子どもが不登校になったらまずやることは2つ
お子さんが不登校になったときに、保護者はまず何をすべきなのでしょうか?
文部科学省も「不登校は誰の身にも起こりうる」と明言しています。
まずは深呼吸して落ち着きましょう。
そして、ゆっくりと、当事者であるお子さんに「わかった。学校を休もう」と伝えてください。
それから、2つのアクションを起こしましょう。
今日は、そのアクションについて、わたしの経験をもとにお話をしますね。
- 子どもが「学校に行きたくない」と言い出した!
- 子どもの学校行かない宣言は「自分は瀕死の状態です」申告と思ってください
- 保護者がやることは2つ
- 情報を取るときのポイント
- 同士とつながる方法
- 「ひとりじゃない」のはあなたも同じ
子どもが「学校に行きたくない」と言い出した!
お子さんが「学校へ行きたくない」と言って、学校を休むようになったとします。
そういう事態を具体的に想定していない方がほとんどでしょうから、保護者は焦りや混乱に見舞われるでしょう。
でもとりあえず、落ち着きましょうね。
はい、深呼吸~~(*´ω`)
「なんで?」「いつ登校を再開するの?」「勉強遅れちゃうじゃない」という言葉が口から飛び出そうになりますが、その答えはおいおいわかりますから、今は脇に置きましょう。
子どもの学校行かない宣言は「自分は瀕死の状態です」申告と思ってください
……落ち着きましたか?
お子さんは、やっとの思いで「学校に行きたくない」と打ちあけて、今は心身ともに疲れ切っています。
学校を休んで、
ずっと寝ている。
ゲームばかりしている。
ダラダラしている。
見た目は怠惰にしか見えなくても、戦場から瀕死の状態で帰ってきたのと同じと考えてください。
(学校は戦場じゃないでしょー? というツッコミはなしでお願いします。当事者はそれくらいの危機的状態だという説明のための比喩です)
さらに、家にいるということは、家は少なくとも安心できる巣足り得ているということです。
そのことを喜びましょう。
世の中には、本当に悲しいことですが、家が安心できる場ではないという子どもも大勢います。
保護者がやることは2つ
さて。
ここから保護者がやることは2つです。
1.情報を取りに行く
2.同士(仲間)とつながる
この2つだけです。
あとは、取りに行った情報と、つながった同士たちが、あなたを次の場所へ連れて行ってくれます。
逆に、これをやらないと、まずはお子さんを受け止めるべき保護者がいつまでも無用な不安にとらわれ、お子さんを苦しめます。
また、学校と話し合うにしても孤軍奮闘で消耗する可能性が高いです。
情報を取るときのポイント
「不登校=問題行動」というベクトルはNG
情報は「ネット」がいちばん手っ取り早いでしょう。
「不登校 支援」「不登校 団体」「不登校 定義」などで検索してみてください。
ただし気をつけていただきたいのは、不登校は今でも「問題行動」という見方がまだまだ強く、ネット上で「不登校支援」をうたっている情報でも「なんとか学校へ戻す」「学校の代わりを探す」というベクトルが多い点です。
今は文部科学省ですら、「不登校は問題行動」という考え方を一切捨てています。
2017年に教育機会確保法という法律が成立して、「個々の不登校児童生徒の休養の必要性」を法律で認めたのです。
(教育機会確保法にはまだまだ足りない部分もたくさんありますが、今までの国の不登校への対応の経緯からすると前進と言えます)
最初から「元に戻す」方向へ進もうとすると、お子さんをさらに追い詰めて、地獄を見ることになる可能性が非常に高いです。
ほうほうのていで戦場から帰ってきた人を、なんとか戦場に戻そう、戦場の代わりになる場所に連れて行こう……とはしませんよね。
まずは心身ともにゆっくり休ませます。
それと同じです。
不登校のことをニュートラル、受容的に教えてくれる情報を
まずは、「不登校とは何なのか」を正確に、ニュートラルに、受容的に教えてくれる情報を探してください。
不登校の当事者による団体、または不登校の当事者が自分らしく生きられるように支援をしている団体のホームページなどが、いいでしょう。
ただし、評判のよくない団体もありますから、要注意です。
検索エンジンで最初に出てくるページだけでなく、2~3ページは見出しに目を通されることをおすすめします。
お住まいの自治体名と合わせて検索すると、地元や近隣の支援団体が出てくるかもしれません。
探すのと読むのとに少し根気がいりますが、文部科学省のホームページにも不登校に関する資料はあります。
もちろん、本から情報を得てもいいです。
まずは地元の図書館で調べてみてください。
意外と不登校ジャンルの本は置いてあります。
(わたしが住む青木村の図書館にもありました!)
