緒におやつを食べることもあるみたいで、それもいいなぁと思っています。
小学生から中学生まで来ることができるので、中学生のお兄さんやお姉さんとも交流しているようです。
中学生は、定期考査を中間教室で受けられます。
その時はさすがに、小学生は静かに過ごしてね~ということになります。
ココが残念!①開室時間が短い
9:30~15:30なので、共働きやシングルペアレントのご家庭は利用が難しいなと、すぐに思いました。
学校は保育園とは違うとはいえ、開室時間がネックになって、通いたいけど通えない人がいるとしたら残念すぎると感じています。
放課後は学童という手もありますが、学校に行っている子と同じ学童は行きにくいという子どももいるだろうし、中間教室のすぐ近くに学童があるわけではないので、あまり現実的ではありません。
そもそも、中間教室は広い上田市内に5か所しかないので、歩いて通えるほど近くにない場合が多いのではないでしょうか。
わが家は夫婦ともに在宅で仕事なので、時間の融通がかなりききます。
だから送迎ができていますが、そういうご家庭ばかりではない、というか、そういう家庭のほうが今は珍しいのではないでしょうか。
小5になったらひとりでバス通学という選択肢もできるかなと考えていますが、それまでは大人の送迎が必須です。
ココが残念!②たぶん、予算があまりない
先生方の工夫で、できる限りのことをしてくださっていますが、恐らく予算は少ないのではないかと、建物や備品を見ていて感じます。
古いことや足りないことは、必ずしも悪いことではありません。
知恵と工夫で解決するのも大事なことです。
それでも、お金の問題でできないこともあるのではないかと思います。
中間教室は縛りがない分、いろんなことができる可能性があるだけに、予算はある程度つけてほしいナァ……と勝手ながら思っています。
たとえば、希望者だけでいいんですが、「今日は映画を見に行こう」「サントミューゼに展示を見に行こう」「『犀の角』に演劇を見に行こう」「化石を掘りに行こう」「川に泳ぎに行こう」なんてこともできますし、アーティストやその道の専門家を呼んでワークショップをやる、なんていうこともできます。
考えるだけでワクワクしてきますね~。(私が通っているわけではないのだが)
ココが残念!③先生や他の親と話す機会がほとんどない
私はときどき、ほかの親御さんとも話をしてみたいなぁと思うことがあります。
もっというと、先生とも話をしてみたいなぁと思うことが。
もちろん改まってということではなく、ざっくばらんにおしゃべりしたいだけです。
もちろん、そういうことを一切望んでいない人もいるでしょうから(夫は望まないタイプ)、これは私が勝手に残念に思っているというだけの話です。
いつでも温かく門戸を開いていてほしい
行政としては、中間教室に来る子どもがあまり増えても困る、というのが本音かもしれません。
「学校行きたくない? いいよいいよ」というほどさばけた先生も、教育行政関係者も、まだまだかなりの少数派だと思うので。
「やっぱり一条校」という考えが強いでしょう。
それでも、学校には行きたくない/行けないけど、こういう場所なら行ってみたいな、というお子さんは、多くはなくとも一定数いるのではないでしょうか。
そういう子どものために、いつでも温かく門戸を開いていてほしい。
ある種のサンクチュアリといいますか、安心して自分らしくいられる場所であり続けてほしいと、心から願っています。
学校に通わない、通っていないお子さん全員におすすめできるわけではありません。
合わないというお子さんも当然いるでしょうから。
長男もそのうち飽きてしまうかもしれないし、ずっと行くかもしれないし、まったくわかりません。
私にとっての中間教室は、学校に通うよりもむしろ、教育とは何か、学びとは何かを感じさせてくれる貴重な場所です。
望んでもいないのに、学校や教師、公教育への不信感で心を埋め尽くされてしまった私に、そうではない場所と人がいるのだということを教えてくれた場所でもあります。
(幼稚園児の弟たちが学校に行きたいと言うならば、最初から中間教室をすすめたい!)
中間教室の先生方と、長男と一緒に時間を過ごすお子さんたちへの感謝は、ずっと忘れないでしょう。
心から感謝しています。
学校が子どもに対応しきれていない現象
4/17の『信濃毎日新聞』を読んでいたら、こんなコラムを発見しました。
教育研究家の古山明男さんが書かれたものです。
昨日ポストした、不登校の「不適応型」で脱線して書いた「そもそも既存の学校(公教育)の環境や仕組みがどうなのよ?」に対する、ひとつの回答として読めるコラムでした。
多動のお子さんについて、古山さんが丁寧に観察して感じたこと、気づいたことを描いています。
学校などの集団生活においては、そこの枠をはみ出す子どもは「困った子」とされがちです。
最近よく「困った子ではなく、困っている子」という言い方をしますが、子ども本人が困っているかどうかはまた別の話で、はっきりしているのは、困っているのは言うことを聞かせたい側(大人)であるということです。
その、困っている大人の考え方を変えたほうが手っ取り早いし合理的じゃね? というコペルニクス的転回といいますか、非常に参考になりました。
憲法で教育の義務(大人の義務ね)はうたわれているわけだし、教育を受ける権利も誰もが等しく有しているわけですから、やっぱり、学校教育こそユニバーサルデザイン化が必要ですよ。
【続編】学校の環境や仕組みが合わない不登校の「不適応型」
前の投稿で、不登校のきっかけは大きく分けて5つという話をしました。
最初は4つとしていて、その後5つと改めたので、書き足すと大長編になってしまい……。
そんなわけで、新たに加えた「不適応型」はこちらで書くことにしました。
さて、「不適応型」です。
本人がクラスメイトや教師と直接的にトラブルを抱えるわけではなく、学校の環境や仕組みになじめない、というのを「不適応型」と定義します。
- 「不適応」よりもニュートラルな言葉がほしいんだけど……
- 「感覚の過敏」で合わないケース
- 「学校の仕組み」が合わないケース
- 学校はユニバーサルデザイン的であるべきでは?
- 「不適応型」は環境を変えれば解決することも
「不適応」よりもニュートラルな言葉がほしいんだけど……
不適応という言葉はネガティブなイメージがあるので、もっとニュートラルな言葉があるといいのですが……思い浮かばないので、この言葉で話を進めさせてもらいます。
ニュアンスはなく、単純に「環境・仕組みが合わない」という状態を表現しているだけなので、ご承知おきください。
不適応型は、たとえば、
・先生が他の子を叱る声にショックを受けてしまって行けなくなった
・大人数と一緒にいるのが疲れる
・集団行動が苦手
・1時間おきに違うことをしなければならないのが苦痛
という感じです。
「感覚の過敏」で合わないケース
まず、「感覚の過敏」で合わないケースについて。
聴覚過敏の人が専用のイヤーマフをしてバスに乗っていて因縁をつけられた、という話を聞いたことがあります。
写真:子ども向けのイヤーマフ
感覚は主観的なものですから、自分には何でもないことを苦痛に感じる人がいる、ということを理解するには想像力が必要になってきます。
大勢の人には何でもない音・振動・光などが苦痛に感じる、という人が現実にいます。
これはもう、「そういう人がいるのだ」と周りが了解する以外に、当事者の安寧はあり得ません。
今まで知らなかっただけでそういう問題は現実にあり、何より困っているのは当事者だと理解してください。
その前提で、学校と話し合っていきましょう。
「学校の仕組み」が合わないケース
次に、「学校の仕組み」が合わないケースです。
「集団生活が苦手」とか「1時間おきに違うことをしなければならないのが苦手」というと、「何を甘えているのだ!」「それじゃマトモな大人になれない」という感じで反発を覚える方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、本当にそれらは目くじら立てる必要があることでしょうか?
