まだ学校で消耗してるの?

2017年5月より小2長男・脱学校につき、家族で「学校のない生活」を模索中

ツイッター、それは不登校の「情報」と「仲間」が一気に集まる場

最近、アカウントを作り直して、またツイッター界に出入りするようになりました。

最初に作った時は、ありがちなんですが、カッとなることが多くなってしまい、しんどく感じてやめました。

 

 

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今回作り直したのは、ROM専でテレビドラマや好きなアーティストのアカウントをフォローしたいがため。

それが、気が付けば不登校アカウントになっていました(苦笑)。

 

 

きっかけは忘れましたが、私と同じような経験をされた方や、共感できる考えを持った方が不登校アカウントには多くいることを知りました。

情報も仲間も一気に集まります。

おかげで、自分の考えをブラッシュアップするスピードも速い速い!

 

 

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これ、2年前に知りたかった……!

当時の私はなぜ、ツイッターの門を叩かなかったのか。

ツイッターってメルカリに似ていて、「こんな物、さすがに売られていないだろう」というものでも意外と出品されているように、いろんなテーマのアカウントがあるんですよね。

 

 

一番の収穫は、わが家が目の当たりにした校長や担任の言動、教育委員会の言動などが特殊なのではなく、びっくりするほど同じ言動があちこちで確認できたことです。

「いじめ不誠実対応裏マニュアル」でも流通しているんじゃないかというくらい、同じなんですよね……。

これはもう驚くほどで。

 

 

あとは、誰からも「いいね」されなくても、吐き出した言葉を瓶詰めの手紙みたいにツイッターの海に放流できるのは、精神的にとてもいいです。

思った時にパッとツイートできるのがいいですよね。

思いがけずリプがついたら、またそこから話が広がったりもして。

 

 

もちろん、ツイッターはいいことだらけというわけではなく、いくつか気にしたほうがいいポイントはあります。

 

 

1.不登校を否定しない、受容的、考え学ぶことを厭わないアカウント

フォローするならこういう不登校アカウントが理想的、と私は思います。

ツイッターは自由に発言できるからこそ、わざわざ不快な思いをしにいく必要はありません。

不登校を否定していないアカウントであることが一番のポイントです。

さらに、不登校や教育まわりのことを学んで、考え続けている人からは、いろんなことを教わることができます。

具体的に聞きたいことがある時ももちろんですが、何気ないツイートにも含蓄や気づきがあってですね。

いろいろ学べます。

 

 

 

2.教師アカは要注意

学校で教師をしている人(ツイッターなのであくまで自称ですが)のアカウントもたくさんあります。

 

ただ、一見理解のあるようなアカウントでも、あるテーマになると「あれっ?」と違和感盛りだくさんとか、言葉遣いにいろいろにじみ出てしまってひっかかる、というケースが散見されます。

 

最近だと、NHKで放送されたいじめ特集の感想として「いじめ対応はやってられない」「ここまで現場に求められると困る」というツイートをしている教師アカもけっこうあったようです。

 

最近は学校の先生も大変だそうですから、気持ちはわからないでもないですが、あの内容を見てもそういう感想しか出てこないのだとしたら、至極残念です。

 

もちろん、外からはうかがい知れない現場の生の声を発信しながら、学校の理屈に染まっていない発信をしているアカウントもあります。

そういうアカウントと交流できると、知見も広がるというものです。

 

 

 

3.ネガティブなツイートとの付き合い方

今もまだ継続中ですが、「不登校YouTuberゆたぼん」の報道をきっかけに、彼に対するバッシングが吹き荒れました。

 

結果的に、不登校全体に対しての世間の偏見が一気に可視化されて、不登校に対してそれなりに考えたり情報を得たりしていた私でも、恐怖感を覚えたほどでした。

 

LGBTと同じように、不登校に対する社会の見方も、この10~20年ほどでだいぶ変わったんじゃないか……という淡い実感を吹き飛ばすほどでしたから。

 

状況が比較的安定していて、不登校に対しての理解が深まっている人ならば、飛び交う罵詈雑言もある程度冷静に見られるかもしれません。

(実際、ある程度知識のある人なら簡単に反論できるようなコメントが多いです)

 

が、今まさに悩んでいるという人は、こういう時はなるべくネガティブに盛り上がっているアカウントには近づかないに越したことはありません。

 

学ぶことがあるとしたら、不登校への偏見や罵詈雑言のツイートへの説得力ある反論で「理不尽な相手とのケンカの仕方」を学べるという点でしょうか。

 

理不尽な相手は最終的にはブロックですが、いくつも見ているうちにパターンが見えてきます。

私もかなり学ばせてもらいました。

 

リアルな世界で、不登校への偏見を投げつけてくる人もいますから、咄嗟に言うべきことを言える反射神経を養うためにも、ケンカの仕方を蒐集することができるのはツイッターの利点かもしれません。

 

慣れてきたら、渦中に飛び込んでケンカの腕前を上げるのもいいかもしれませんね。(私はまだできない)

 

 

 

4.ほっこりアカウントやメンターアカウントも混ぜる

不登校や学校ネタばかりになると息苦しくなるので、ほっこりできるかわいい動物動画アカウントとか、漫画家の瀧波ユカリさんやコラムニストのジェーン・スーさんのようなエンカレッジ&エンパワメントしてくれるメンターアカウントもフォローしておくと、気分がよくなるのでおすすめです。

 

私は、瀧波さんのツイートに、たびたび助けられています。

 

 

 

……そんなわけでツイッター、不登校の当事者や保護者にとっては、思った以上に活用できるSNSです。

気持ちを吐き出す場としてもよし、有益な情報をdigしてもよし。

リスクは上手に回避しつつ、しんどくならない程度にお付き合いしてみてもいいかもしれません。

 

『不登校新聞』506号(2019年5月15日)

『不登校新聞』最新号の紹介です。

 

 

  

 

 

506号ラインナップ

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●「夢中になれたら人は変われる」不登校の家庭を描いた漫画家・入江喜和さんに聞く

●大分県教委「不登校児童生徒支援プラン」 不登校支援、県内50団体を網羅 リーフレット化され、各学校で配布も 

●書籍紹介 不登校・ひきこもり 親に読んでほしい1冊
『生きづらさを抱えるきみへ』著・withnews編集部(KKベストセラーズ)

●少年法の適用年齢引き下げに反対 愛知県弁護士会“少年処遇の文化をくつがえす”

●すまいる式子どものわかり方(vol.10)「函館圏フリースクール すまいる」代表・庄司証「登校圧力の『リスク』とは」

 

●連載 4コマ漫画&ミニエッセイ「わたしの“不登校”ものがたり」(第17回)りゃこ

●不登校経験者が語る「不登校中、私がイヤだったこと」

●4コマ漫画「森の喫茶店」作画・ろくろーぶな

●講演抄録「私が私らしくあるように~発達障害とともに生きてきた道~」発達障害の私は何に困ってきたのか 横山小夜子

●不登校の歴史(vol.506)教育機会確保法、やっと上程へ 奥地圭子

●6月9日、名古屋でシンポジウム“不登校になったとき ”居場所スタッフらと相談・交流も(イベント案内)

●全国の不登校・ひきこもりの親の会例会情報

●全国の不登校・ひきこもりのイベント情報

●かがり火(1面コラム)

●ひといき(編集後記的なコラム)

 

 

 