わたしがおすすめするのは、
1.日本で唯一の不登校・ひきこもり専門紙「不登校新聞」のホームページ
3.AI-am(アイアム)のホームページ
です。
おすすめ情報源1「不登校新聞」
ホームページで誰でも読める情報として、「当事者の声」「親のための不登校Q&A」があります。(1カ月の無料お試し購読のための登録が必要です)
まずはここを読まれることをおすすめします。
購読したい場合は、紙版とネット版から選べます。
紙を選んだ場合、他の人に「不登校新聞」ということがわからないように配送してくれるサービスも選べます。
わたしはこの新聞をすぐ購読して、すごく救われました。
まず、不登校を一切否定的に扱っていないこと。
そして、当事者の矛盾、悩みをふんだんかつ丁寧に扱っていること。
隅から隅まで不登校の当事者と保護者に寄りそう内容で、著名人や専門家へのインタビューも載っています。
不登校関連の政治の動向についての記事が載ることもあり、情報のアップデートには最適です。
わたしがいちばんうれしかったのは、最終面に各地の親の会の開催情報が載っていることでした。
おすすめ情報源2「東京シューレ」
「東京シューレ」はフリースクールやホームエデュケーション(家庭での教育・学習)がメインですが、不登校そのものについても活動をしています。
不登校に対して否定的な見方がみじんもなく、不登校やフリースクールのイメージを変えてくれるだけの情報量と30年以上の蓄積があります。
ちなみに「不登校新聞」の代表理事である奥地圭子さんは、「東京シューレ」「登校拒否を考える会」の代表でもあります。
おすすめ情報源3「AI-am」
こちらは、個人(母娘)で運営しているサイトです。
デモクラティックスクール(サドベリースクール)のスタッフ経験がある母・よっぴーさんと、小~高まで公教育を受けずに大学に行った娘・まりんさんが、不登校やこれからの「学び」について、実体験や情報の発信を続けています。
ホームページでは、おふたりの投稿がたくさん読めるので、気になるところから読んでみてください。
Facebookでオンラインサロンも運営しています。
でも最後は自分の目で確かめてね
現時点で、わたしの経験に基づいてこの3つのサイトをお勧めしましたが、これがすべてではありません。
ぜひ、ご自分の目でよく確かめられることをおすすめします。
同士とつながる方法
不安に心を支配されないために、
悩まなくていいことで右往左往しないために、
学校との話し合いを後悔の嵐にしないために、
そしてお子さんを無用に傷つけないために、
同じような立場の人とつながることを、強くおすすめします。
できればリアルで。
「親の会」を探してみる
まずは「親の会」につながってみるのはいかがでしょうか。
「親の会」については、「不登校新聞」の最終面に、各地の親の会開催情報が載っていると前述しました。
ここでチェックしてもいいですし、支援団体に問い合わせてみてもいいでしょう。
また、お子さんの学校を担当しているスクールソーシャルワーカーに尋ねるのも手です。(スクールソーシャルワーカーは社会資源の情報提供も仕事のひとつです)
自治体の子ども支援や教育関連の窓口で尋ねる方法もあります。
とはいえ、小さな自治体だとハードルが高いかもしれませんね。
その場合は、近隣の大きい自治体で電話で尋ねてみてはいかがでしょうか?