そういう人はそういう人で生きる道は必ずあるし、そうでなくてはおかしいはずです。
(そういう人を許さないような窮屈な社会でいいという人は、よっぽどのマゾヒストかしら?)
それに、「集団生活が苦手」を「歩けない」に変えたらどうですか?
「歩けない」と言っている人に「歩け」と言ったら、「はぁ? お前なに言ってんの?」と非難されますよね。
「集団生活が苦手」も「歩けない」も、本人にとって「できない」という意味では同じことです。
本人が苦痛と言っているのですから、まずはその声に耳を傾けるのが、大人のとるべき態度ではないでしょうか。
私自身、この歳になって、人が大勢いるところに行くととても疲れる、ということが分かりました。
そういう場所に行った後は、ぐったり寝込むくらい。
東京にいるころは平気だと思っていたんですが、恐らく、感覚を麻痺させて何でもないと思い込んでいたのでしょう。
今は、家族以外の人と何日も会わなくてもぜんぜん平気な自分がいて、驚いているところです。
もし、このことをもってして「お前はダメな奴だ」という人がいたとしたら、「はぁ?」ですよ。
学校はユニバーサルデザイン的であるべきでは?
そもそもですよ、今ある学校(公教育)の環境や仕組みというのは、どうなんでしょうか?
学校は「全員で一斉に」というスタイルで、いわば「軍隊式」です。
軍隊には誰もが入れるわけではありません。
使い物にならないとされる人ははじかれます。
ということはですよ、ユニバーサルデザイン的には設計されていない組織といえます。
闘うために最適化された組織ですからね。
学校は富国強兵のためにできた側面が強いので、かつては軍隊式でも違和感がなかったのかもしれません。
が、2019年の今でもそれでいいのかな? と根本的な疑問があります。
義務教育というならなおさら、インクルーシブ教育とか謳うならなおさら、学校の仕組みはユニバーサルデザイン的でなくてはいけないはずでは? と思うのです。
既存の学校の仕組みが「合わない」と表明してくれる子がいるのは、むしろ希望だと私などは感じます。
ちゃんと自分の違和感を伝えてくれているのですから!
そういう声を、「わがまま」とか「甘え」とか「異例」と切って捨てるようでは、日本に未来はないんじゃないでしょうかねぇ。
「不適応型」は環境を変えれば解決することも
話が脱線してしまいましたが、現実的な対応として、「不適応型」の人は環境を変えるだけでOKという場合もあります。
(注:すべての方に当てはまるわけではありません)
たとえば、教室に何十人もの人と一緒にいることが苦手ならば、空き教室を「避難場所」として用意し、本人が好きな時にそこに行けて、いつでも教室に戻れるとすれば、かなり安心感が出てくるでしょう。
どういう状態ならその子が落ち着けるのかを、学校側と協力して探せるといいですね。
学校側にまるで理解がない場合は、養護教諭や医師、スクールカウンセラーなどの専門家に協力してもらうと、いいかもしれません。
集団生活が苦手というお子さんなら、本人が休みたいという時は休ませる、気が進まない行事には参加しない、というだけでだいぶ違うかもしれません。(苦手の程度にもよりますが)
いずれにしても、学校に行くか/行かないかのオール・オア・ナッシング的思考で、やみくもに学校に戻そうとするのではなく、本人がそもそも学校に行きたがっているのか、環境が変われば行きたいと思っているのかを聞いて、それに沿うように対応するのがポイントです。
・まず、何に困っているのかを把握し
・何を変えれば問題が解決するのかを検討する
という段階を踏んで対応しましょう。
この時、本人も保護者も過度に申し訳なく思う必要はありません。
子どもによって違うのは当たり前のことで、合理的な範囲で最大限努力するのは学校のつとめです。
そこを怠るということは、子どもの義務教育を受ける権利を侵害していることになりますよね。
どうしてもできないことはあるので満額回答を得られるとは限りませんが、「言うのはタダ」ですから、まずは学校側に伝えつつ、こちらも柔軟に構えてできることを惜しまず、というかたちでトライしてみてはどうでしょうか。
とはいえ、現実問題として、これら対応を教師や他の児童・生徒がどう受け止めるかは、課題として残ります。
「ずるい」「特別扱い」と、ネガティブにとらえられることはあり得ます。
(「全員が一斉に」がネガ反転してしまう、まさに学校的病理とも言えるわけですが……)
第一歩は、本人とすぐそばにいる大人がどう捉えるか、です。
「特別扱い」という言葉が浮かびそうになったら、「合理的配慮」と読みかえるところから、はじめてみてはどうでしょうか。
不登校は「きっかけ」でその後の対応がかなり変わる
不登校は、
・子どもの年齢
・不登校の原因
・学校との関係性、関わりの度合い
・葛藤の有無
・家庭の状況
など、変数がとても多いので、ひとくくりにできないところがあります。
私がそのことに気づいたのは、不登校の豊穣なる世界に足を踏み入れてからのことでした。
外から見たら「不登校」とひとくくりですが、内側は他のコミュニティと同様、ひと色ではありません。
「オタク」もいろいろで、雑にまとめられると当事者はムッとする……というのと同じで、ムッとするかどうかはともかく、まあ、違いはあるのです。
今回は「不登校になった理由・原因」にフォーカスして話を進めますね。
- 不登校の理由・原因は5つに分かれる(仮)
- そんなに力まなくてもいいじゃないですか
- 「自発型」は保護者がキーになる
- 高葛藤/ヴィクティム型ならではの苦しみ
- 答えの出ない問いで自分を責め続ける
- 本人にも理由がわからない「中動態型」は珍しくない
- 気持ちを整理する助けに
不登校の理由・原因は5つに分かれる(仮)
※その後、「不適応型」があることに気づいたので5つとしました。「不適応型」については、長くなるので別稿で書きます
不登校になった理由・原因は、大きく分けると5つでしょうか。
一つ目は、自主的に学校に行かない道を選ぶ「自発型」。