気になった記事を2つだけ

▼大分県の教育委員会が出したリーフレット「不登校児童生徒支援プラン」は画期的ですね。不登校支援はいろいろありますが、「適応指導教室(教育支援センター)」(行政)と「フリースクール」(民間)が有名です。この2つが両方あるという自治体でも、積極的に連携を取るところもあれば、行政側が民間を排除する傾向のところもあります。当事者から見て望ましい姿は、言うまでもありませんね。私は大分県の出身です。数年前に大分県は管理教育がきついところだと聞きました。実際、学校はそういう感じでした。だから、こういう取り組みがなされることは驚きでしたね。まあ、私が高校卒業して25年近く経ちますからね。変わるには十分な時間が経っています。
こういう官民連携の動きはまだまだ少ないのが実情です。どこの自治体でも当たり前になってほしいと願っています。

 

▼50歳近くなってアスペルガー障害と診断を受けた横山小夜子さんの講演抄録は、発達障害の当事者から見える風景、そして当事者が何に困っているのかが生々しく伝わってきました。もちろん、発達障害とひとくくりにはできず、あくまで横山さんのケースという話ではあるのですが。
私が一番印象的だったのは「こだわりとわがままの区別」というところです。「わがまま」って、要注意な言葉だと思うんです。なぜなら、発している本人ではなく、聞いている人がもっぱらジャッジして使う言葉だから。本人とっては大事なことかもしれず、付き合ってあげたほうがいいことかもしれないのに、わがままと片付けてしまうことが何と多いか……(これはもう、めちゃくちゃ自戒を込めて……)。人を尊重する、まして子どもを尊重するって、慣れるまではものすごく難しい。発達障害のみならず、どんな人にも当てはまる考え方を教えてくれる大事なヒントがいっぱい詰まった講演抄録でした。

 

 

 

 

なぜ紹介するの?

わが家では、全国不登校新聞社が発行している『不登校新聞』を購読しています。

毎号、面白い読み物や情報がいっぱいで、これのおかげでいろいろ助かっているという「恩人」ならぬ「恩紙」です。

 

不登校・ひきこもりライフを支えてくれるいい情報源なんですが、私のまわりでは購読しているという人は少ないです。

せっかく購読しているので、こういう内容だよーという「さわり」だけ、新しい号が出るタイミングで紹介しています。

 

『不登校新聞』について

 

紙版とweb版があります。

ともに、月2回(1日・15日発行)で、購読料は月額820円(税込)です。

 

【紙版】

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・郵送方法は、通常は「帯封」(新聞に直接、宛先を印字した紙を巻いただけ)。ただし、購読を知られたくない方向けに、代表理事名を差出人名としたプレーンな封筒での郵送も用意があります(気が利いている!)

 

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『不登校新聞』505号(2019年5月1日)

『不登校新聞』最新号の紹介です。

 

 

  

 

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505号ラインナップ

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●「何度でもやり直せる社会を」不登校、ひきこもり、うつ病だった僕だからつくりた 株式会社キズキ代表・安田祐輔

●母親の気持ちが落ち着くとき(第11回)関川ゆう子「えんぴつさえ握ろうとしない……勉強が気になります」 

●少年法の適用年齢引き下げに反対 愛知県弁護士会“少年処遇の文化をくつがえす”

●すまいる式子どものわかり方(vol.9)「函館圏フリースクール すまいる」代表・庄司証「テストも受けず、授業も出ない 学校の成績表はどうなるの?」

●仮説なんですが…(第32回)臨床心理士・掛井一徳「親が探した『きっかけ』は、どうしてもうまくいかない」説

●不登校の子を持つ親のエッセイ「子どもの成長を感じるとき」マッシー

●連載 4コマ漫画&ミニエッセイ「わたしの“不登校”ものがたり」(第16回)りゃこ

●いつかこの自傷が終わるように 「自傷行為する私」に向き合ってみた 不登校経験者・カンバヤシユウ

●コラム「私のアイデンティティはどこにあるの?」相良まこと

●4コマ漫画「森の喫茶店」作画・ろくろーぶな

●不登校当事者手記「母と私、親子で前を向けたのは ともに苦しんでくれたから」富良野しおん

●不登校の歴史(vol.505)大きく変化した法案 奥地圭子

●5月19日より、長野で連続講演会“不登校支援を考える” 親の会「ブルースカイ」30周年記念(イベント案内)

●全国の不登校・ひきこもりの親の会例会情報

●全国の不登校・ひきこもりのイベント情報

●かがり火(1面コラム)

●ひといき(編集後記的なコラム)

 

 

 

気になった記事を3つだけ

▼2~3面に掲載されている記事のうち3本が、切り口は違うものの煎じ詰めれば「異口同音」という感じの記事でした。これは批判的に言っているわけではなく、とても大事なことだから、手を変え品を変え、何度も言う必要があると私は受け取っています。

 

●母親の気持ちが落ち着くとき(第11回)関川ゆう子「えんぴつさえ握ろうとしない……勉強が気になります」

●すまいる式子どものわかり方(vol.9)「函館圏フリースクール すまいる」代表・庄司証「テストも受けず、授業も出ない 学校の成績表はどうなるの?」

●仮説なんですが…(第32回)臨床心理士・掛井一徳「親が探した『きっかけ』は、どうしてもうまくいかない」説

 

わたしがつねづね感じていることとして、「当事者の周りの大人が不登校を問題だと思わなければ、そのままフラットに受け止めることができれば、不登校は問題ではなくなる」ということがあります(当事者の気持ちはまた別ですが、周囲の環境は第一段階としてとても大きいということです)。そのことを教えてくれる記事でした。

 

『不登校新聞』が面白いのは、同じテーマを何度も異口同音で語っているところです。何度も何度も角度を変えて伝えることで、読み手のジャストタイミングで届く可能性がグッと上がるのではないかと感じています。


新聞はジャーナリズムですが、新しいことや事件性のあることだけを追いかけるのがジャーナリズムではないのだなと気づかせてくれます。

 

中間教室その後(半年経ちました)

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長男が中間教室に通うようになって、半年が経ちました。

 

 

――中間教室とは?

中間教室というのは、どうも長野県内独特の用語のようですね。

上田市では「ふれあい教室」と呼ばれています。

佐久市だと「チャレンジ教室」だそうです。

 

おそらく全国的には、「適応指導教室」というような名前で呼ばれているのではないでしょうか。

 

 

全国的な名称である「適応指導教室」も、今は「教育支援センター」と名前が変わってきているようですね。

さすがに「適応指導」はねぇ……。

露骨というか、身もふたもない感じですもんね。

 

 

さて、その中間教室です。

長男にとっては幸い、今のところ「嫌なことが何もない」(最高か!)という、ストレスフリーな場所になっているようです。

 

 

平日はだいたい毎日通っています。

 

行かない時というのは、

 ・何となく気がのらない

 ・『月刊コロコロコミック』(小学館)の発売日(隅から隅まで熟読したいので)

 ・映画を見に行く(映画が朝イチなら観終わった後に行くことも)

くらいでしょうか。

 

 

長男が通っている中間教室は、朝9:30に開室して、15:30までいることができます。

長男は9:30に行って、「迎えは15:30きっかりでお願い」と滞在時間が最長になるようにしたいようです。

 

いつも、ポケモンの大きいリュックにお弁当と水筒、それからゲーム機やマンガ本などいろんなものを詰め込んで出かけています。

 

 

長男が半年間通ってみて、私が感じたことを「ココがいい!」「ココが残念!」に分けて挙げてみたいと思います。

 

 

 

ココがいい!①強制がない

何といってもココが! 最高! ですよ!