ネット上のサロンもある
リアルでのつながりが難しければ、ネットのサロンもあります。
例えば、東京シューレが運営している「ホームシューレ」では、親会員専用交流サイトが用意されています。
会員になる必要はありますが、クローズドかつ全国に仲間がいる空間なので、安心感があります。
また前出の「AI-am」でもFacebookのオンラインサロンを運営しています。
こちらはまだできて日が浅いですが、よっぴーさん&まりんさんのお人柄もあって、非常にリラックスできる場、さまざまな気付きを得られる場になっています。
無理せずにいられる場を選ぼう
ちなみに、わたしはリアルの「親の会」は2か所行きました。
ひとつはたまたま友人が参加していた地元の会。
もうひとつは、長野市で長く続いている会。
地元の会はできたばかりで、知っている人も少ないです。
こんなふうに、ネットや公的な情報にも上がっていない親の会もあります。
長野市の会は、なにしろ長くやっているので蓄積があります。
具体的に困っていることがあったときに相談に行き、話を聞いてもらってアドバイスをいただき、本当に助かりました。
会には、まず顔を出してみて(個人相談を受け付けているなら最初はそれを利用する手も)、素直にホッとできる場・メンツならば、あなたに合う会である可能性が高いです。
無理のない範囲でつながってみてはいかがでしょうか。
逆に「居心地が悪いなぁ」「イヤなこと言われちゃったなぁ」という場合は、しがみつかず、他を当たりましょう。
「親の会」の空気感とは?
わたしが「親の会」に出てみて感じたのが、会が目的化しておらず、それぞれが出会う場になればいいというゆるやかな空気があることです。
だから、義務的なことや強制がありません。(場所代・運営費として少額支払うことはあります)
話したいことがあれば顔を出して、そうでなければ来なくてもちろんOK。
会員になるならないも、ご自由に。
そんな感じです。
子どもの不登校で打ちのめされたり、消耗したりする保護者は多いです。
親の会でまで、窮屈な思いをしたり無理をしたりはお互いしたくないよね、という雰囲気です。
もちろん、そうではない会もあるでしょう。
実際、相談に行ったらかえってお説教めいたことを言われてヘコんだ……という方もいます。
自分に合うかどうかは、よーく見てみてください。
最初「いいなー」と感じても、違和感が出てくれば無理に付き合うことはありません。
距離を置いてもよし、さっさと離れるもよし、です。
「親の会」は学校じゃないからね!
無理して行かなくていいのですから。
あっ、学校も無理して行かなくていいんですよー。
「ひとりじゃない」のはあなたも同じ
なにしろ、不登校の当事者は小・中だけで12万人超もいるのです!
高校生まで入れると17万人。
ということは、その保護者・関係者・支援者もかなりの数いるということです。
どこかに必ず、あなたにとってジャストサイズでベストタイミングな場があるはず。
きっとあなたをエンパワーメントしてくれる人たちがいるはずです。
自殺に追い込まれそうになっている子、不登校の子に対してよく言われる「あなたはひとりじゃない」という言葉は、その保護者にもそのまま当てはまります。
どうか、ひとりでなんとかしようとしないでください。
「情報」と「仲間」。
それが、きっとあなたを助ける頼もしい武器になってくれます!
「わたしはそう思わないけど、世間はそう見るから」と言わないことに決めた
鳥は「自由になりたい」と思いながら飛んではいません。ただ、あるがままである。自分を不自由にするのはただひとつ、自分だけです。
いきなり宣言します。
以前から「わたしはそう思わないけど、世間はそう見るから」という言い回しに、「いや、それは『わたしもそう思っている』と同義だろ?」と気付いてしまっていたわたくしgyogoです。
鼻の穴を膨らませてながらそう思っていたわけですが、かく言うわたくしがそう思っていた、ということが先日わかってしまったのでした。
「ゲシュタルトセラピー」という心理療法をご存知ですか?