二つ目は、いじめや学校とのトラブルで行かない/行けなくなる「高葛藤/ヴィクティム(犠牲者・被害者)型」。
三つ目は、学校の環境・仕組みが合わなくて行けなくなる「不適応型」。
四つ目は、本人にも理由がうまく説明できない「中動態型」。
五つ目は、保護者が学校に行かせない「保護者主導型」。
(他にもあるよという方はコメントでお知らせください)
五つ目の「保護者主導型」は、保護者も本人も学校に行かないことに積極的なケースは「自発型」に分類し、本人の意志に反して保護者が行かせないケースと定義します。これは、一般的な不登校マターの範疇を超えた話を含むので(どちらかというと児相案件?)、今回は触れません。
「自発型」「高葛藤/ヴィクティム型」「不適応型」「中動態型」は、同じ不登校でもまったく異なる様相を呈します。
このことに気づかされたのは、2つのタイミングがきっかけでした。
そんなに力まなくてもいいじゃないですか
まずひとつめのタイミングは、このブログを立ち上げて間もない時でした。
この時気づいたのが、「自発型」と「高葛藤/ヴィクティム型」の違いでした。
わたしのブログを読んでくれた不登校経験者から、「そんなに力まなくてもいいんじゃないですか」と、たしなめられたことがありました。
私の頭は「えっ?? それってどういうこと???」とはてなマークがいっぱいに。
当時の私は、力んだつもりはなくて、起きたことと、それにともなう私たちの思いを書いていただけ、という感覚だったからです。
その不登校経験者の方は、「なぜかわからないけど学校に行きたくない」で小学校低学年の時に学校に行かなくなった人でした。
先の分類だと「中動態型」ですね。
そういう人から見ると、私がここで書き綴っていることは、鼻息荒く見えるんだなーとしばらくしてから気づいたのでした。
私は傷ついたんだと思います。
いじめを解決しようとしない学校や教育委員会への怒りや悲しみを、「あなたが間違っている」「そんなに怒らなくても」と言われたような気持ちになったのでしょう。
(もちろん、その人にそういう意図があったわけではないと思います)
このように、学校との間に「対立」や「葛藤」があるかどうかで、不登校のおもむきはかなり違ってきます。
「自発型」は保護者がキーになる
「自発型」は本人が行かないことを積極的に選んでいるので、保護者が不登校を問題だと思わなければ、かなりスムーズに事が運ぶでしょう。
学校に対しても余裕のある対応ができ、学校と友好関係を保つことも十分可能です。
保護者が不登校を問題だと考えていると、いろいろこじらせて時間がかかる傾向にあります。
不登校は、学校に行かない子どもが問題なのではなくて、問題化する大人の問題だということがクリアに分かってしまうケースと言えます。
というと、不登校を受け止められない大人は、ダメ出しされているように感じてしまうでしょうか。
そうではありません。
受け止められないという思いをなかったことにはできないですからね。
そこから出発していきましょう。
まずは「仲間」と「情報」です。
高葛藤/ヴィクティム型ならではの苦しみ
※わが家がこのタイプのため、他よりも詳細に書いています。ご了承ください
学校との間に、対立や葛藤があった場合は、かなり苦しい思いをします。
具体的には、
・いじめ
・教師の子どもへの接し方に明らかな問題がある
といったことです。
集団生活であることを優先される学校では、トラブルは起きて当たり前。
だから、トラブルが起きること自体は問題ではありません。
問題は、そのトラブルにどう対応するか、です。
「これはおかしいですよね」「解決しないといけない問題ですよね」という認識が当事者の間で一致していればそんなにストレスはありません。
問題解決に向かって、協力できるからです。
が、そこが話し合い不能なほどに食い違ってしまうと、悲惨です。
わが家のケースはまさにそうで、このブログの初期のポストを読み返すと
学校側の理屈は、「考え方の違い」で済ませてほしくない理屈だと感じました。
これが通るならば、正義はないことになります。
都合の悪いことは「ご指摘にはあたらない」ですべてはねつけている安倍政権に似ていると感じました。
と書いていました、私。
それでも、問題を解決したいと思うならば、もう一方の当事者である学校に協力してもらうしかありません。
しかしこれが、簡単ではない。
気乗りしない人、同じ方向を見ようともしてくれない人に協力してもらうのって、かなり難しいですよね。
ニュースとしてたびたび報道されている、いじめ自殺の後の学校・教育委員会側のマズい対応を見ると、それがよくわかると思います。
死者が出ていてもこれなのですから、そこまで行かないトラブルの場合も、同じかもっとひどい蓋然性は高いでしょう。
(もちろん、誠実に対応する学校もたくさんあるでしょう<そう願いたい>。そういうケースは報道されないから知らないだけ<そう願いたい>)
答えの出ない問いで自分を責め続ける
それに加えて、
絶えず、
・自分たちにも問題があったのかもしれない
・なぜ学校側はあのような対応をするのだろうか
という、なかなか答えの出ない思いを抱えることになります。
ドラマ「アンナチュラル」で井浦新さん演じる中堂系が、「永遠に答えの出ない問いを繰り返す人生」の話をしていましたが、ちょっと似ているなぁ、と感じました。
今、当時の担任や校長、そして加害児童に問うても、たぶん戸惑うだけではかばかしい答えは返ってこないでしょうから……。
これは、かなり長期間苦しむことになります。
わが家は丸2年経とうとしていますが、この苦しみからはまだまだ解放されていませんし、先も見えないのが正直なところです。
だから、そのことをもってして、学校に対して偏った見方をしているとか、感情的だというふうに言われてしまうと、本当につらいんですよね。
私だって、学校とはニュートラルにフラットにやりたいですよ。
でも、それはとても難しい。
たとえば、自分にとって大切な人に暴力をふるった相手に対して冷静になれるでしょうか?