 

好きなことをして過ごすことができます。

長男は、ゲームやマンガなどを持って行っています。

あとは、教室にあるマンガや本を読んだり、他の人とバドミントンをしたり、カードゲームをしたり、スライムを作ったり……という具合に過ごしているようです。

 

勉強したい子は、ドリルなどを使って勉強をしているようです。

そういうお子さんの要望にもこたえてくれるのはいいですよね。

 

 

 

ココがいい!②先生方が穏やか&朗らか

長男が通っていた学校では、対応がとにかくがっかりの連続だったので、「いい感じの先生ってどこの世界の話よ?」と思っていましたが、中間教室の先生は穏やかで朗らかな先生ばかり。

 

たまたまかもしれませんが、ベテラン先生ばかりです。

 

この3月までは先生が3人でした。

うち、ひとりが3月末で退職、ひとりが異動、ひとりが残留、となりました。

 

4月からは、新しく男性の先生がふたり来られました。

今度もまた穏やか&朗らかな先生で、先生は変わっても雰囲気はあまり変わることなく通えています。

 

 

先生の異動の頻度がどれくらいかわかりませんが、在籍年数が短いと、変化が苦手なお子さんにはしんどいかもしれませんね。

 

 

先生も子どもも人数が少ないので、長男から細かい話を聞かずとも、先生方の感じがよく伝わってきます。

夫は「ああ、先生というのは教育者なんだな」と、この中間教室で初めて感じたそうです。

(長男が先生のメガネを不注意で壊してしまったことがあり、その対応を見ていて、そう感じたみたいです)

 

 

先生は「私たちも〇〇くん(長男)のおかげで楽しませてもらっています」という言い方をよくします。

おべっかなどではなく、長男と過ごす時間を本当に楽しんでいること、そして長男の個性や良さを理解してくださっていることが伝わってきて、とてもうれしい気持ちになります。

ほんのひとことですが、心がじわーっと温かくなるのです。

 

 

 

ココがいい!③仲間がいる

「友だちはつくるものではなく自然にできるもの、なんならいなくてもよし」というのが前提ではありますが、それでも仲間がいるとできることが増えるし、分かち合う楽しみも出てきます。

 

長男と似たような年の小学生が何人か来ています。

送迎の時に挨拶する程度ですが、あまり無理がないというか、その子のままでいる感じです。

 

バレンタインデーにはチョコレートを持ってきてくれた子がいたので、ホワイトデーに私がマフィンを焼いて、「みんなでおやつに食べてよ」と長男に持って行ってもらいました。

お茶の時間みたいな感じで、先生も子どもも一緒におやつを食べることもあるみたいで、それもいいなぁと思っています。

 

小学生から中学生まで来ることができるので、中学生のお兄さんやお姉さんとも交流しているようです。

 

中学生は、定期考査を中間教室で受けられます。

その時はさすがに、小学生は静かに過ごしてね~ということになります。

 

 

 

ココが残念!①開室時間が短い

9:30~15:30なので、共働きやシングルペアレントのご家庭は利用が難しいなと、すぐに思いました。

 

学校は保育園とは違うとはいえ、開室時間がネックになって、通いたいけど通えない人がいるとしたら残念すぎると感じています。

 

放課後は学童という手もありますが、学校に行っている子と同じ学童は行きにくいという子どももいるだろうし、中間教室のすぐ近くに学童があるわけではないので、あまり現実的ではありません。

そもそも、中間教室は広い上田市内に5か所しかないので、歩いて通えるほど近くにない場合が多いのではないでしょうか。

 

わが家は夫婦ともに在宅で仕事なので、時間の融通がかなりききます。

だから送迎ができていますが、そういうご家庭ばかりではない、というか、そういう家庭のほうが今は珍しいのではないでしょうか。

 

小5になったらひとりでバス通学という選択肢もできるかなと考えていますが、それまでは大人の送迎が必須です。

 

 

 

ココが残念!②たぶん、予算があまりない

先生方の工夫で、できる限りのことをしてくださっていますが、恐らく予算は少ないのではないかと、建物や備品を見ていて感じます。

 

古いことや足りないことは、必ずしも悪いことではありません。

知恵と工夫で解決するのも大事なことです。

 

それでも、お金の問題でできないこともあるのではないかと思います。

 

中間教室は縛りがない分、いろんなことができる可能性があるだけに、予算はある程度つけてほしいナァ……と勝手ながら思っています。

 

たとえば、希望者だけでいいんですが、「今日は映画を見に行こう」「サントミューゼに展示を見に行こう」「『犀の角』に演劇を見に行こう」「化石を掘りに行こう」「川に泳ぎに行こう」なんてこともできますし、アーティストやその道の専門家を呼んでワークショップをやる、なんていうこともできます。

考えるだけでワクワクしてきますね~。(私が通っているわけではないのだが)

 

 

 

ココが残念!③先生や他の親と話す機会がほとんどない

私はときどき、ほかの親御さんとも話をしてみたいなぁと思うことがあります。

もっというと、先生とも話をしてみたいなぁと思うことが。

もちろん改まってということではなく、ざっくばらんにおしゃべりしたいだけです。

もちろん、そういうことを一切望んでいない人もいるでしょうから(夫は望まないタイプ)、これは私が勝手に残念に思っているというだけの話です。

 

 

 

いつでも温かく門戸を開いていてほしい

行政としては、中間教室に来る子どもがあまり増えても困る、というのが本音かもしれません。

「学校行きたくない? いいよいいよ」というほどさばけた先生も、教育行政関係者も、まだまだかなりの少数派だと思うので。

「やっぱり一条校」という考えが強いでしょう。

 

 

それでも、学校には行きたくない/行けないけど、こういう場所なら行ってみたいな、というお子さんは、多くはなくとも一定数いるのではないでしょうか。

 

 

そういう子どものために、いつでも温かく門戸を開いていてほしい。

ある種のサンクチュアリといいますか、安心して自分らしくいられる場所であり続けてほしいと、心から願っています。

 

 

 

学校に通わない、通っていないお子さん全員におすすめできるわけではありません。

合わないというお子さんも当然いるでしょうから。

長男もそのうち飽きてしまうかもしれないし、ずっと行くかもしれないし、まったくわかりません。

 

 

私にとっての中間教室は、学校に通うよりもむしろ、教育とは何か、学びとは何かを感じさせてくれる貴重な場所です。

望んでもいないのに、学校や教師、公教育への不信感で心を埋め尽くされてしまった私に、そうではない場所と人がいるのだということを教えてくれた場所でもあります。

(幼稚園児の弟たちが学校に行きたいと言うならば、最初から中間教室をすすめたい!)

 

 

中間教室の先生方と、長男と一緒に時間を過ごすお子さんたちへの感謝は、ずっと忘れないでしょう。

心から感謝しています。

 

『不登校新聞』504号(2019年4月15日)

わが家では、全国不登校新聞社が発行している『不登校新聞』を購読しています。

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不登校・ひきこもりライフを支えてくれるいい情報源なんですが、私のまわりでは購読しているという人は少ないです。

せっかく購読しているので、こういう内容だよーという「さわり」だけ、新しい号が出るタイミングで紹介することにしました。

 

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紙版とweb版があります。

ともに、月2回(1日・15日発行)で、購読料は月額820円(税込)です。(安い!)

