まだ学校で消耗してるの?

2017年5月より小2長男・脱学校につき、家族で「学校のない生活」を模索中

不登校は「きっかけ」でその後の対応がかなり変わる

 

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不登校は、

・子どもの年齢

・不登校の原因

・学校との関係性、関わりの度合い

・葛藤の有無

・家庭の状況

など、変数がとても多いので、ひとくくりにできないところがあります。

 

 

私がそのことに気づいたのは、不登校の豊穣なる世界に足を踏み入れてからのことでした。

外から見たら「不登校」とひとくくりですが、内側は他のコミュニティと同様、ひと色ではありません。

「オタク」もいろいろで、雑にまとめられると当事者はムッとする……というのと同じで、ムッとするかどうかはともかく、まあ、違いはあるのです。

 

 

今回は「不登校になった理由・原因」にフォーカスして話を進めますね。

 

 

 

 

 

 

不登校の理由・原因は5つに分かれる(仮) 

※その後、「不適応型」があることに気づいたので5つとしました。「不適応型」については、長くなるので別稿で書きます

不登校になった理由・原因は、大きく分けると5つでしょうか。

 

一つ目は、自主的に学校に行かない道を選ぶ「自発型」。

二つ目は、いじめや学校とのトラブルで行かない/行けなくなる「高葛藤/ヴィクティム(犠牲者・被害者)型」。

三つ目は、学校の環境・仕組みが合わなくて行けなくなる「不適応型」。

四つ目は、本人にも理由がうまく説明できない「中動態型」。

五つ目は、保護者が学校に行かせない「保護者主導型」。

(他にもあるよという方はコメントでお知らせください)

 

五つ目の「保護者主導型」は、保護者も本人も学校に行かないことに積極的なケースは「自発型」に分類し、本人の意志に反して保護者が行かせないケースと定義します。これは、一般的な不登校マターの範疇を超えた話を含むので(どちらかというと児相案件?)、今回は触れません。

 

「自発型」「高葛藤/ヴィクティム型」「不適応型」「中動態型」は、同じ不登校でもまったく異なる様相を呈します。

 

このことに気づかされたのは、2つのタイミングがきっかけでした。

 

 

 

そんなに力まなくてもいいじゃないですか

まずひとつめのタイミングは、このブログを立ち上げて間もない時でした。

この時気づいたのが、「自発型」と「高葛藤/ヴィクティム型」の違いでした。

 

わたしのブログを読んでくれた不登校経験者から、「そんなに力まなくてもいいんじゃないですか」と、たしなめられたことがありました。

 

私の頭は「えっ?? それってどういうこと???」とはてなマークがいっぱいに。

当時の私は、力んだつもりはなくて、起きたことと、それにともなう私たちの思いを書いていただけ、という感覚だったからです。

 

その不登校経験者の方は、「なぜかわからないけど学校に行きたくない」で小学校低学年の時に学校に行かなくなった人でした。

先の分類だと「中動態型」ですね。

そういう人から見ると、私がここで書き綴っていることは、鼻息荒く見えるんだなーとしばらくしてから気づいたのでした。

 

私は傷ついたんだと思います。

いじめを解決しようとしない学校や教育委員会への怒りや悲しみを、「あなたが間違っている」「そんなに怒らなくても」と言われたような気持ちになったのでしょう。

(もちろん、その人にそういう意図があったわけではないと思います)

 

このように、学校との間に「対立」や「葛藤」があるかどうかで、不登校のおもむきはかなり違ってきます。

 

 

 

「自発型」は保護者がキーになる

「自発型」は本人が行かないことを積極的に選んでいるので、保護者が不登校を問題だと思わなければ、かなりスムーズに事が運ぶでしょう。

学校に対しても余裕のある対応ができ、学校と友好関係を保つことも十分可能です。

 

 

保護者が不登校を問題だと考えていると、いろいろこじらせて時間がかかる傾向にあります。

不登校は、学校に行かない子どもが問題なのではなくて、問題化する大人の問題だということがクリアに分かってしまうケースと言えます。

 

 

というと、不登校を受け止められない大人は、ダメ出しされているように感じてしまうでしょうか。

そうではありません。

受け止められないという思いをなかったことにはできないですからね。

 

そこから出発していきましょう。

まずは「仲間」と「情報」です。

futoko.hatenablog.jp

 

 

 

高葛藤/ヴィクティム型ならではの苦しみ

※わが家がこのタイプのため、他よりも詳細に書いています。ご了承ください

学校との間に、対立や葛藤があった場合は、かなり苦しい思いをします。

 

具体的には、

・いじめ

・教師の子どもへの接し方に明らかな問題がある

といったことです。

 

集団生活であることを優先される学校では、トラブルは起きて当たり前。

だから、トラブルが起きること自体は問題ではありません。

 

問題は、そのトラブルにどう対応するか、です。

「これはおかしいですよね」「解決しないといけない問題ですよね」という認識が当事者の間で一致していればそんなにストレスはありません。

問題解決に向かって、協力できるからです。

 

が、そこが話し合い不能なほどに食い違ってしまうと、悲惨です。

 

わが家のケースはまさにそうで、このブログの初期のポストを読み返すと

 

学校側の理屈は、「考え方の違い」で済ませてほしくない理屈だと感じました。

これが通るならば、正義はないことになります。

 

都合の悪いことは「ご指摘にはあたらない」ですべてはねつけている安倍政権に似ていると感じました。

 

 と書いていました、私。

 