そして、そういうことがあった時に、「暴力をふるわれた側にも問題がある」と言われたらどうでしょう。
それと同じ感じなのですよ。
本人にも理由がわからない「中動態型」は珍しくない
二つ目のタイミングは、『不登校新聞』488号に掲載された、哲学者・國分功一郎さんのインタビューを読んだ時です。
このインタビューを読んで、不登校にも「中動態型」があることを知りました。
学校に行けない理由を本人がうまく説明できない「中動態型」は、不登校の世界では珍しくはありません。
が、理由がはっきりしないので、本人も苦しむし、周りの人も困惑しがちです。
このインタビューは、そういう人にぜひ読んでいただきたいです。
國分さんは、話題になった『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)という著書で、小林秀雄賞を受賞されています。
とても面白い本です。
中動態というのは、言語の世界で使われる受動態でも能動態でもない「態」で、古代の言語にあった概念です。
何かが自分の外側で完結するか、内側で完結するか、で行為を分けていたというのです。
「する」(能動)/「される」(受動)とは異なる対立軸ですね。
また、「意志」についての言及も興味深く、今の私たちは、人間が何かをしようとする時は「意志」にもとづいているはずだと信じて疑いません。
しかし、古代にはなかった「意志」という概念は、そこまで自明なものなのか? と問うているのです。
これはテレビ番組「100分de名著」(NHK Eテレ)で國分さんが例に出していたのですが、不良にカツアゲされてお金を出すとき、これは能動なのか? 受動なのか? という問題で考えることができます。
たしかに、財布をひらいてお金を出して不良に渡している主体はほかでもない自分です。
しかし、自分の意志ではなく、不良に脅されて仕方なくやっていることなわけです。
受動でも能動でもない。
自分の意志ではないし、自分の責任と言われても困ってしまう状態。
そういうことって、珍しくないですよね。
「自己責任論」が幅を利かす今の世の中では、このような状態に置かれて苦しんでいる人が多いのではないでしょうか。
不登校においては、「学校に行くよと言ったものの、実際には行けない」という事態は珍しくありません。
ここに、おなじみの「意志」や「責任」という言葉を持ち込むと、本人を責めることしかできなくなってしまいます。
矛盾しているように感じられるかもしれませんが、本人にとっては、「学校に行く」という言葉に嘘はないし、「行けない」という状態もまた真実なのです。
依存症患者のことを、よく「意志が弱いからだ」と責めるケースがありますが、依存症は意志でどうこうできるものではありません。
「やめたい」という思いに嘘はなく、「やめられない」という状態も真実なのです。
不登校にも同じようなケースがあるのです。
(注:依存症は病気であり治療で改善できることがはっきりしていますが、不登校は病気ではありませんので、そこは混同しないようお願いします)
この矛盾を受け止められるかどうかが、「中動態型」のポイントかなと思います。
知っておくと対応を誤らなくて済む大事なポイントでもあります。
気持ちを整理する助けに
不登校界隈の発信を見ていて、前からモヤモヤしていたことがありました。
このモヤモヤは何だろう? と考えているうちに、「不登校になったきっかけによって、見えている景色がずいぶん違っているのかも」ということに気づきました。
わたし自身、未就学の子どもが2人控えているので、もし彼らが学校に行きたいとなったときに、信頼感ゼロの学校とどう相対したらいいのか、という現実的な課題を抱えています。
学校との葛藤がなければ、おそらく抱えずに済んだ課題でしょう。
そんな自分の気持ちを整理するために書きました。
不登校の当事者や関係者の人には、問題点やポイントをクリアにする一助になれば御の字ですし、その周りにいる人たちには、こういうことを知っておいてもらえるとうれしいですね。
どうする? 学校から不登校家庭へのアプローチ
もう昨年の春のことになってしまいますが、新年度(2018年4月)に学校から連絡がありました。
不登校中の、学校からのアプローチ。
不登校界隈ではだれもが一度は経験することのようですが……。
いじめ問題渦中の担任と校長が異動に
2018年4月に、長男の1・2年次の担任と当時の校長は異動になりました。
長男へのいじめの一件が響いたのか(残念ながらたぶんそうではないに座布団10枚……)、年数的にそろそろだったのかは不明ですが、とにかく異動しました。
新しい担任と校長が着任したタイミングで、学校側から「あいさつに行きたい」と連絡があったのです。
学校に行っている人からすると当たり前のことで、むしろ丁寧な対応に映ると思います。
が、学校に行っていない側からすると、これは結構なプレッシャーになる場合が多いのです。
アプローチする側/される側の「ズレ」
似たような問題として、『不登校新聞』で「プリントお届け問題どうしてる?」という特集がありましたが、「うれしい」という声は少数派のようです。
クラスメイトや部活仲間の自発的なものも含めての、学校・クラスメイト側からのアプローチというのは、一筋縄ではいかないものがあります。
アプローチする側は、純粋に心配だったり、心から“元通り”になってほしい、元気になってほしいという善意だったりが、その行動のもとになっているでしょう。
(現状、まだまだ不登校が教師や管理職の失点と捉えられることの多い学校現場においては、教師のモチベーションは必ずしも上記のようなものではない可能性はありますが)
学校に行っていない側がどう受け止めるかは、千差万別です。
不登校というのは、子どもの年齢・不登校の原因・学校との関係性・関わりの度合い・葛藤の有無・家族の状況など、変数がとても多いからです。
当然、アプローチ自体が負担になる場合もあります。
・何て言われるんだろう。
・本当はどう思っているんだろう。
・学校に行っていないことが負い目だ。
・(いろいろな理由から)クラスメイトにも、友だちにも、今は会いたくない。
・責められるかもしれない。
・ズルいと思われているかもしれない。
・自分がダメだということを思い知らされる。
・とにかく会いたくない。
……etc.
わがやの場合
わたしたち保護者は、正直に告白してしまうと「今は接すること自体が負担だなぁ……」「明日の夕方って、ずいぶん突然だな」と感じました。
長男はまた別で、単純に新しい担任の先生がどんな人が興味が湧いたようです。
結局は、長男と夫とわたしで相談して、来てもらうことにしました。
返事かたがた、一枚の文書をFAXで送りました。
青木村教育委員会
●●様
平成30年4月5日(木)
昨日はお電話をありがとうございました。
その後、長男も含めて家族で話し合いました。
長男の希望により、本日4月5日(木)17:30頃に、先生方に拙宅までお越しいただきたく、お返事差し上げる次第です。
面会にあたって、何点かお願いがございます。●弟たちが幼稚園入園前で在宅中であることと、もっとも慌ただしい時間帯なので、恐れ入りますが、玄関先でのご挨拶のみとさせていただきますようご容赦ください。
●長男本人に改めて確認しましたが、現時点で学校に戻る気持ちはないとのことです。私たち保護者としても、学校に戻したい気持ちはありません。面会にあたって、学校へ戻ることを促す内容はお控えいただけますようお願いいたします。
私たち保護者は、長男の希望であるならば、一日も登校しないまま義務教育課程を終えても構わないと考えています。
家庭を中心に、周囲の方々のご協力を仰ぎながら、長男の成長をサポートしていくつもりです。
学校教育に携わられている先生方には承服しかねることかもしれませんが、当事者である本人の意思を尊重した上で、われわれ保護者が熟慮した結果、このように考えるに至りました。