 

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504号ラインナップ

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●フリースクールネモ シンポジウム抄録「私にとっての不登校」

1.小学校2日目から不登校 私は幸せに今を生きています 武田輝理

2.息子が小1で不登校 「休ませる」のが怖かった 福田昌子

3.あんなつらいところには行きたくない “僕は学校を辞める”と宣言 九冨遊馬

●不登校の疑問 児童精神科医に聞きました!! 
「孫が『AD/HD』と診断を受けた 祖父母にできることは何か」

●書籍紹介 不登校・ひきこもり 親に読んでほしい1冊
『娘が学校に行きません~親子で迷った198日間』著・野原広子(メディアファクトリー)

●すまいる式子どものわかり方(vol.8)「函館圏フリースクール すまいる」代表・庄司証

●仮説なんですが…(第31回)ひきこもり男子・さとう学「不登校だった僕は、土屋太鳳にあらがえない」説

●不登校からの母親日記(第11回)沢潟(おもだか)裕子

●連載 4コマ漫画&ミニエッセイ「わたしの“不登校”ものがたり」(第15回)りゃこ

●業界人御用達のビジネスデイに潜入「東京ゲームショウ」へ行ってきました 不登校経験者・しょーたろー

●4コマ漫画「森の喫茶店」作画・ろくろーぶな

●不登校の歴史(vol.504)再開したフリースクール検討会議 奥地圭子

●4月27日、金沢市で講演会 “救われた”と思う対応は(イベント案内)

●全国の不登校・ひきこもりの親の会例会情報

●全国の不登校・ひきこもりのイベント情報

●かがり火(1面コラム)

●ひといき(編集後記的なコラム)

 

 

 

気になった記事を2つだけ

▼小学校低学年で不登校という点でわが家と似ているので、とりわけ興味深く読んだのが武田輝理さんのシンポジウム抄録でした。学校に行かなくても生きていける生き証人が、ご自身の半生をわりとニュートラルに語っています。

▼東京ゲームショウの取材は、独特のゆるさと、ゲームが心底好きな様子が伝わってきてほっこりしました。とはいえ、自殺しないで生き続けられたのはゲームがあったからという主旨の一文もあり、不登校やひきこもりでゲームをやり続けている当事者の内面をうかがい知れる部分もあり、いろんな意味でこういう記事は『不登校新聞』ならではだと感じました。

学校が子どもに対応しきれていない現象

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4/17の『信濃毎日新聞』を読んでいたら、こんなコラムを発見しました。

教育研究家の古山明男さんが書かれたものです。

 

昨日ポストした、不登校の「不適応型」で脱線して書いた「そもそも既存の学校(公教育)の環境や仕組みがどうなのよ?」に対する、ひとつの回答として読めるコラムでした。

futoko.hatenablog.jp

 

 

多動のお子さんについて、古山さんが丁寧に観察して感じたこと、気づいたことを描いています。

 

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学校などの集団生活においては、そこの枠をはみ出す子どもは「困った子」とされがちです。

最近よく「困った子ではなく、困っている子」という言い方をしますが、子ども本人が困っているかどうかはまた別の話で、はっきりしているのは、困っているのは言うことを聞かせたい側(大人)であるということです。

 

その、困っている大人の考え方を変えたほうが手っ取り早いし合理的じゃね? というコペルニクス的転回といいますか、非常に参考になりました。

 

憲法で教育の義務(大人の義務ね)はうたわれているわけだし、教育を受ける権利も誰もが等しく有しているわけですから、やっぱり、学校教育こそユニバーサルデザイン化が必要ですよ。

【続編】学校の環境や仕組みが合わない不登校の「不適応型」

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前の投稿で、不登校のきっかけは大きく分けて5つという話をしました。

最初は4つとしていて、その後5つと改めたので、書き足すと大長編になってしまい……。

そんなわけで、新たに加えた「不適応型」はこちらで書くことにしました。

 

 

さて、「不適応型」です。

 

 

本人がクラスメイトや教師と直接的にトラブルを抱えるわけではなく、学校の環境や仕組みになじめない、というのを「不適応型」と定義します。

 

 

 

 

 

 

「不適応」よりもニュートラルな言葉がほしいんだけど……

不適応という言葉はネガティブなイメージがあるので、もっとニュートラルな言葉があるといいのですが……思い浮かばないので、この言葉で話を進めさせてもらいます。

ニュアンスはなく、単純に「環境・仕組みが合わない」という状態を表現しているだけなので、ご承知おきください。

 

 

不適応型は、たとえば、

・先生が他の子を叱る声にショックを受けてしまって行けなくなった

・大人数と一緒にいるのが疲れる

・集団行動が苦手

・1時間おきに違うことをしなければならないのが苦痛

という感じです。

 

 

 

「感覚の過敏」で合わないケース

まず、「感覚の過敏」で合わないケースについて。

聴覚過敏の人が専用のイヤーマフをしてバスに乗っていて因縁をつけられた、という話を聞いたことがあります。

 

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写真:子ども向けのイヤーマフ
 

 

togetter.com

 

感覚は主観的なものですから、自分には何でもないことを苦痛に感じる人がいる、ということを理解するには想像力が必要になってきます。

 

大勢の人には何でもない音・振動・光などが苦痛に感じる、という人が現実にいます。

 

これはもう、「そういう人がいるのだ」と周りが了解する以外に、当事者の安寧はあり得ません。

今まで知らなかっただけでそういう問題は現実にあり、何より困っているのは当事者だと理解してください。

その前提で、学校と話し合っていきましょう。

 

 

 

「学校の仕組み」が合わないケース 

次に、「学校の仕組み」が合わないケースです。

 

「集団生活が苦手」とか「1時間おきに違うことをしなければならないのが苦手」というと、「何を甘えているのだ!」「それじゃマトモな大人になれない」という感じで反発を覚える方もいらっしゃるかもしれません。

 

しかし、本当にそれらは目くじら立てる必要があることでしょうか?

そういう人はそういう人で生きる道は必ずあるし、そうでなくてはおかしいはずです。

(そういう人を許さないような窮屈な社会でいいという人は、よっぽどのマゾヒストかしら?)

 

それに、「集団生活が苦手」を「歩けない」に変えたらどうですか?

「歩けない」と言っている人に「歩け」と言ったら、「はぁ? お前なに言ってんの?」と非難されますよね。

 

「集団生活が苦手」も「歩けない」も、本人にとって「できない」という意味では同じことです。

本人が苦痛と言っているのですから、まずはその声に耳を傾けるのが、大人のとるべき態度ではないでしょうか。

 

私自身、この歳になって、人が大勢いるところに行くととても疲れる、ということが分かりました。

そういう場所に行った後は、ぐったり寝込むくらい。

東京にいるころは平気だと思っていたんですが、恐らく、感覚を麻痺させて何でもないと思い込んでいたのでしょう。

今は、家族以外の人と何日も会わなくてもぜんぜん平気な自分がいて、驚いているところです。

 

もし、このことをもってして「お前はダメな奴だ」という人がいたとしたら、「はぁ?」ですよ。

 

 

 

学校はユニバーサルデザイン的であるべきでは?

そもそもですよ、今ある学校(公教育)の環境や仕組みというのは、どうなんでしょうか?