通常のセラピーでは「過去」にフォーカスする場合が多いですが、ゲシュタルトセラピーは「いま・ここ」にある「からだと心」に何が起きているのかに本人が「気づく」ことにひたすら集中します。
分析や解釈、解説は一切しません。
最近では、漫画家の田房永子さんのコミックエッセイ『キレる私をやめたい』(竹書房)で紹介されて、にわかに注目を集めているようです。
「ようです」と言いながら、わたしもまさにそのひとり。
『キレる~』で紹介されていた百武正嗣さんの本をさっそく買い求め、長野県内でワークショップをやっていないかどうか調べてたどり着いたのが、「長野ゲシュタルト研究会」でした。
今年2017年1月に、ちょうど百武さんが長野にいらっしゃるというではないですか。
すぐに申し込みました。
はじめてのワークは、まさにセンセーションの嵐でした。
まわりの人はおろか、ファシリテーターすら見えなくなって、ひたすら自分の世界に没入する。
こんな体験は初めてで、なぜこんなシンプルな場でこんなことが起きるのか、本当に不思議でした。
そのときは「母との関係」をテーマにしたのですが、以降、母との間に境界線を引けた実感があり、母のことで頭がぐるぐるすることがなくなりました。
先日、3回目のワークショップに参加してきました。
「この春から夏にかけて、家族にいろんなことが起きて、今でも怒りや疎外感に支配されることがある」と話をしました。
長男の不登校のことに話が進みます。
そこでわたしは、気が付くと「マイノリティ」「世間」という言葉を何度も口にしていました。
ファシリテーターは「どういう意味で使っているの?」と尋ねます。
わたしは「全体の中で割合が少なくて、数が少ないという意味です」と答えましたが、「そういう一般論じゃなくて、あなたの中でどういうことを指しているの?」とさらに返してきます。
わたしは頭が混乱しました。
「えっ? ただ数が少ないというだけの話なんだけどな……」
その後、わたしがやりたいこと・大切にしたいことに話が移りました。
それについて話をし、今感じていること、意識せずに出た仕草が語り掛けていることを翻訳し(「その腕はなんて言っているの?」等)……という具合に進んでいきました。
最後、ファシリテーターはわたしの目の前に並んだ「やりたいこと・大切にしたいこと」を指さしました。
そして「じゃあ、そこに『マイノリティ』という言葉を置くとしたら、どこに置く?」と尋ねます。
わたしは「ここには……どこにも置くところがありません」と返事をしました。
ワークは終了しました。
そのときにハッと気が付きました。
「わたしはまだ、世間の価値観から自由になっていない!」
・マイノリティをマイノリティと言って何が悪いのか。
・数の多寡の話で、事実を言っているだけじゃないか。
と考えていました。
でもそうではなかったんです。
・小学校低学年で学校に行かなくなった長男はマイノリティ。
・そしてその保護者であるわたしもマイノリティ。
……etc.
マイノリティというのは「事実」ではなく、「解釈」だったのです。
そしてその解釈の枕詞は「世間の中で」という言葉です。
ただ、学校に行っていない子どもがいる。
ただ、学校に行っていない子どもを持つ母親である。
ただそれだけのこと、でよかったのです。
「世間の中で」という枕詞をわざわざ付けなくてよかったのです。
その枕詞を付けたくなる心というのは「わたしはそうは思わないけど、世間はそう見るから」という心、つまり「わたしも世間と同じ価値観を共有している」ということだったのです。
移住してからこっち、わたしは「自由に生きたい」と願ってきました。
しかし、そう願うということは「今が自由じゃない」とはからずも告白していることになります。
なんだか可笑しくなりました。
わたしはもう、
「世間はそう見るから」
「自由に生きたい」
と言わないことに決めました。
すべてを「ただ、それだけのこと」として決断し、受け入れ、自由に生きていることを自分に許可します。
1年前、小学校の保護者文集に書いたこと
ちょうど1年ほど前でしょうか。
当時長男が通っていた青木小学校で、保護者が作る文集の原稿依頼がありました。
青木小学校では、1年生、4年生、6年生(だったと思う)の保護者で文集を作る慣例があるようです。