おかげさまで、長男は実にのびのびと日々を過ごしています。われわれも、さまざまなことに関心を寄せ、心を動かし、できることがどんどん増えていく長男の姿を間近で見ていられる幸せを噛みしめているところです。
また、昨日お電話を頂戴したあと、夫も私も当時の怒りや悲しみといった感情が生々しくよみがえって、ある種のフラッシュバックのような感覚におそわれました。どうしても必要な事務的なやりとり以外は、ご連絡はご遠慮いただきたいのが本音です。
これらのことを尊重していただいた上で、今後は適宜、必要なときにこちらからご相談等お願いできれば幸いに存じます。
どうぞよろしくお願いいたします。
一枚の文書
なぜこんなものを送ったかと言えば、露骨に言ってしまえば、釘を刺しておきたかったからです。
今までの経緯を考えると、学校側にわたしたちの考えや意図がきちんと伝わっているかは、かなり怪しいと感じていました。
それに、いちばん避けたかったのは、長男に直接「学校においで」と言われることでした。
いじめを解決しようとしないのに「学校に戻ってほしいんです」と具体的なプランを提案されてしまった経緯があるので、「学校においで」と言われる可能性は高いだろうなと直感的に頭に浮かびました。
学校に行かなくなった原因であるいじめが解決していないのに「学校においで」というのは、とても奇妙な話です。
そもそも現状では本人に学校に行く気がなく、その気持ちは尊重されていないことになります。
わたしたち保護者は、学校の関係者にはとてもじゃないけれど会いたくはありません。
学校の敷地ですら、足を踏み入れたくない……。
はっきり言って、トラウマです。
正直、ここまで親であるわたしたちが傷つくとは思っていませんでした。
そのあたりの話は、最近出版されて話題になったこの本が生々しく伝えてくれそうです。
(買ったのですが、気持ち的にまだ読めないでいます)
そして当日。
こんな文書を送ってくる保護者は面倒に違いないと思われたのか、おそるおそるという雰囲気で、本当にあいさつのみだったそうです。
(わたしは不在だったので夫からの伝聞です)
かたちばかりの「待ってるよ」
学校側としては、何もしないのはマズいということもあるのかもしれませんね。
まだまだ学校現場では、不登校は「あってはならない」問題行動と受け止められているようですから……。
不登校じゃなくなってほしいのが本音だと思います。
でも、信頼関係が損なわれているところに、学校側の“思い”主体でアクションを起こされても、逆効果なのではないかと。
わたしたちにとっては、
・学校側が誤りを認めて解決に動く(今となってはもう不可能ですが……)
・わたしたちの考え・スタンスを尊重する
までは、対話のスタートラインに立てないというのが正直なところです。
これは出典を失念してしまったのですが、部活が原因で学校に行かなくなった中学生が、部活の仲間からかたちばかりの 「待ってるよ」という手紙をもらってつらかった、という体験談を読んだことがあります。
一般的には美談になりますが、受け取る側にはなかなかに残酷です。
正解はないけれど……
今回のことは、Facebook上の不登校オンラインサロンでも共有して、いろんな人の意見や体験を教えてもらえたのはよかったです。
学校からの働きかけに身構える保護者とは対照的に、子どもはあっさり「ちょっと行ってみようかな」となって、久しぶりに学校に行こうかという流れになったご家庭がありました。
当たり前ですが、子どもはまた別の感覚を持っています。
その保護者の方は、「行っても行かなくても、どっちでもいいんだ」と肩の力が抜けたと教えてくれました。
また、学校に行きたいときだけ行っているお子さんは、「学校は楽しいところ」と言っていました。
自分が行きたいと思ったときに行って、行けば同い年の友だちとワイワイできる。
詳しくは聞いていませんが、学校に毎日通っていないことをニュートラルに受け止められるクラスメイトに恵まれていることもあるのかもしれませんね。
これも、目からうろこでした。
わたしたちは今回こういうやり方をとりましたが、もちろんこれが正解とは考えていません。
あくまで、さしあたっての対応に過ぎません。
こんな文書を送りつけるなんて、「面倒でキツい保護者だよね~」と自虐的に思うこともあります。
葛藤は常にあります。
開拓者の醍醐味
学校に行かないという選択をすると、このように、正解のない事象がいろいろと起きてきます。
うーん、大変だ! 面倒だ!
でも、おもしろい。
だって、道なき道を、自分たちで開拓していくんですよ。
わたしたちなりの答えを見出していくということは、かけがえのない時間だと感じています。
もちろん、保護者であるわたしたちがそう思っているだけで、長男はまた違った感じ方をしているでしょう。
相手を喜ばせなくていい
正解はないけれど、それでも、ほんとうの気持ちを伝えることが、いちばん大切なことなのかなと思います。
たとえそれが相手を喜ばせないものであっても、です。
対話はそこからしかはじまらないし、対話がはじまらなければ理解もしあえないからです。
時間が経って状況や思いが変わることがあっても、ほんとうの気持ちはいつでも伝えられるように、見失わないようにしていたいです。
中間教室に行ってみたよ
ずいぶんごぶさたしております。
「あ、これ書きたいかも!」というテーマはちょこちょこあったのですが、いかんせんわが家の脱学校生活に変化がないもので、なかなか書けずにいました。
taboくんはゲーム、読書、アニメやテレビ番組鑑賞、書店や図書館へ行くなど、基本的にやりたいことをやりつつ、少しずつ家の手伝いもやる毎日です。
夏の間は、村営プールによく通いました。
いわゆる学習的なことは一切やっていません。
(ときどき夫が抜き打ちで九九を振って本人焦る、というようなことはありますが)
そんな暮らしに少し変化があったので、久しぶりに書きます。
- 中間教室に子どもを通わせている人に会う
- 「学校復帰」は過去の話?
- 自然豊かなA教室
- いちばん近いB教室
- 元保育園のC教室
- 「その子に応じた対応」 が原則
- なぜこんなに「学校」と違うのか?
- 居場所が増えるに越したことはない
中間教室に子どもを通わせている人に会う
taboくんと同学年で学校に行っていないお子さんのお母さんと、先日ばったり会いました。
そこのお子さんは、車で1時間以上かかるフリースクール的な場所に通っているという話までは聞いていたのですが、その後どうなっていたかは知りませんでした。
聞けば、上田市内の中間教室に通っているとのこと。
非常にフィットしてほぼ毎日のように通っていると聞いて、「よかったなぁ」と嬉しく思いました。
中間教室って何? ですよね。
写真:古いけれど居心地はなかなかです
中間教室というのは、どうも長野県内独特の用語のようですね。
上田市では「ふれあい教室」と呼ばれています。
佐久市だと「チャレンジ教室」だそうです。
(いや、別にチャレンジしなくていいんじゃないかな……と思うのはわたしだけ?)
おそらく全国的には、「適応指導教室」というような名前で呼ばれているのではないでしょうか。
(適応指導……この名称も凄まじいものがありますね。いや、別に適応しなくてもいいし、指導されなくてもいいんじゃないかな、と思うのは<以下同文>)
「上田市中間教室設置要綱」から引用すると――
小・中学校の不登校の児童生徒を対象に、学校復帰に向けて集団適応指導、学習指導、教育相談等(以下「適応指導等」という。)を行うことを目的として中間教室を設置する。
とのことです。
「学校復帰に向けて」と明記されていますね。
中間教室のことは、taboくんが学校に行かなくなってすぐのタイミングで、知ってはいました。
が、「学校復帰に向けて」という点がtaboくん本人も、わたしたち保護者も求めていなかったので、早々に選択肢から外していました。
「学校復帰」は過去の話?