それでも、問題を解決したいと思うならば、もう一方の当事者である学校に協力してもらうしかありません。

しかしこれが、簡単ではない。

気乗りしない人、同じ方向を見ようともしてくれない人に協力してもらうのって、かなり難しいですよね。

 

ニュースとしてたびたび報道されている、いじめ自殺の後の学校・教育委員会側のマズい対応を見ると、それがよくわかると思います。

死者が出ていてもこれなのですから、そこまで行かないトラブルの場合も、同じかもっとひどい蓋然性は高いでしょう。

(もちろん、誠実に対応する学校もたくさんあるでしょう<そう願いたい>。そういうケースは報道されないから知らないだけ<そう願いたい>)

 

 

 

答えの出ない問いで自分を責め続ける

それに加えて、

絶えず、

・自分たちにも問題があったのかもしれない

・なぜ学校側はあのような対応をするのだろうか

という、なかなか答えの出ない思いを抱えることになります。

 

ドラマ「アンナチュラル」で井浦新さん演じる中堂系が、「永遠に答えの出ない問いを繰り返す人生」の話をしていましたが、ちょっと似ているなぁ、と感じました。

今、当時の担任や校長、そして加害児童に問うても、たぶん戸惑うだけではかばかしい答えは返ってこないでしょうから……。

 

これは、かなり長期間苦しむことになります。

わが家は丸2年経とうとしていますが、この苦しみからはまだまだ解放されていませんし、先も見えないのが正直なところです。

 

だから、そのことをもってして、学校に対して偏った見方をしているとか、感情的だというふうに言われてしまうと、本当につらいんですよね。

私だって、学校とはニュートラルにフラットにやりたいですよ。

でも、それはとても難しい。

 

たとえば、自分にとって大切な人に暴力をふるった相手に対して冷静になれるでしょうか?

そして、そういうことがあった時に、「暴力をふるわれた側にも問題がある」と言われたらどうでしょう。

それと同じ感じなのですよ。

 

 

 

本人にも理由がわからない「中動態型」は珍しくない

二つ目のタイミングは、『不登校新聞』488号に掲載された、哲学者・國分功一郎さんのインタビューを読んだ時です。

このインタビューを読んで、不登校にも「中動態型」があることを知りました。

 

学校に行けない理由を本人がうまく説明できない「中動態型」は、不登校の世界では珍しくはありません。

が、理由がはっきりしないので、本人も苦しむし、周りの人も困惑しがちです。

このインタビューは、そういう人にぜひ読んでいただきたいです。

 

futoko.publishers.fm

 

國分さんは、話題になった『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)という著書で、小林秀雄賞を受賞されています。

とても面白い本です。

 

中動態というのは、言語の世界で使われる受動態でも能動態でもない「態」で、古代の言語にあった概念です。

何かが自分の外側で完結するか、内側で完結するか、で行為を分けていたというのです。

「する」(能動)/「される」(受動)とは異なる対立軸ですね。

 

また、「意志」についての言及も興味深く、今の私たちは、人間が何かをしようとする時は「意志」にもとづいているはずだと信じて疑いません。

しかし、古代にはなかった「意志」という概念は、そこまで自明なものなのか? と問うているのです。

 

これはテレビ番組「100分de名著」(NHK Eテレ)で國分さんが例に出していたのですが、不良にカツアゲされてお金を出すとき、これは能動なのか? 受動なのか? という問題で考えることができます。

たしかに、財布をひらいてお金を出して不良に渡している主体はほかでもない自分です。

しかし、自分の意志ではなく、不良に脅されて仕方なくやっていることなわけです。

 

受動でも能動でもない。

自分の意志ではないし、自分の責任と言われても困ってしまう状態。

そういうことって、珍しくないですよね。

「自己責任論」が幅を利かす今の世の中では、このような状態に置かれて苦しんでいる人が多いのではないでしょうか。

 

 

不登校においては、「学校に行くよと言ったものの、実際には行けない」という事態は珍しくありません。

ここに、おなじみの「意志」や「責任」という言葉を持ち込むと、本人を責めることしかできなくなってしまいます。

矛盾しているように感じられるかもしれませんが、本人にとっては、「学校に行く」という言葉に嘘はないし、「行けない」という状態もまた真実なのです。

 

依存症患者のことを、よく「意志が弱いからだ」と責めるケースがありますが、依存症は意志でどうこうできるものではありません。

「やめたい」という思いに嘘はなく、「やめられない」という状態も真実なのです。

 

不登校にも同じようなケースがあるのです。

(注:依存症は病気であり治療で改善できることがはっきりしていますが、不登校は病気ではありませんので、そこは混同しないようお願いします)

 

 

この矛盾を受け止められるかどうかが、「中動態型」のポイントかなと思います。

知っておくと対応を誤らなくて済む大事なポイントでもあります。

 

 

 

気持ちを整理する助けに

不登校界隈の発信を見ていて、前からモヤモヤしていたことがありました。

このモヤモヤは何だろう? と考えているうちに、「不登校になったきっかけによって、見えている景色がずいぶん違っているのかも」ということに気づきました。

 

わたし自身、未就学の子どもが2人控えているので、もし彼らが学校に行きたいとなったときに、信頼感ゼロの学校とどう相対したらいいのか、という現実的な課題を抱えています。

学校との葛藤がなければ、おそらく抱えずに済んだ課題でしょう。

 

そんな自分の気持ちを整理するために書きました。

 

不登校の当事者や関係者の人には、問題点やポイントをクリアにする一助になれば御の字ですし、その周りにいる人たちには、こういうことを知っておいてもらえるとうれしいですね。