脱学校後、ひとつだけ後悔していること
長男が学校に行かなくなって、半年が経ちました。
この間、いろいろあったけれど、おおむねよかったなという感じで推移しています。
長男が学校に行かなくなったこと自体に後悔は何もないんですが、ひとつだけ悔やんでいることがあります。
それは、きちんと怒らなかったこと。
あ、子どもにじゃないですよ。
学校や教育委員会、そして長男をいじめた子どもたちにです。
まあ、感情ってのは蓋しても漏れ出てくるものなんで、要所要所では「怒っている」ことは伝わっていたとは思うんですが、ちゃんと怒れてなかったなという後悔があるのです。
なぜわたしがちゃんと怒れなかったか。
それは、モンペ扱いされたくなかったから。
話し合うとき、人は感情的になることを嫌います。
感情的になったが最後、話を聞いてもらえなくなる……!
と、わたしは必死に歯を食いしばっていました。
でも、それは間違いでした。
なぜなら、怒るべきことにちゃんと怒らないと、怒りはいつまでも成仏しないんですよね。
そしてそれは、内側から自分を蝕んでいくし、瘴気のようなものになって周りにも出てしまうなぁ、と感じています。
そもそも、感情的になったら負けという「ゲーム」は、本当はおかしい。
わたしたちは、感情を排して話し合うべき、という考え方に縛られ過ぎているんじゃないだろうか。
感情を出すのは、そんなにいけないことなんでしょうか。
「トーンポリシング」という言葉があります。
日本語に訳すと「話し方警察」「話し方取り締まり」とでもなるでしょうか?
人が「怒り」「悲しみ」などを表現したときに、「そんなに感情的だと話聞いてもらえないよ?」「もっと冷静になろうよ」と表現の内容ではなく表現のあり方にフォーカスし、怒りや悲しみを表明した人の口を封じ、結果論点がずれていく、というやつです。
たぶんほとんどの人は、怒りや悲しみを受け止めるのに慣れていないんですよね。
だから、困惑するんだと思います。
居心地が悪く感じるのは、わたしもよくわかります。
では、どうすればよいのか?
まずひとつは、怒りや悲しみといったネガティブな感情が湧いたら、抑えつけるのではなく、十分に味わうこと。
「ああ、わたし今怒っているな」「わたし、すごく悲しい」という具合にです。
そして、怒りや悲しみの対象が目の前にいるならば、その場でそう伝えることです。
それを相手がどう受け止めるかは「相手の領域」なので、コントロールはできません。
それでも、伝えることが大事です。
逆にこのプロセスがないと、感情の出口がない状態になるので、いつまでも手放せなくなり、くすぶり続けます。
(そういう経験はだれしもあるのではないでしょうか)
そして、自分が他人の怒りや悲しみに接したときは、なぜその人がそんなにも怒っていいるのか(悲しんでいるのか)にフォーカスすること。
これはちょっと難易度高めに感じるかもしれませんが、結局はいちばん安全な近道なんではないかと考えます。
なぜなら、接した側は怒りや悲しみの根っこがわかって安心するし、怒っている(悲しんでいる)側もちゃんと受け止めてもらえたという安心感が得られるからです。
なぜ怒っているかわからない「不安」。
受け止めてもらえないかもしれないという「不安」。
不安を放置することこそが、人の心を黒くしていくのではないでしょうか。
(不安そのものがいけないという意味ではありません。不安は大事なことを教えてくれます)
今は、ちゃんと出せなかった怒りをどうやって解放していくか。
そして、「モンペ扱いされたくない」という保身とどう折り合いをつけていくのか。
それが目下、わたしの課題のひとつです。