実際に行っている人の話を聞くと、教室によって違うということがわかりました。
これは推測ですが、「学校復帰を第一にしない」と文科省が通達を出したので、その影響もあるのかもしれません。
いずれにしても、現場の運用では学校復帰が最終目標になっていないのはとてもいいことだなと思いました。
教えてもらった話に加えて、こちらでも調べられることは調べてみました。
本人も、テレビ番組『ウワサの保護者会』の不登校スペシャルで、オルタナティブスクールやデモクラティックスクールの様子を見て、「こういう感じなら行きたい」と言っていたので、「暇つぶしになりそうだから行きたい」とのこと。
(暇つぶしって……すごいなオイ。そんな君を誇りに思うぞ)
結局は見学に行かないと何とも言えないということがすぐわかり、村の教育委員会経由で見学を申し込みました。
そして、上田市内にある中間教室5か所のうち、通えそうな3か所の見学に、夫とtaboくんで行ってきました。
わたしも同行する予定だったんですが、三男が風邪をひいてしまい留守番と相成りました。
そんなわけで、側聞レポートになってしまうことをお許しください。
自然豊かなA教室
まず、自然豊かな場所にあるA教室から。
通うとしたらわが家からはちょっと遠いのですが、自然の中で過ごすのが好きなお子さんにはたまらないロケーションです。
中間教室の建物はログハウスで、なんと薪ストーブがあります。
かつて石油アレルギーのお子さんが通っていたそうで、それで薪ストーブなんだとか。
そこまで配慮してくれるのは、すごいですね。
(学校だったら、そこまで配慮してくれるだろうか……)
ただ、スペースはとても狭いので、通う子どもが複数いて別々のことをやりたいとなると多少配慮が必要になりそうです。
いちばん近いB教室
次は、わが家からいちばん近いB教室。
ここは地域の公民館のような建物を流用しており、大きい部屋と小さい部屋がひとつずつあります。
ここも、A教室と同じで、決して広いとは言えないので、お子さんによっては過ごしにくいと感じるかもしれませんね。
しかも指導員の方に「慣れたら学習に持っていきたい」的なことを言われたそうで、わりと学習系の教室なのかなと夫は感じたようです。
とはいえ、わが家の方針を伝えたら、それはそれで尊重してくれる雰囲気だったことも付け加えておきます。
元保育園のC教室
最後に、上田市中心部に近いC教室。
こちらは保育園だった建物を流用しており、スペース的にはかなり余裕があります。
部屋がいくつかあり、ホールや園庭もあるので、いろんなことができます。
ホールには卓球台が2台とバレーボール用のネット、園庭にはバスケットボールのゴールが1つあります。
はっきり言ってかなり古いですが、少し変わった設計で、開放感があって不思議と居心地のいい建物です。
taboくんが東京で通っていた保育園もかなり古い建物で、同じようなほっとする感覚がありました。
taboくんは、この教室がいちばん気に入ったようです。
その理由は、開放感とマンガ本があること。
本棚の漫画『ドラえもん』を読みふけって、「そろそろ行くよ」と声を掛けられるまで夢中になっていたようです。
写真:本棚に並ぶ漫画は、昭和世代にはグッとくるラインナップです。わたしが小学生の時に読んだ伝記物まで! 懐かしいなぁ
「その子に応じた対応」 が原則
今回、案内してくださったのは上田市の教育相談所の方でした。
わたしは電話で話しただけですが、とても穏やかで誠実さのにじみ出る、話しやすい方でした。
相談しやすい雰囲気です。
各教室ともそれぞれに環境、施設、指導員の個性によって毛色は違うものの、一貫しているのは「その子その子に応じた対応をする」という点でした。
開室時間が決まっているとか、上履きは履いてねとか、合理性のある最低限のルールめいたことがあるだけで、いわゆる校則的なことだとか、指示が出るといったようなことは一切ありません。
過去には、ずーーーっとゲームをやっているお子さんもいたとか。
これって、すごくないですか?
形式的には、ほぼほぼフリースクールと同じなのですから。
(フリースクールとは成り立ちや目的が違うので同一視はできませんが)
しかも、公設ですから無料で通えます。
なぜこんなに「学校」と違うのか?
いわゆる学校とあまりに違う、それもグラデーションを感じさせる違いではなく、ほとんど異次元と言っていいほどの違いです。
見学に行った夫は驚いて「学校の感じと中間教室の感じにあまりに隔たりがあるんですが、どうして学校はあんな感じなんですか?」と聞いたそうです。
(夫らしい質問だ……)
すると、「学校は学習指導要領に則って運営されているからです」と答えが返ってきたそうです。
中間教室を学習指導要領通りにやろうとするのは不可能です。
だから、おのずと違いが出てしまうのでしょう。
学校に行けない/行かないということに対して、考え方がだいぶ変わってきたということの証左なのかもしれません。
不登校が「問題行動」としか考えられていなかった時代には、ここまで自由な運営はできなかったのかもしれないと想像します。
①大勢に効率よく
②極力地域差・教員による差が出ないように
教育を施すとなると、学習指導要領が存在する意味もあるのかもしれません。
が、「教育とは何か?」を突き詰めて考えていくと、現場の裁量が少なく、子ども個人のモチベーションや個性といった面倒な変数はとりあえずカウントせず、学習指導要領に頼らざるを得ない教育というのは、かける労力の割にアチーブメントは少なく、何より教育の本義からかけ離れていくような気がします。
高度経済成長期で、ある程度の教育が備わった人材が大量に必要だった時代にはこのような教育も意味があった……という言説も、検証が必要なのではないかと思います。(学術的に検証している方がいたら知りたい)
そもそも、「人材」という言葉自体がどうなんでしょうか。
人間は、じゃがいもや人参のようにおとなしくカレーになってくれるわけでもなく、文句も言わず家の一部になってくれる材木でもないのですから。
居場所が増えるに越したことはない
見学に行ったその日に、教育長に連絡を取って体験通所(?)を申し込みました。
翌朝には教育長から折り返し連絡があり、いつからでもどうぞということだったので、さっそくC教室に連絡をとり、その日の午前中から通うことになりました。
(青木村の教育長は仕事が早いのです)
今のところ2日通いましたが、本人的には満足みたいです。
taboくんは「フリースクール」と呼んでいますが、まあそこはご愛敬ということで。
保護者としては、行きたいという限りは、行かせられるようにサポートしていきたいと思います。
中間教室に通うことになったというと、「よかったね!」と言ってもらえることが多くてありがたいのですが、もしかしたら「よかった」の意味合いが少し違うかもしれない、とも感じています。
わがやでは、居場所が増えるに越したことはなかろう、という感じでしか捉えていなくて、本人が望むならばずっと家で過ごしていても一向に構わないのです。
学校の代替物、「通学」できる場所ができてよかった、とは考えていません。
それにしても、上田市の中間教室がここまで縛りのないかたちで運営するに至った経緯には、大変興味があります。
教育委員会に取材しようかしら。
また新たなお話を聞けたら、こちらでレポートいたします。
不登校に悩む人、必読!『ありのままで ~しあわせな不登校のすごしかた~』(無料配布)が手元に届きました
わたしは、Facebookオンラインサロン「お母さんのがっこう365」に入っています。