 

学校は「全員で一斉に」というスタイルで、いわば「軍隊式」です。

軍隊には誰もが入れるわけではありません。

使い物にならないとされる人ははじかれます。

 

ということはですよ、ユニバーサルデザイン的には設計されていない組織といえます。

闘うために最適化された組織ですからね。

学校は富国強兵のためにできた側面が強いので、かつては軍隊式でも違和感がなかったのかもしれません。

 

が、2019年の今でもそれでいいのかな? と根本的な疑問があります。

義務教育というならなおさら、インクルーシブ教育とか謳うならなおさら、学校の仕組みはユニバーサルデザイン的でなくてはいけないはずでは? と思うのです。

 

既存の学校の仕組みが「合わない」と表明してくれる子がいるのは、むしろ希望だと私などは感じます。

ちゃんと自分の違和感を伝えてくれているのですから!

 

そういう声を、「わがまま」とか「甘え」とか「異例」と切って捨てるようでは、日本に未来はないんじゃないでしょうかねぇ。

 

 

 

「不適応型」は環境を変えれば解決することも

話が脱線してしまいましたが、現実的な対応として、「不適応型」の人は環境を変えるだけでOKという場合もあります。

(注:すべての方に当てはまるわけではありません)

 

たとえば、教室に何十人もの人と一緒にいることが苦手ならば、空き教室を「避難場所」として用意し、本人が好きな時にそこに行けて、いつでも教室に戻れるとすれば、かなり安心感が出てくるでしょう。

どういう状態ならその子が落ち着けるのかを、学校側と協力して探せるといいですね。

学校側にまるで理解がない場合は、養護教諭や医師、スクールカウンセラーなどの専門家に協力してもらうと、いいかもしれません。

 

集団生活が苦手というお子さんなら、本人が休みたいという時は休ませる、気が進まない行事には参加しない、というだけでだいぶ違うかもしれません。(苦手の程度にもよりますが)

 

いずれにしても、学校に行くか/行かないかのオール・オア・ナッシング的思考で、やみくもに学校に戻そうとするのではなく、本人がそもそも学校に行きたがっているのか、環境が変われば行きたいと思っているのかを聞いて、それに沿うように対応するのがポイントです。

 

・まず、何に困っているのかを把握し

・何を変えれば問題が解決するのかを検討する

という段階を踏んで対応しましょう。

 

 

この時、本人も保護者も過度に申し訳なく思う必要はありません。

子どもによって違うのは当たり前のことで、合理的な範囲で最大限努力するのは学校のつとめです。

そこを怠るということは、子どもの義務教育を受ける権利を侵害していることになりますよね。

どうしてもできないことはあるので満額回答を得られるとは限りませんが、「言うのはタダ」ですから、まずは学校側に伝えつつ、こちらも柔軟に構えてできることを惜しまず、というかたちでトライしてみてはどうでしょうか。

 

 

とはいえ、現実問題として、これら対応を教師や他の児童・生徒がどう受け止めるかは、課題として残ります。

「ずるい」「特別扱い」と、ネガティブにとらえられることはあり得ます。

(「全員が一斉に」がネガ反転してしまう、まさに学校的病理とも言えるわけですが……)

 

 

第一歩は、本人とすぐそばにいる大人がどう捉えるか、です。

「特別扱い」という言葉が浮かびそうになったら、「合理的配慮」と読みかえるところから、はじめてみてはどうでしょうか。

 

 

不登校は「きっかけ」でその後の対応がかなり変わる

 

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不登校は、

・子どもの年齢

・不登校の原因

・学校との関係性、関わりの度合い

・葛藤の有無

・家庭の状況

など、変数がとても多いので、ひとくくりにできないところがあります。

 

 

私がそのことに気づいたのは、不登校の豊穣なる世界に足を踏み入れてからのことでした。

外から見たら「不登校」とひとくくりですが、内側は他のコミュニティと同様、ひと色ではありません。

「オタク」もいろいろで、雑にまとめられると当事者はムッとする……というのと同じで、ムッとするかどうかはともかく、まあ、違いはあるのです。

 

 

今回は「不登校になった理由・原因」にフォーカスして話を進めますね。

 

 

 

 

 

 

不登校の理由・原因は5つに分かれる(仮) 

※その後、「不適応型」があることに気づいたので5つとしました。「不適応型」については、長くなるので別稿で書きます

不登校になった理由・原因は、大きく分けると5つでしょうか。

 

一つ目は、自主的に学校に行かない道を選ぶ「自発型」。

二つ目は、いじめや学校とのトラブルで行かない/行けなくなる「高葛藤/ヴィクティム(犠牲者・被害者)型」。

三つ目は、学校の環境・仕組みが合わなくて行けなくなる「不適応型」。

四つ目は、本人にも理由がうまく説明できない「中動態型」。

五つ目は、保護者が学校に行かせない「保護者主導型」。

(他にもあるよという方はコメントでお知らせください)

 

五つ目の「保護者主導型」は、保護者も本人も学校に行かないことに積極的なケースは「自発型」に分類し、本人の意志に反して保護者が行かせないケースと定義します。これは、一般的な不登校マターの範疇を超えた話を含むので(どちらかというと児相案件?)、今回は触れません。

 

「自発型」「高葛藤/ヴィクティム型」「不適応型」「中動態型」は、同じ不登校でもまったく異なる様相を呈します。

 

このことに気づかされたのは、2つのタイミングがきっかけでした。

 

 

 

そんなに力まなくてもいいじゃないですか

まずひとつめのタイミングは、このブログを立ち上げて間もない時でした。

この時気づいたのが、「自発型」と「高葛藤/ヴィクティム型」の違いでした。

 

わたしのブログを読んでくれた不登校経験者から、「そんなに力まなくてもいいんじゃないですか」と、たしなめられたことがありました。

 

私の頭は「えっ?? それってどういうこと???」とはてなマークがいっぱいに。

当時の私は、力んだつもりはなくて、起きたことと、それにともなう私たちの思いを書いていただけ、という感覚だったからです。

 

その不登校経験者の方は、「なぜかわからないけど学校に行きたくない」で小学校低学年の時に学校に行かなくなった人でした。

先の分類だと「中動態型」ですね。

そういう人から見ると、私がここで書き綴っていることは、鼻息荒く見えるんだなーとしばらくしてから気づいたのでした。

 

私は傷ついたんだと思います。

いじめを解決しようとしない学校や教育委員会への怒りや悲しみを、「あなたが間違っている」「そんなに怒らなくても」と言われたような気持ちになったのでしょう。

(もちろん、その人にそういう意図があったわけではないと思います)

 

このように、学校との間に「対立」や「葛藤」があるかどうかで、不登校のおもむきはかなり違ってきます。

 

 

 

「自発型」は保護者がキーになる

「自発型」は本人が行かないことを積極的に選んでいるので、保護者が不登校を問題だと思わなければ、かなりスムーズに事が運ぶでしょう。

学校に対しても余裕のある対応ができ、学校と友好関係を保つことも十分可能です。

 

 

保護者が不登校を問題だと考えていると、いろいろこじらせて時間がかかる傾向にあります。

不登校は、学校に行かない子どもが問題なのではなくて、問題化する大人の問題だということがクリアに分かってしまうケースと言えます。

 

 

というと、不登校を受け止められない大人は、ダメ出しされているように感じてしまうでしょうか。

そうではありません。

受け止められないという思いをなかったことにはできないですからね。

 

