「わたしはそう思わないけど、世間はそう見るから」と言わないことに決めた
鳥は「自由になりたい」と思いながら飛んではいません。ただ、あるがままである。自分を不自由にするのはただひとつ、自分だけです。
いきなり宣言します。
以前から「わたしはそう思わないけど、世間はそう見るから」という言い回しに、「いや、それは『わたしもそう思っている』と同義だろ?」と気付いてしまっていたわたくしgyogoです。
鼻の穴を膨らませてながらそう思っていたわけですが、かく言うわたくしがそう思っていた、ということが先日わかってしまったのでした。
「ゲシュタルトセラピー」という心理療法をご存知ですか?
通常のセラピーでは「過去」にフォーカスする場合が多いですが、ゲシュタルトセラピーは「いま・ここ」にある「からだと心」に何が起きているのかに本人が「気づく」ことにひたすら集中します。
分析や解釈、解説は一切しません。
最近では、漫画家の田房永子さんのコミックエッセイ『キレる私をやめたい』(竹書房)で紹介されて、にわかに注目を集めているようです。
「ようです」と言いながら、わたしもまさにそのひとり。
『キレる~』で紹介されていた百武正嗣さんの本をさっそく買い求め、長野県内でワークショップをやっていないかどうか調べてたどり着いたのが、「長野ゲシュタルト研究会」でした。
今年2017年1月に、ちょうど百武さんが長野にいらっしゃるというではないですか。
すぐに申し込みました。
はじめてのワークは、まさにセンセーションの嵐でした。
まわりの人はおろか、ファシリテーターすら見えなくなって、ひたすら自分の世界に没入する。
こんな体験は初めてで、なぜこんなシンプルな場でこんなことが起きるのか、本当に不思議でした。
そのときは「母との関係」をテーマにしたのですが、以降、母との間に境界線を引けた実感があり、母のことで頭がぐるぐるすることがなくなりました。
先日、3回目のワークショップに参加してきました。
「この春から夏にかけて、家族にいろんなことが起きて、今でも怒りや疎外感に支配されることがある」と話をしました。
長男の不登校のことに話が進みます。
そこでわたしは、気が付くと「マイノリティ」「世間」という言葉を何度も口にしていました。
ファシリテーターは「どういう意味で使っているの?」と尋ねます。
わたしは「全体の中で割合が少なくて、数が少ないという意味です」と答えましたが、「そういう一般論じゃなくて、あなたの中でどういうことを指しているの?」とさらに返してきます。
わたしは頭が混乱しました。
「えっ? ただ数が少ないというだけの話なんだけどな……」
その後、わたしがやりたいこと・大切にしたいことに話が移りました。
それについて話をし、今感じていること、意識せずに出た仕草が語り掛けていることを翻訳し(「その腕はなんて言っているの?」等)……という具合に進んでいきました。
最後、ファシリテーターはわたしの目の前に並んだ「やりたいこと・大切にしたいこと」を指さしました。
そして「じゃあ、そこに『マイノリティ』という言葉を置くとしたら、どこに置く?」と尋ねます。
わたしは「ここには……どこにも置くところがありません」と返事をしました。
ワークは終了しました。
そのときにハッと気が付きました。
「わたしはまだ、世間の価値観から自由になっていない!」
・マイノリティをマイノリティと言って何が悪いのか。
・数の多寡の話で、事実を言っているだけじゃないか。
と考えていました。
でもそうではなかったんです。
・小学校低学年で学校に行かなくなった長男はマイノリティ。
・そしてその保護者であるわたしもマイノリティ。
……etc.
マイノリティというのは「事実」ではなく、「解釈」だったのです。
そしてその解釈の枕詞は「世間の中で」という言葉です。
ただ、学校に行っていない子どもがいる。
ただ、学校に行っていない子どもを持つ母親である。
ただそれだけのこと、でよかったのです。
「世間の中で」という枕詞をわざわざ付けなくてよかったのです。
その枕詞を付けたくなる心というのは「わたしはそうは思わないけど、世間はそう見るから」という心、つまり「わたしも世間と同じ価値観を共有している」ということだったのです。
移住してからこっち、わたしは「自由に生きたい」と願ってきました。
しかし、そう願うということは「今が自由じゃない」とはからずも告白していることになります。
なんだか可笑しくなりました。
わたしはもう、
「世間はそう見るから」
「自由に生きたい」
と言わないことに決めました。
すべてを「ただ、それだけのこと」として決断し、受け入れ、自由に生きていることを自分に許可します。