《お母さん》とついていますが、お母さんだけでなく、お父さんでも、また不登校などに関心のある大人も入ることができます。
その主宰者の吉田晃子(よっぴー)さん、星山海琳(まりん)さん母娘から、すてきな冊子が届きました。
それがこちら↓
喫茶店で読んでいたので、紙ナプキンを細くちぎってしおり代わりにしました。 右どなりの丸い紙は、よっぴーさん・まりんさんからのお便りです。とても素敵でした♪
この冊子は、NPO法人自由創造ラボたんぽぽがクラウドファンディングを募って作成し、なんと無料配布しているものです。
不登校や教育について、いろんな方が寄稿しています。
https://labotanpopo.wixsite.com/labotanpopo
本文部分は著作権の関係で許可が必要なので、目次だけ……。
さっそく、読んでみました。
まず驚いたのは、不登校まわりや関連領域で活動している人がこんなにも大勢いるということ。
みなさん草の根的に、自分ができること、やりたいことをやっています。
なんだか、それだけでも心強いですよね。
このバリエーション豊かな文章の中から、わたしの印象に残ったところを紹介していきますね。(敬称は省略します)
「あなたはあなたのままでいい」前川喜平(前文部科学省事務次官)
前川さんは、「学ぶ」ということ、「大人になるために必要なこと」を平易な言葉で語ってくれています。
誰かから話を聞いて「へぇ~」と思うことがあったら その分、
あなたは気づかないうちに
たしかに賢くなっているんです。
(中略)
ゆっくり、自分のペースで、
学びたいところで、学んでいけばいいんです。
あなたが学びたいように学んでいけばいいんです。
短い詩のような文章はさらっと読めます。
「ふ~ん」と流してしまいそうなくらい、シンプルな内容です。
わたしには、長男のふだんの姿が自然と浮かんできて、ああ、本当にその通りだなと感じました。
学ぶことについて言葉を尽くそうと思えばいくらでも尽くせるのだろうけれど、煎じ詰めればこれで済んでしまうんですよね。
そんなことに気づかされました。
「白いご飯を食べられなくても行きていける!」田中洋輔(NPO法人D.Live代表理事)
白米が嫌いな力士・炎鵬関の話を枕に、これはまるで不登校と同じだと語っています。
「日本人なら白米が好き」と疑いなく考えてしまいますが、炎鵬関はそうではない。
田中さんは
僕は、「学校」は白米と同じだなと、思う。
みんな行って当たり前。みんな食べて当たり前。
(中略)
しかし、僕は思うのだ。
別に白米が食べられなくてもいいじゃないか、と。
(中略)
なにを食べても良いように、どこで学んでもいい。
と綴ります。
こういうアプローチは、ドキッとしますね。
ちなみに、ワインが飲めないフランス人もいると聞いたことがあります。
白米が食べられなくても、ワインが飲めなくても、そのことだけで困ったことになるわけじゃない。
食べ物はほかにあるし、飲み物もほかにある。
学校に通うということも、同じではないかと問いかけてくれます。
「ホームスクールという選択肢があることの素晴らしさ」ベンソン(進士)万里子(カナダ在住)
ベンソン家には3人の子どもがいます。
カナダはブリティッシュコロンビア州内で引っ越したときに、長男が通う学校の教育方針、教育スタイルが変わってしまったことをきっかけに、ホームスクールという選択肢を選んだ一家です。
これが、日本しか知らないわたしのような人間からすると、いやもう夢の世界!
引っ越し前のソルトスプリング島のプログラムがすごい。
幼稚園~小5くらいまでを対象として、自然学習にアカデミックな要素(読み書きなどの基礎学力)を盛り込んだ、日本で言えば「森のようちえん」をお兄さん・お姉さん向けにしたようなプログラムなのです。
(このプログラムは<MYSEEC=Middle Years Shared Ecological Educational Centre>というそうです)
担任の先生が、自分のことを母鷲(マザーイーグル)に例えて、マザーイーグルが羽を広げたらすぐに彼女の前に集まるようにささやきます。
実際に、先生が腕を広げたら、騒いでいた子どもたちは静かになって、先生を囲んで座り、さまざまな物語に耳を傾ける……。
詩的ですね。
これだけで、ため息が出ます。
が、引っ越し後のペンダー島では日本と同じような教育方針で、長男くんは退屈しきってしまいます。
私たちは、子どもの読み書き能力などは、子どもの好奇心、または学びへの意欲が出てきたときに、ほぼ自動的に、かつ、深いレベルで浸透し、身につくものとして理解していた。一方で、担任の先生は、早期に基本的な学力をあげることに集中することで、より効率的な学習ができるという、いわゆる古典的な教育方法を実践していた。
ここ、すごくわかります。
わたしたちも、1年前まではここに出ている「担任の先生」と同じように考えていて、そこからベンソン夫妻のような考え方に変わっていったので、よくわかります。
で、ホームスクールプログラムを選ぶことになるのですが、この仕組みがまた面白いんです。
ホームスクールと学校教育のハイブリットでホーム《ラーニング》と呼ばれ、先生の監督のもとホームスクーリングを行い、希望があれば学校行事にも参加できるようになっています。
週1回、学校の一室でホームスクーラーが集まって交流する場もあります。
親も子どもも交流ができて、「自由な時間の過ごし方が印象的だった」と万里子さんは述べています。
極めつきは、教育補助金!
ホームラーニングプログラムに登録すると、お金が出るのです。
その理由が超まともで、「政府や学校側にとっては、その分子どもの教材費、設備費などの経費が節約できる」から。
涙ぐんでしまいますよ。
日本では、ホームスクール、ホームエデュケーションをやろうとすると、全部自腹です。
「義務教育は無償」といっても、それはあくまで学校に通う範囲の話なのです。
(無償と言いつついろいろ出費が嵩むのが日本の義務教育ですが、それはまたの機会に譲りましょう)
ああ、カナダに移住したい! と思ったのはここだけの話です。
「未来から考える教育 ~親が自分を愛することからはじまる子どもの成功哲学~」川本潤(未来の教育コンサルタント)
3人の子供を持って教育について取り組んできた結果、むしろ教育が必要なのは大人の方なのかもしれないと思うようになりました。
子どもたちは産まれた時から皆素晴らしく多くを教えてくれました。親として私にできることといったら、子どもの邪魔をしないこと、子どもの可能性を奪わないこと、その子らしさの輝きを曇らせないこと、それくらいしかありませんでした。
強いてあげるならば、こうなってほしいと願う人間像に、自分自身が近づいていく後姿を示すことくらいです。変容を厭わず挑戦を楽しんでいる大人が近くにいると、子どもも人生と生命を愛し続けることができるはずだからと。
ああ、首がもげそうなほどぶんぶん振ってしまいますよ。
わたしにはまだまだ不健全なところがあるので、ここに書かれているような後姿を見せられているとは言えませんが、それでもこうありたいと思います。
そして、子どもに対して「できること」よりも、「やらないこと」を考えたほうがいいのかもしれない、ということは実はとても大事な視点だと思います。
川本さんは、こう締めくくっています。
余談ですが、この原稿を書いている時点で長男は不登校ですが、それが何か問題だと思ったことはありません。成績や教育に関係なく、彼は偉大な存在だからです。
ああ、いいな。
みんな、beingしているだけで偉大な存在なんですよ。
「父親のつながる力と 多様な生き方・学び方」下村健士(ZOOM版教育と子育てを語り合うお父さんの会)