そこから出発していきましょう。

まずは「仲間」と「情報」です。

futoko.hatenablog.jp

 

 

 

高葛藤/ヴィクティム型ならではの苦しみ

※わが家がこのタイプのため、他よりも詳細に書いています。ご了承ください

学校との間に、対立や葛藤があった場合は、かなり苦しい思いをします。

 

具体的には、

・いじめ

・教師の子どもへの接し方に明らかな問題がある

といったことです。

 

集団生活であることを優先される学校では、トラブルは起きて当たり前。

だから、トラブルが起きること自体は問題ではありません。

 

問題は、そのトラブルにどう対応するか、です。

「これはおかしいですよね」「解決しないといけない問題ですよね」という認識が当事者の間で一致していればそんなにストレスはありません。

問題解決に向かって、協力できるからです。

 

が、そこが話し合い不能なほどに食い違ってしまうと、悲惨です。

 

わが家のケースはまさにそうで、このブログの初期のポストを読み返すと

 

学校側の理屈は、「考え方の違い」で済ませてほしくない理屈だと感じました。

これが通るならば、正義はないことになります。

 

都合の悪いことは「ご指摘にはあたらない」ですべてはねつけている安倍政権に似ていると感じました。

 

 と書いていました、私。

 

それでも、問題を解決したいと思うならば、もう一方の当事者である学校に協力してもらうしかありません。

しかしこれが、簡単ではない。

気乗りしない人、同じ方向を見ようともしてくれない人に協力してもらうのって、かなり難しいですよね。

 

ニュースとしてたびたび報道されている、いじめ自殺の後の学校・教育委員会側のマズい対応を見ると、それがよくわかると思います。

死者が出ていてもこれなのですから、そこまで行かないトラブルの場合も、同じかもっとひどい蓋然性は高いでしょう。

(もちろん、誠実に対応する学校もたくさんあるでしょう<そう願いたい>。そういうケースは報道されないから知らないだけ<そう願いたい>)

 

 

 

答えの出ない問いで自分を責め続ける

それに加えて、

絶えず、

・自分たちにも問題があったのかもしれない

・なぜ学校側はあのような対応をするのだろうか

という、なかなか答えの出ない思いを抱えることになります。

 

ドラマ「アンナチュラル」で井浦新さん演じる中堂系が、「永遠に答えの出ない問いを繰り返す人生」の話をしていましたが、ちょっと似ているなぁ、と感じました。

今、当時の担任や校長、そして加害児童に問うても、たぶん戸惑うだけではかばかしい答えは返ってこないでしょうから……。

 

これは、かなり長期間苦しむことになります。

わが家は丸2年経とうとしていますが、この苦しみからはまだまだ解放されていませんし、先も見えないのが正直なところです。

 

だから、そのことをもってして、学校に対して偏った見方をしているとか、感情的だというふうに言われてしまうと、本当につらいんですよね。

私だって、学校とはニュートラルにフラットにやりたいですよ。

でも、それはとても難しい。

 

たとえば、自分にとって大切な人に暴力をふるった相手に対して冷静になれるでしょうか?

そして、そういうことがあった時に、「暴力をふるわれた側にも問題がある」と言われたらどうでしょう。

それと同じ感じなのですよ。

 

 

 

本人にも理由がわからない「中動態型」は珍しくない

二つ目のタイミングは、『不登校新聞』488号に掲載された、哲学者・國分功一郎さんのインタビューを読んだ時です。

このインタビューを読んで、不登校にも「中動態型」があることを知りました。

 

学校に行けない理由を本人がうまく説明できない「中動態型」は、不登校の世界では珍しくはありません。

が、理由がはっきりしないので、本人も苦しむし、周りの人も困惑しがちです。

このインタビューは、そういう人にぜひ読んでいただきたいです。

 

futoko.publishers.fm

 

國分さんは、話題になった『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)という著書で、小林秀雄賞を受賞されています。

とても面白い本です。

 

中動態というのは、言語の世界で使われる受動態でも能動態でもない「態」で、古代の言語にあった概念です。

何かが自分の外側で完結するか、内側で完結するか、で行為を分けていたというのです。

「する」(能動)/「される」(受動)とは異なる対立軸ですね。

 

また、「意志」についての言及も興味深く、今の私たちは、人間が何かをしようとする時は「意志」にもとづいているはずだと信じて疑いません。

しかし、古代にはなかった「意志」という概念は、そこまで自明なものなのか? と問うているのです。

 

これはテレビ番組「100分de名著」(NHK Eテレ)で國分さんが例に出していたのですが、不良にカツアゲされてお金を出すとき、これは能動なのか? 受動なのか? という問題で考えることができます。

たしかに、財布をひらいてお金を出して不良に渡している主体はほかでもない自分です。

しかし、自分の意志ではなく、不良に脅されて仕方なくやっていることなわけです。

 

受動でも能動でもない。

自分の意志ではないし、自分の責任と言われても困ってしまう状態。

そういうことって、珍しくないですよね。

「自己責任論」が幅を利かす今の世の中では、このような状態に置かれて苦しんでいる人が多いのではないでしょうか。

 

 

不登校においては、「学校に行くよと言ったものの、実際には行けない」という事態は珍しくありません。

ここに、おなじみの「意志」や「責任」という言葉を持ち込むと、本人を責めることしかできなくなってしまいます。

矛盾しているように感じられるかもしれませんが、本人にとっては、「学校に行く」という言葉に嘘はないし、「行けない」という状態もまた真実なのです。

 

依存症患者のことを、よく「意志が弱いからだ」と責めるケースがありますが、依存症は意志でどうこうできるものではありません。

「やめたい」という思いに嘘はなく、「やめられない」という状態も真実なのです。

 

不登校にも同じようなケースがあるのです。

(注:依存症は病気であり治療で改善できることがはっきりしていますが、不登校は病気ではありませんので、そこは混同しないようお願いします)

 

 

この矛盾を受け止められるかどうかが、「中動態型」のポイントかなと思います。

知っておくと対応を誤らなくて済む大事なポイントでもあります。

 

 

 

気持ちを整理する助けに

不登校界隈の発信を見ていて、前からモヤモヤしていたことがありました。

このモヤモヤは何だろう? と考えているうちに、「不登校になったきっかけによって、見えている景色がずいぶん違っているのかも」ということに気づきました。

 

わたし自身、未就学の子どもが2人控えているので、もし彼らが学校に行きたいとなったときに、信頼感ゼロの学校とどう相対したらいいのか、という現実的な課題を抱えています。

学校との葛藤がなければ、おそらく抱えずに済んだ課題でしょう。

 

そんな自分の気持ちを整理するために書きました。

 

不登校の当事者や関係者の人には、問題点やポイントをクリアにする一助になれば御の字ですし、その周りにいる人たちには、こういうことを知っておいてもらえるとうれしいですね。

どうする? 学校から不登校家庭へのアプローチ

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もう昨年の春のことになってしまいますが、新年度(2018年4月)に学校から連絡がありました。

 

 

不登校中の、学校からのアプローチ。

 

 

不登校界隈ではだれもが一度は経験することのようですが……。 

 

 

 

いじめ問題渦中の担任と校長が異動に

2018年4月に、長男の1・2年次の担任と当時の校長は異動になりました。

 

 

長男へのいじめの一件が響いたのか(残念ながらたぶんそうではないに座布団10枚……)、年数的にそろそろだったのかは不明ですが、とにかく異動しました。

 