当該の学年の保護者全員に原稿を提出させて、そこから文集担当のPTA役員が何本か選んで、文集に載せます。
(残念ながらわたしの原稿はボツでした。まあ、保護者の原稿としては異形の原稿だったので致し方ありません)
1年生の最後、文集でボツになった原稿も合わせて、全員分の原稿を冊子にしたものを渡されました。
お題は特になく、子どもとの関わりや子どもの成長などを保護者の目から書いてください、という感じでした。
前回の、スタジオジブリ作品についての投稿で、この原稿のことを思い出しました。
この原稿でも、宮崎駿監督の言葉に触れているからです。
1年前のわたくし、こんなことを考えていたようですよ。
希望のボール
一年一組 gyogo
わが家は、今年の三月に青木村に移住してきました。同じ三月の末、わたしは十四年間勤めた会社を辞めました。
出版社で、男性情報誌、女性誌、男性週刊誌の編集の仕事を経て、最後は児童書の編集をしていました。おもに、小学一年生から高校三年生までを対象とした読み物(物語、ノンフィクション)を編集していました。
今の小学生は、親御さんが小学生だったときよりも本を読んでいます。「朝読」などで本に親しむ機会が多いためです。所属していた編集部のおとなりは青い鳥文庫の編集部で、ファンクラブに読書好きの子どもが集まってきます。年間二百冊、三百冊読む子はざらで、多い子で五百冊(!)も読むとか。そういうお子さんの家庭は、親御さんも読書家だったり、子どもには本を惜しみなく与えたりと、しぜんと本に親しめる環境が多いように見受けられました。
児童書は、きびしい環境にある子どもをえがくことがあります。虐待にあっていたり、家庭が複雑であったり、本人や身近な人に何らかの障害があったり、マイノリティであったりとさまざまです。
作る側の勝手な思いとして、現実にそういったきびしい状況に生きる子どもに届けたいという思いがいつもありました。ですが、実際にどれだけ届けることができているのか……。
本一冊を読み切るには、慣れが必要です。また、本人が夢中になれる内容の本に出会うかどうかも大きいです。まして本は生活必需品ではありませんから、シビアな状況にいる人に手に取ってもらえる確率は、高くはないだろうと想像します。
そもそも、それだけ強い魅力をもつ本をどれだけ作れているのか? と自分に問うと、うつむくしかありませんでした。
そんなときに、担当していた作家の講演に出かけました。その作家は幼少期から継母に壮絶な虐待を受け、学校でもいじめを受け、文字通りどこにも居場所のない子ども時代を送っていたのでした。彼女が小学生のとき、ただひとつの楽しみだったのが、休み時間に学校の図書室に行って本を読むことだったそうです。本の世界が、つらすぎる現実からひととき、彼女を守ってくれたのでしょう。そんな彼女が長じて童話、絵本、児童文学の作家になったのでした。
それ以来「投げるボールは数も種類も多いほうがいい」という思いを強くしました。本は子どもに投げるボール。どのボールがどの子に届くかわからない。だから、いろんなボールをなるべく多く投げたい。
ずいぶん効率の悪い話です。たかが本一冊で人を変えようなんていう考えは、思いあがりかもしれませんね。でも、そういう力をもつ本があるのはたしかで、その人の心にジャストミートしたときに与えるインパクトは、想像をこえるものがあります。かく言うわたしも、自分の何割かは本によって育てられたと感じているので、そういう出会いの仲立ちができたらうれしい、と思って編集者になったのでした。
「風の谷のナウシカ」などを作ったスタジオジブリの宮崎駿監督は、「この世は生きるに値する」ことを伝えたくてあの数々の名作を世に送り出していたそうです。この世は、楽しいことやすてきなこともたくさんあるけれど、理不尽なこと、悲しいこと、怒りをおぼえることのほうが多いかもしれません。それでもなお、この世は生きるに値すると伝えたいのは、希望を捨てないということなのかなと思います。
わたしはもう本を編むことはありませんが、この青木村で、ちがったかたちで〝希望のボール〟を投げられる人になれたらいいなぁ、と願っているところです。と同時に、いろんな人とのあいだで、〝希望のボール〟を投げたり受けとったりできるような関係を結べたら、とてもすてきだなと思っています。
