【続編】学校の環境や仕組みが合わない不登校の「不適応型」
前の投稿で、不登校のきっかけは大きく分けて5つという話をしました。
最初は4つとしていて、その後5つと改めたので、書き足すと大長編になってしまい……。
そんなわけで、新たに加えた「不適応型」はこちらで書くことにしました。
さて、「不適応型」です。
本人がクラスメイトや教師と直接的にトラブルを抱えるわけではなく、学校の環境や仕組みになじめない、というのを「不適応型」と定義します。
- 「不適応」よりもニュートラルな言葉がほしいんだけど……
- 「感覚の過敏」で合わないケース
- 「学校の仕組み」が合わないケース
- 学校はユニバーサルデザイン的であるべきでは?
- 「不適応型」は環境を変えれば解決することも
「不適応」よりもニュートラルな言葉がほしいんだけど……
不適応という言葉はネガティブなイメージがあるので、もっとニュートラルな言葉があるといいのですが……思い浮かばないので、この言葉で話を進めさせてもらいます。
ニュアンスはなく、単純に「環境・仕組みが合わない」という状態を表現しているだけなので、ご承知おきください。
不適応型は、たとえば、
・先生が他の子を叱る声にショックを受けてしまって行けなくなった
・大人数と一緒にいるのが疲れる
・集団行動が苦手
・1時間おきに違うことをしなければならないのが苦痛
という感じです。
「感覚の過敏」で合わないケース
まず、「感覚の過敏」で合わないケースについて。
聴覚過敏の人が専用のイヤーマフをしてバスに乗っていて因縁をつけられた、という話を聞いたことがあります。
写真:子ども向けのイヤーマフ
感覚は主観的なものですから、自分には何でもないことを苦痛に感じる人がいる、ということを理解するには想像力が必要になってきます。
大勢の人には何でもない音・振動・光などが苦痛に感じる、という人が現実にいます。
これはもう、「そういう人がいるのだ」と周りが了解する以外に、当事者の安寧はあり得ません。
今まで知らなかっただけでそういう問題は現実にあり、何より困っているのは当事者だと理解してください。
その前提で、学校と話し合っていきましょう。
「学校の仕組み」が合わないケース
次に、「学校の仕組み」が合わないケースです。
「集団生活が苦手」とか「1時間おきに違うことをしなければならないのが苦手」というと、「何を甘えているのだ!」「それじゃマトモな大人になれない」という感じで反発を覚える方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、本当にそれらは目くじら立てる必要があることでしょうか?
そういう人はそういう人で生きる道は必ずあるし、そうでなくてはおかしいはずです。
(そういう人を許さないような窮屈な社会でいいという人は、よっぽどのマゾヒストかしら?)
それに、「集団生活が苦手」を「歩けない」に変えたらどうですか?
「歩けない」と言っている人に「歩け」と言ったら、「はぁ? お前なに言ってんの?」と非難されますよね。
「集団生活が苦手」も「歩けない」も、本人にとって「できない」という意味では同じことです。
本人が苦痛と言っているのですから、まずはその声に耳を傾けるのが、大人のとるべき態度ではないでしょうか。
私自身、この歳になって、人が大勢いるところに行くととても疲れる、ということが分かりました。
そういう場所に行った後は、ぐったり寝込むくらい。
東京にいるころは平気だと思っていたんですが、恐らく、感覚を麻痺させて何でもないと思い込んでいたのでしょう。
今は、家族以外の人と何日も会わなくてもぜんぜん平気な自分がいて、驚いているところです。
もし、このことをもってして「お前はダメな奴だ」という人がいたとしたら、「はぁ?」ですよ。
学校はユニバーサルデザイン的であるべきでは?
そもそもですよ、今ある学校(公教育)の環境や仕組みというのは、どうなんでしょうか?
学校は「全員で一斉に」というスタイルで、いわば「軍隊式」です。
軍隊には誰もが入れるわけではありません。
使い物にならないとされる人ははじかれます。
ということはですよ、ユニバーサルデザイン的には設計されていない組織といえます。
闘うために最適化された組織ですからね。
学校は富国強兵のためにできた側面が強いので、かつては軍隊式でも違和感がなかったのかもしれません。
が、2019年の今でもそれでいいのかな? と根本的な疑問があります。
義務教育というならなおさら、インクルーシブ教育とか謳うならなおさら、学校の仕組みはユニバーサルデザイン的でなくてはいけないはずでは? と思うのです。
既存の学校の仕組みが「合わない」と表明してくれる子がいるのは、むしろ希望だと私などは感じます。
ちゃんと自分の違和感を伝えてくれているのですから!
そういう声を、「わがまま」とか「甘え」とか「異例」と切って捨てるようでは、日本に未来はないんじゃないでしょうかねぇ。
「不適応型」は環境を変えれば解決することも
話が脱線してしまいましたが、現実的な対応として、「不適応型」の人は環境を変えるだけでOKという場合もあります。
(注:すべての方に当てはまるわけではありません)
たとえば、教室に何十人もの人と一緒にいることが苦手ならば、空き教室を「避難場所」として用意し、本人が好きな時にそこに行けて、いつでも教室に戻れるとすれば、かなり安心感が出てくるでしょう。
どういう状態ならその子が落ち着けるのかを、学校側と協力して探せるといいですね。
学校側にまるで理解がない場合は、養護教諭や医師、スクールカウンセラーなどの専門家に協力してもらうと、いいかもしれません。
集団生活が苦手というお子さんなら、本人が休みたいという時は休ませる、気が進まない行事には参加しない、というだけでだいぶ違うかもしれません。(苦手の程度にもよりますが)
いずれにしても、学校に行くか/行かないかのオール・オア・ナッシング的思考で、やみくもに学校に戻そうとするのではなく、本人がそもそも学校に行きたがっているのか、環境が変われば行きたいと思っているのかを聞いて、それに沿うように対応するのがポイントです。
・まず、何に困っているのかを把握し
・何を変えれば問題が解決するのかを検討する
という段階を踏んで対応しましょう。
この時、本人も保護者も過度に申し訳なく思う必要はありません。
子どもによって違うのは当たり前のことで、合理的な範囲で最大限努力するのは学校のつとめです。
そこを怠るということは、子どもの義務教育を受ける権利を侵害していることになりますよね。
どうしてもできないことはあるので満額回答を得られるとは限りませんが、「言うのはタダ」ですから、まずは学校側に伝えつつ、こちらも柔軟に構えてできることを惜しまず、というかたちでトライしてみてはどうでしょうか。
とはいえ、現実問題として、これら対応を教師や他の児童・生徒がどう受け止めるかは、課題として残ります。
「ずるい」「特別扱い」と、ネガティブにとらえられることはあり得ます。
(「全員が一斉に」がネガ反転してしまう、まさに学校的病理とも言えるわけですが……)
第一歩は、本人とすぐそばにいる大人がどう捉えるか、です。
「特別扱い」という言葉が浮かびそうになったら、「合理的配慮」と読みかえるところから、はじめてみてはどうでしょうか。