下村さんのお嬢さんが不登校になったとき、下村さんは親の会や教育について考える勉強会に参加して、とてもびっくりしたそうです。
その理由は、集まっているのがお母さんたちばかりだったから。
そうなんですよ。
わたしも親の会に入っていますが、見事にお母さんばかりですね。
父親は子どもの不登校にほぼ関わらないか、関わっても否定的な言葉を投げつけてむしろ害悪、というケースも珍しくはありません。
(もちろん、この下村さんのように、きちんと関わっている父親もいます)
この世で大切なことは、人と深いつながりを持っていることです。
信頼できる人がいるから、自分の問題を根本から見つめていくことができるのです。
すごくシンプルなことですが、このことを実感を伴って知っている人は意外に多くはないのかもしれません。
以前、こんな記事を書きました。
「仲間」はとても大事です。
そのことに、親の性別は関係ありません。
「思い通りにならないのが子育て。だからこそ、愛するということ」西野奈津子(一般社団法人ひまわり教室代表理事)
そして『愛する』ということは、自分から心が離れてしまった人の幸せを素直に祈ることのように思います。愛するということは人間にとって最も強くて冷静な感情に思えるのです。親が子どもに与える最高の思いは、この『愛する』ということだと思っています。
「愛する」という言葉をこんなに的確に表現した言葉をわたしは知りません。
いやむしろ、子どもに対して「愛」とか「愛する」とか軽々に使えないと思っていたのですよ。
つい最近、友人が「軽々しく愛を口にしましょう」と素敵な言葉を贈ってくれて、少し気持ちが変わっていたところでした。
話が飛びますが、宇多田ヒカルのニューアルバム『初恋』に収録されている「あなた」という曲も、びっくりするくらいストレートな愛がうたわれていて、びっくりしました(語彙が)。
この曲の「あなた」は恋人というより、おそらく子どもへの愛をうたった曲なのではないかと推察します。
西野さんの言葉に戻ります。
この文章の肝心なところは「自分から心が離れてしまった人の幸せを素直に祈る」というところでしょう。
相手がどう出るか、どうあるかは関係ない。
愛を叫ぶのではなく、幸せを祈る、という「抑制」も愛することの本質なのかもしれません。
「歩く花」吉田晃子・星山海琳(AI-am)
合わない場所で耐え抜くより自分を生きるのがいい、と考えている親や大人がそばにいることは、ほんとうに恵まれている。すごくうれしいことだ。
でも、そう教えてくれた、伝えてくれた相手のほとんどは、「自分を生きる」ってどんなことか、体感として知っているわけじゃない。だからわたしたちは、わたしがわたしとして生きる姿をみる親や大人たちへ、なまなましい、「自分を生きる」そのありかたを返していくことができる。そうしておたがいに、敬意を育んでいく。
これも、ドキッとしますね。
前段のような《理解ある》大人は、今はそれなりに増えてきていると思います。
が、子どもが大人の考える「自分を生きる」と違ってきたときに、それを受け入れられるか?
それは、その大人自身がほんとうの意味で「自分を生きる」ことをしていないと、おそらく葛藤が生まれるのだと思います。
「学校行きたくない? いいよ、いいよ」
子どものそばにいる大人が試されるのは、実はその先なのではないでしょうか。
冊子の入手方法
この冊子がほしい方は、以下のサイトからお求めください。
送料として300円がかかりますが、本体は無料です。
ひと色ではなく、それぞれの人の考えがいろんな言葉で綴られています。
自分の好きなフレーズをぜひ見つけてみてください!
「不登校」と「社会性」について考えてみた
社会性が身につかない?
学校に行っていないと「社会性が心配」と言われることがあります。
実際、ときどき言われます。
最初は「そうかも」なんて思っていたわたしですが、はっきりと「違う」と感じるようになりました。
「学校に行かないと社会性が育たない」という言葉の背景には、「学校」で「集団生活」を送らないと社会性が身につかない、という考え方があるようです。
辞書をひいてみた
そもそも、社会性とはどういう意味なのでしょう。
(不登校を考えるようになって、“そもそも”に立ち返ることが多くなりました。これは良かったことのひとつです)
『三省堂国語辞典<第七版>』(三省堂)をひいてみましょう。
社会性(名)
①社会のものごとに広く関心を持つ性格。「―をやしなう」
②社会一般に広く通じる性質。「―のある問題」
ふむふむ。
では、こういったことを養うには、「学校」「集団生活」は必須なのでしょうか?
わたしは、断固「否」だと考えます。
「通学」は当たり前ではない
unicef(ユニセフ)が2017年に発表した内容によると、世界中で学校に通えない学齢期の子どもは1億2300万人(11.5%)いるそうです。
(このうち40%が開発途上国、20%が紛争地に住む学齢期の子どもだそうです)
また、世界にはいろんな環境・ライフスタイルで暮らす子どもがいます。
オーストラリアでは、人口過疎地に住んでいて、周囲に通える学校がないので通信教育を受けているという子どもがいます。
自分の家の数キロ四方、ほかに民家がないというところに住む子どもがいます。
モンゴルなどにいる遊牧民の子どもはどうでしょうか?
では、こういった環境で育った子どもたちは、社会性が身につかないまま大人になるのでしょうか。
そんなことはないですよね。
(極度の貧困状態や紛争状態に置かれて、心身ともに甚大な影響を受けた子どもはまた別に考える必要がありますが、ここでは触れません)
それって「同調性」では?
日本で「社会性」が使われる場面は、実は「同調性」のことを指していることが多いと感じます。
社会にはいろんな人がいる。
大人になれば、やりたくないこともやらなければならない。
嫌な奴とも協力しないと生きていけない。
人の言うことを素直に聞けないと苦労する。(素直、というのもクセモノですね)
それに耐えるため、適応するために「社会性」を身につけなければならない。
そのために「集団生活」「学校」が必要なのだ。
こんな感じでしょうか。
「社会人」という言葉も独特ですね。
学校を卒業して仕事に就くと「社会人」と呼ばれます。
でも、仙人でもない限り、社会とまったく関わらずに生きている人は皆無です。
生まれたての赤ん坊だって、いや、まだお腹の中にいる赤ちゃんだって、子どもだって、寝たきりのお年寄りだって、みんな「社会人」であるはずです。
社会性という名の同調性を身につけて、いちばん得をするのは誰なのでしょうか?
言うことを聞かせる側の人間でしょう。
わたしは、そんな社会性ならば、身につけなくていいと考えます。
自分の外側への興味関心
学校に行かずとも、本来の意味での社会性は十分身につく、と長男を見ていて感じます。
そもそも、人間は社会をつくる動物です。(人間以外の動物や昆虫でもそういう種はありますね)
邪魔が入らない限り、放っておいても社会性をもつのが人間です。
事実、子どもを見ていると、自分の外側への興味関心がすごいですよね。
社会性というのは、まさにそういうことではないでしょうか。
それに、社会とどう関わっていくか・どれだけ関わっていくかは人によって濃淡はあって当然で、「かくあるべし」というものは本来ないはずです。(それこそ余計なお世話だ!)
押し付けられるものではなく、自分で選ぶことです。
もし、学校に行っていないことで「社会性ガー」という人が現れたら、その人がどういう意味で社会性という言葉を使っているのか、よくよく観察してみることをおすすめします。