自分の子どものことを正面切って書くのは、難しいです。
わたしは自分がいわゆる「いい母親」ではないという自覚があるので、人に読ませるものとして書くのはなおさら難しい。
それで、自分の前の仕事が児童書の編集だったのをいいことに、そこで感じたことを書くことにしました。
文集では、自分が担当した本の書影まで入れて、少しでも宣伝を……と、ちゃっかりしています。
思っていたより、わたしは編集者という仕事に愛着があったみたいです。
この文章、舌っ足らずなところもあるし、いいことを言おうと鼻の穴を膨らませている調子で、見ようによってはずいぶん偉そうですねー。
移住したてで、希望に満ちていて、ついでにけっこう肩に力が入っていたのも見て取れます。
状況があまりに変わってしまった今となっては、ずいぶん健気だなジブン、とも思います。
そんなこんなで気恥ずかしくはありますが、とはいえ、ここに書いたことに偽りはありません。
それは今も同じです。
誰とでも「希望のボール」を投げ合うことはできませんが、投げ合える相手がひとりでもいれば幸せじゃないか、と今は思うのです。
『崖の上のポニョ』を観ると涙が出てくるのはどうしてなんだろう
画像:「崖の上のポニョ」公式ホームページより。ダウンロード可の画像です。
ホームエデュケーションの一環、ではないですが、最近のわがやは双子さんたちを中心に、スタジオジブリ作品を1日1回は観る生活になっています。
散々観てきたはずの長男も、なんやかやで一緒に観ています。
そんななかで、改めて感じた『崖の上のポニョ』についてのあれこれを書き留めたいと思います。
※ネタバレありですので、未見で結末を知りたくない方はご注意ください
- スタジオジブリの映画はどれも傑作ぞろいです。
- ポニョを1日1回観る毎日
- 落涙ポイント1~オープニングの唄「海のおかあさん」
- 落涙ポイント2~ポニョがはじめて喋り、フジモトがポニョを取り戻す
- 落涙ポイント3~ポニョがお魚の波の上を走る
- 落涙ポイント4~宗介とポニョを残してリサがひまわりに行く
- 落涙ポイント5~宗介がリサの車を見つける
- 落涙ポイント6~宗介とグランマンマーレの会話
- 落涙ポイント7~グランマンマーレからポニョを託されて
- 多幸感あふれる食事のシーン
- ポニョがはじめて見る人間の赤ちゃん
- リサというユニークな母親
- この保育園、いいなぁ
- まったり観ることはできない
- 何度観ても泣けてしまう
スタジオジブリの映画はどれも傑作ぞろいです。
と書くと「太陽は東からのぼる」というほど自明のことを口にするマヌケさが際立ちます。
そのマヌケさを承知で書きますが、やはり傑作ぞろいです。
先日、スタジオジブリ作品の音楽をオーケストラと合唱団が演奏する番組を観ていて、終始「ああ、これもあったな」「外せない作品ばかりだなぁ」という感想で、その思いを強くしていたところです。
ポニョを1日1回観る毎日
長男が幼いころに、スタジオジブリ作品のブルーレイを買いました。
このときに、ほとんどの作品を揃えました。
いま、ニア3歳児の双子さんがそのブルーレイにはまっているところです。
『となりのトトロ』からはじまって、夫と長男の趣味で『紅の豚』『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』をはさみながら、現時点では『崖の上のポニョ』を1日1回は観ています。
わたしがいちばん好きなスタジオジブリ作品も『崖の上のポニョ』です。
お話としては、本当に不思議な作品です。
冷静に突っ込んでしまうと、モヤモヤするポイントがたくさんあるでしょう。
しかし、わたしにとっては、毎度涙をこらえるのに必死な作品なのです。
落涙ポイント1~オープニングの唄「海のおかあさん」
歌詞が描く世界、そして徐々に盛り上がっていく曲調、画とのシンクロ具合。
その3つがあわさって、ガツンと圧倒されます。
なんかこう、すごく大事なことをのっけから朗々と歌い上げられてしまい、「降参!」と言いたくなるというか。
この曲「海のおかあさん」の歌詞は、覚和歌子さんの詩集『海のような大人になる』(理論社)に収められている詩「さかな」がもとになっています。
作詞をした宮崎駿監督は、海の風景を描いた唄、海を舞台にした唄ではなく、「海そのもの」をうたった唄を作りたいと考えていたそうです。