 

新しい担任と校長が着任したタイミングで、学校側から「あいさつに行きたい」と連絡があったのです。

  

 

学校に行っている人からすると当たり前のことで、むしろ丁寧な対応に映ると思います。

 

 

が、学校に行っていない側からすると、これは結構なプレッシャーになる場合が多いのです。

 

 

 

アプローチする側/される側の「ズレ」

似たような問題として、『不登校新聞』で「プリントお届け問題どうしてる?」という特集がありましたが、「うれしい」という声は少数派のようです。

 

 

クラスメイトや部活仲間の自発的なものも含めての、学校・クラスメイト側からのアプローチというのは、一筋縄ではいかないものがあります。

 

 

アプローチする側は、純粋に心配だったり、心から“元通り”になってほしい、元気になってほしいという善意だったりが、その行動のもとになっているでしょう。

(現状、まだまだ不登校が教師や管理職の失点と捉えられることの多い学校現場においては、教師のモチベーションは必ずしも上記のようなものではない可能性はありますが)

 

 

学校に行っていない側がどう受け止めるかは、千差万別です。

不登校というのは、子どもの年齢・不登校の原因・学校との関係性・関わりの度合い・葛藤の有無・家族の状況など、変数がとても多いからです。

 

 

当然、アプローチ自体が負担になる場合もあります。

 

 

・何て言われるんだろう。

・本当はどう思っているんだろう。

・学校に行っていないことが負い目だ。

・(いろいろな理由から)クラスメイトにも、友だちにも、今は会いたくない。

・責められるかもしれない。

・ズルいと思われているかもしれない。

・自分がダメだということを思い知らされる。

・とにかく会いたくない。

……etc.

 

 

 

 

わがやの場合

わたしたち保護者は、正直に告白してしまうと「今は接すること自体が負担だなぁ……」「明日の夕方って、ずいぶん突然だな」と感じました。

長男はまた別で、単純に新しい担任の先生がどんな人が興味が湧いたようです。

結局は、長男と夫とわたしで相談して、来てもらうことにしました。

 

返事かたがた、一枚の文書をFAXで送りました。

 

 

青木村教育委員会
●●様


平成30年4月5日(木)

 

 昨日はお電話をありがとうございました。
 その後、長男も含めて家族で話し合いました。
 長男の希望により、本日4月5日(木)17:30頃に、先生方に拙宅までお越しいただきたく、お返事差し上げる次第です。
 面会にあたって、何点かお願いがございます。

●弟たちが幼稚園入園前で在宅中であることと、もっとも慌ただしい時間帯なので、恐れ入りますが、玄関先でのご挨拶のみとさせていただきますようご容赦ください。

●長男本人に改めて確認しましたが、現時点で学校に戻る気持ちはないとのことです。私たち保護者としても、学校に戻したい気持ちはありません。面会にあたって、学校へ戻ることを促す内容はお控えいただけますようお願いいたします。

 私たち保護者は、長男の希望であるならば、一日も登校しないまま義務教育課程を終えても構わないと考えています。
 家庭を中心に、周囲の方々のご協力を仰ぎながら、長男の成長をサポートしていくつもりです。
 学校教育に携わられている先生方には承服しかねることかもしれませんが、当事者である本人の意思を尊重した上で、われわれ保護者が熟慮した結果、このように考えるに至りました。
 おかげさまで、長男は実にのびのびと日々を過ごしています。われわれも、さまざまなことに関心を寄せ、心を動かし、できることがどんどん増えていく長男の姿を間近で見ていられる幸せを噛みしめているところです。
 また、昨日お電話を頂戴したあと、夫も私も当時の怒りや悲しみといった感情が生々しくよみがえって、ある種のフラッシュバックのような感覚におそわれました。どうしても必要な事務的なやりとり以外は、ご連絡はご遠慮いただきたいのが本音です。
 これらのことを尊重していただいた上で、今後は適宜、必要なときにこちらからご相談等お願いできれば幸いに存じます。
 どうぞよろしくお願いいたします。 

 

 

 

一枚の文書 

なぜこんなものを送ったかと言えば、露骨に言ってしまえば、釘を刺しておきたかったからです。

 

 

今までの経緯を考えると、学校側にわたしたちの考えや意図がきちんと伝わっているかは、かなり怪しいと感じていました。

 

 

それに、いちばん避けたかったのは、長男に直接「学校においで」と言われることでした。

 

 

いじめを解決しようとしないのに「学校に戻ってほしいんです」と具体的なプランを提案されてしまった経緯があるので、「学校においで」と言われる可能性は高いだろうなと直感的に頭に浮かびました。

 

 

学校に行かなくなった原因であるいじめが解決していないのに「学校においで」というのは、とても奇妙な話です。

そもそも現状では本人に学校に行く気がなく、その気持ちは尊重されていないことになります。

 

 

わたしたち保護者は、学校の関係者にはとてもじゃないけれど会いたくはありません。

学校の敷地ですら、足を踏み入れたくない……。

 

 

はっきり言って、トラウマです。

 

 

正直、ここまで親であるわたしたちが傷つくとは思っていませんでした。

そのあたりの話は、最近出版されて話題になったこの本が生々しく伝えてくれそうです。

(買ったのですが、気持ち的にまだ読めないでいます)

 

 

honto.jp

 

 

 

そして当日。

こんな文書を送ってくる保護者は面倒に違いないと思われたのか、おそるおそるという雰囲気で、本当にあいさつのみだったそうです。

(わたしは不在だったので夫からの伝聞です)

 

 

 

かたちばかりの「待ってるよ」 

学校側としては、何もしないのはマズいということもあるのかもしれませんね。

まだまだ学校現場では、不登校は「あってはならない」問題行動と受け止められているようですから……。

不登校じゃなくなってほしいのが本音だと思います。

 

 

でも、信頼関係が損なわれているところに、学校側の“思い”主体でアクションを起こされても、逆効果なのではないかと。

わたしたちにとっては、

 ・学校側が誤りを認めて解決に動く(今となってはもう不可能ですが……)

 ・わたしたちの考え・スタンスを尊重する

までは、対話のスタートラインに立てないというのが正直なところです。

 

 

これは出典を失念してしまったのですが、部活が原因で学校に行かなくなった中学生が、部活の仲間からかたちばかりの 「待ってるよ」という手紙をもらってつらかった、という体験談を読んだことがあります。

 

 

一般的には美談になりますが、受け取る側にはなかなかに残酷です。

 

 

 

正解はないけれど……

今回のことは、Facebook上の不登校オンラインサロンでも共有して、いろんな人の意見や体験を教えてもらえたのはよかったです。

 

 

学校からの働きかけに身構える保護者とは対照的に、子どもはあっさり「ちょっと行ってみようかな」となって、久しぶりに学校に行こうかという流れになったご家庭がありました。

当たり前ですが、子どもはまた別の感覚を持っています。

その保護者の方は、「行っても行かなくても、どっちでもいいんだ」と肩の力が抜けたと教えてくれました。

 

 

また、学校に行きたいときだけ行っているお子さんは、「学校は楽しいところ」と言っていました。

自分が行きたいと思ったときに行って、行けば同い年の友だちとワイワイできる。

詳しくは聞いていませんが、学校に毎日通っていないことをニュートラルに受け止められるクラスメイトに恵まれていることもあるのかもしれませんね。

これも、目からうろこでした。

 

 

わたしたちは今回こういうやり方をとりましたが、もちろんこれが正解とは考えていません。

あくまで、さしあたっての対応に過ぎません。

こんな文書を送りつけるなんて、「面倒でキツい保護者だよね~」と自虐的に思うこともあります。

 

葛藤は常にあります。

 

 

 

 

開拓者の醍醐味

学校に行かないという選択をすると、このように、正解のない事象がいろいろと起きてきます。

 

 

うーん、大変だ! 面倒だ!