詩「さかな」は見事に「海そのもの」を描いていて、宮崎監督は衝撃を受けたようですね。
わたしも、この歌詞に衝撃を受けました。
みんな「きょうだい」で「いっしょにくらしていた」ですよ。
「クラゲもウニもサカナもカニも みんなきょうだいだった」ですよ。
過去形なのがポイントですね。
今はそうじゃない、ということですから。
グランマンマーレが「わたしたちは(海の)泡から生まれてきた」と言いますが、すべての生き物は元をたどればそうだったわけで。
かつてひとつだったものが今はそうではない。
ここに宿る切なさと、すべてを身ひとつに宿していた海のおおきさを感じます。
ちなみに、歌っている林正子さんは、世界的に活躍するソプラノ歌手です。
すばらしい歌詞をすばらしい歌声で歌い上げられたら、そりゃ涙も出てくるというものです。
落涙ポイント2~ポニョがはじめて喋り、フジモトがポニョを取り戻す
ポニョがはじめて「そうすけ!」「ポニョ!」「ポニョ、そうすけ、好き!」と言葉を発します。
それを受けて宗介の瞳に、光がひとつ増えるのです。
ここでまず「うっ」ときます。
その後、フジモトの手下がポニョをさらい、宗介がポニョの名を呼びながら泣きます。
さらに「うっ」となる二段仕掛けになっています。
それにしてもフジモト、娘であるポニョからは「わるい魔法使い!」と散々な言われようですが、じつに愛すべきキャラクターです。
フジモトはすごく真面目で純粋で正しい人で、こりゃ煙たがられるなーというくらい原理主義的なんですが(今風なら環境マフィア的な?)、なかなかにおっちょこちょいなところが救いというか、チャーミングです。
手下たちも見た目はコワモテながら、失敗したり、ちょっとお間抜けだったりして、憎めません。
落涙ポイント3~ポニョがお魚の波の上を走る
宗介に会いに行くために魔法のふたを開け、嵐を起こしたポニョが、荒れ狂うお魚の波の上を滑るように走っていきます。
高らかに鳴り響く金管楽器の音と、緊張感とスピード感のある展開もあいまって、心を揺さぶられて結果、涙が出ちゃうんです。
落涙ポイント4~宗介とポニョを残してリサがひまわりに行く
子どもを残して母は行くわけですから、それだけで泣ける人は泣けますね。
「行かない」という選択をしても誰も責めないであろう状況です。
それでも「行く」という判断をし、そのことを誠実に説明するリサ。受け入れる宗介。
すごい親子です……。
落涙ポイント5~宗介がリサの車を見つける
乗り手の姿がなく、打ち捨てられたように停まっている軽自動車は、何かを暗示しているようです。
最終的にはみんな生きて再会するのですが、じつは一旦みんな死んでいて、ここは死後の世界なのではないか、とも感じられます。
この直前に、町の人が船団で「山の上ホテル」に移動しているシーンがありますが、天国へ行っていることを示唆しているように見えます。
リサがいないことに泣きだす宗介の涙で余計に泣ける。
また、ここで流れる音楽に胸を締め付けられるのです。
落涙ポイント6~宗介とグランマンマーレの会話
グランマンマーレに、ポニョが元はお魚であること、半魚人であることを知っているかと確認される宗介。
宗介は、一点の曇りもなく「お魚のポニョも、半魚人のポニョも、人間のポニョもぜんぶ好きだよ」と即答します。
これって、すごいことじゃないでしょうか。
この物語においては「魚」「半魚人」という表現ですが、果たしてどれだけの人が、「愛」をこのように言い切って表現できるのだろうか、と感慨深い気持ちになりました。
「どんなあなたも好きだ」ということですから。
実際に、お魚のポニョはトキさんには「人面魚じゃないか! 早く海に帰すんだよ。津波を呼ぶよ!」とあからさまに忌み嫌われています。
落涙ポイント7~グランマンマーレからポニョを託されて
ポニョの妹たちが高速で流れ、ポニョに祝福なのかお別れなのかを伝えにきているところから、金色の光とグランマンマーレの退場、「リサ、ありがとう」「あなたも、グランマンマーレ!」のシーンは圧巻です。
そしてラスト、陸に上がって自分からキスをして人間になるところも、最後の最後までポニョらしくて泣けます。
そこであの能天気なほど明るいテーマソングが流れてくるのですから、落差が大きすぎてカタルシスありすぎです。