 

 

でも、おもしろい。

だって、道なき道を、自分たちで開拓していくんですよ。

わたしたちなりの答えを見出していくということは、かけがえのない時間だと感じています。

 

 

もちろん、保護者であるわたしたちがそう思っているだけで、長男はまた違った感じ方をしているでしょう。

 

 

 

相手を喜ばせなくていい

正解はないけれど、それでも、ほんとうの気持ちを伝えることが、いちばん大切なことなのかなと思います。

 

 

たとえそれが相手を喜ばせないものであっても、です。

 

 

対話はそこからしかはじまらないし、対話がはじまらなければ理解もしあえないからです。

 

 

 

時間が経って状況や思いが変わることがあっても、ほんとうの気持ちはいつでも伝えられるように、見失わないようにしていたいです。 

 

 

《後編》子どもとヨコの関係になる、恐れを手放して愛するには? ~「オヤトコ発信所と勉強会」に行ってきたよ

↓《前編》はこちら

futoko.hatenablog.jp

 

では、後編にまいりましょう。

午後は、「愛する」について学び合います。

 

 

 

 

 

「愛」ってなんだ?

愛って言葉はよく出てきますよね。
私は、ちょっと身構えてしまいます。
愛ほど大事な言葉もないことは理解していますが、愛は愛ではないもの、愛もどきのもののカモフラージュとしても実によく、便利使いされているからです。

 

 

よっぴーさんの文章には、よく「愛」という言葉が出てきます。

この勉強会に参加するまでは、私はよっぴーさんが使う「愛」の意味を正確には理解できていなかった、ということを痛感する2時間でした。

 

 

午前と同じく、まずはシンキングタイム。

崎陽軒のシウマイ弁当でくちくなったお腹から、脳みそに血液を戻しますよ。

 

 

● 子どもが昼夜逆転していてせっかくの元旦にも家族が揃わない
● 子どものお誕生日にケーキを用意したのに「いらない」と言う
● 子どもが「こんなご飯たべたくない」と言う
● 調理中に「ちょっとお皿取って」と頼むと「イヤ」と言う

 

 

こういう状況のとき、どんな感情が湧いてきますか?

 

まあ、一般的には「ムカッとくる」となるでしょうか。

 

しかし、どうしてムカッとするんでしょうね?

改めて考えてみると、不思議ではないですか?

 

 

どうしてその感情が出てくるのか?
そこを考えていくと、見えてくるものがあります。

 

そして、それは少なくとも、「愛する」という言葉からは離れたものであることに気づきます。

 

 

私は、愛するとは、相手の幸せを願う事、相手がやりたいことを応援すること、だと思っています。
そこに、自分の意向は絡ませない
それが愛だと、私は考えています。

 

 

 

ムカッときたら、その手前を見る

ムカッとくるときの手前にある感情はいろいろありますが、一言でいうと「愛されていない」という感覚なのではないかと思いました。
愛されていないという「事実」ではないですよ。
「そう感じたという現実」です。

 

言い換えると、「受け入れられていない」という感覚とも言えます。

▼ここから先は、勉強会に参加して聞いてみて下さい▼

 

 

 

I(アイ)メッセージで伝える

よっぴーさんの話を聞いていて私が思い出したのは、「I(アイ)メッセージで伝える」ことの大切さです。

アイメッセージとは、「わたし」を主語にして相手に伝えるということです。

 

相手に何かを言う時に、「あなた」「みんな」という言葉が主語になったら要注意です。
「あなたはどうしてそうなの?」「みんなもそう言っている」。
相手を責める言葉ですね。
これは……愛する、とは離れる言葉ですね。

 

でも主語を「わたし」しか使わないようにすると、責める言葉は使えなくなるんですよね。
不思議なことに、きちんと境界線が引けるんです。


日本語は主語がなくても成り立つ言語なので、ここは結構大事な急所だと私は思っています。

 

 

 

やり方を知らないなら学べばいい

ヨコの関係10か条を挙げたときだけにとどまらず、よっぴーさんが繰り返し言っていたのが、

 

私たちはやり方を知らない。だからできない。でも、学ぶことはできるし、自分を訓練することはできる。

 

ということです。
そう、自分を変えることはできるのです。

 

 

 

練習あるのみ!

もうひとつ印象的だった言葉が、「イチローですら3割」
10球打ったうち、3球が安打になればすごい打者と言われる。
すごい打者なのに、毎日毎日練習を欠かさない。
試合に向けてのコンディションづくりをすごく大事にしている。

 

ということはですよ、わたしたちも「ヨコの関係」を作るのに、「愛することを知る」ために、安打ではない7球を受け入れつつ、毎日練習あるのみということです。

 

 

よっぴーさんは「失敗する自由」という言葉も使っていました。

 


子どもにも失敗する自由があるのと同じように、親にも失敗する自由があります。
失敗したら、「ああ、これは失敗だった」と( ..)φメモメモして学べばいい、と思うと少し肩の力が抜けますね。

 

 

そもそも、タテのものをヨコにするには、すごくパワーがいります。
だから、自分の「重し」になる言葉を自分で探してね、とよっぴーさんは言っていました。

 

 

さて、ここから先は自分で「考え続けて」「実践あるのみ」です。

 

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こんな素敵な冊子がお土産でいただけます。デザインはよっぴーさんのお嬢さん・まりんさんです。今日学び合ったことを振り返るのに使えます

 

 

 

大人の経験と知恵の使いどころ

めんどくさい?
そうですね。


でも、それが大人、先に生まれた者のつとめかなと私は思っています。

 

大人の経験と知恵の使いどころはまさに、ここ。
経験と知恵は、子どもに教えるために使うのではなく、子どもと学び合えるような環境づくりに使うのだと私は理解しました。

 

教えるのは簡単です。

でも、教えてほしいと言われてないのに教えることは、余計なお節介になり得ます。
そんな場面は結構あるのではないでしょうか。

 ・スプーンが欲しいと言っていないのに、察してスプーンを出してあげる

 ・「寒い」と言っていないのに、寒そうに見えたから上着を着せてあげる

こういう行為は、一般的には「親切」「気が利く」と言われるだけに、やっかいです。少なくとも日本では、美徳とされていますね。

 

 

「早く着替えて!」「お風呂まだ?」「もう出かける時間なのに!」「またこぼしてる!」「こんなに寒いのになんで薄着なの?」……etc.と言い続ける毎日よりも、

 

子どもを「小さい人」として尊重しながら、そういうことを言わずに済むように私にできることはないか?

 

に知恵を絞る毎日のほうが、よっぽど楽しそうじゃないか! と私は思います。

(おまけに、圧倒的に楽ですよ)

 

 

めっちゃクリエイティブですよ。

 

 

一生かかるかな?
かかるかもね。

 


でも、一生をかけるかいがあるテーマではないですか?
少なくとも、私はそう思っています。