多幸感あふれる食事のシーン
感涙ポイントではありませんが、ポニョが人間になって宗介のもとへ戻ってきて、宗介の家で過ごすシーンも印象的です。
多幸感に満ちていて、温かさと安寧を感じるシーンです。
ふかふかで真っ白なタオル。
はちみつを入れたミルク。(薄茶色に見えるのでミルクティーかもしれません)
ハムとゆで卵がのったラーメン。
この映画は、人間と自然の対立が示唆されています。
このシーンは、人間をやめたフジモトからすれば「愚かで忌まわしい生き物」でしかない人間の世界が持つ豊かさ、温かさを描いていて、「希望」を感じるのですよ。
不思議なことが起こり続け、嵐に飲み込まれそうになりながらも、この「嵐の中の灯台」においてはいつもの生活を取り戻そう――。
そんな健気さすら感じます。
ポニョがはじめて見る人間の赤ちゃん
ポニョと宗介がリサを探しに行く途中、船にのった親子3人に出会います。
はじめて人間の赤ちゃんを見るポニョの言葉、行動が興味深いです。
このシーンは、どうしてこんなに時間を割くのだろう、というくらい赤ちゃんをじっくり見せます。
そして、魚の生態にはない授乳を示唆する「おっぱい」についてのやりとり。
宮崎監督が見せたかったものは、何なのでしょうか。
装飾のない生命のすがた、原始から営々と続くいのちのかたちを見せたかったのかもしれない、と想像します。
リサというユニークな母親
自立していて、自由な精神を持っているリサは魅力的です。
しかし、母親としては珍しいタイプかもしれません。
・宗介に、名前で呼ばせている。
・宗介を乗せていても軽自動車(しかもマニュアル!)をかっとばす。
・宗介を子ども扱いしない。
・感情をあらわにする。(耕一が帰れなくなったシーンでの、光によるモールス信号「BAKA」連打は最高)
・こわがらない。(内心ではこわいのかもしれないが、立ち向かうほうを優先する)
・不思議なこと、ふつうではないことをまず受け入れる。
なぜ宮崎監督は、リサをこのようなキャラクターにしようと思ったのか、とても興味があります。
余談ですが、この映画がいいなと思うところのひとつに、
ポニョについて
「ポニョ。いい名前ね」
「ポニョは素敵な赤毛ね」
と肯定的に表現するシーンが複数回出てくる点があります。
お魚から人間になった特殊な存在であるポニョにこんな言葉をかけられるほど自由な心が、とてもすてきだなと感じるのです。
そういえば、『崖の上のポニョ』のキャッチコピーは「生まれてきてよかった。」です。
「肯定」の物語なんですね。
この保育園、いいなぁ
宗介が通っている保育園、保護者目線で見るとなかなかすごいんですよ。
まず、通う時にどうやら荷物がほとんどなさそうである点。
保護者の負担を減らそうとしてくれているのか? と想像します。
日本ではそういう園は少ないですが、フランスなどでは預けるときに何も持たせなくていい保育園があるようですね。
いろんな荷物を毎日毎日用意しなければならず、それに加えて「紙おむつが切れました」「ビニール袋がもうありません」「調理用エプロン持たせてください」「長靴持たせてください」「来週から毛布持たせてください」「泥遊び用の着替えを持たせてください」……etc.という荷物地獄の日本の保育園。
紙おむつ1枚1枚に記名しなければならない園もあります。
なぜ預けているのかを考えると、園で貸与もしくは有償支給してくれるととても助かるんですが……ねぇ。
さらに、宗介が登園するシーンで「熱が少しあるけれど機嫌はいい、おそらく0~1歳児」を「だいじょうぶでしょう」とこころよく預かる保育士さんが描かれています。
これも、普通の保育園では考えられない!
「病気をうつすんじゃないか」「体調が悪いときぐらい保護者が休め」と難色を示す向きもあるでしょうし、見極めがものすごく難しいところですが(下手すると責任問題に発展)、ここまで腹の座った対応をしてもらえると助かる保護者は大勢いるのではないでしょうか。
この保育園、全体的におおらかなんですよね。
保育園という場所はそのおおらかさがゆるさに変容し、事故を招くことも十分あり得るので、手放しに絶賛はできません。
それでも、このおおらかさに深いところで救われる保護者は多いだろうな、と思えてなりません。
スタジオジブリの保育園も、こんな感じなのかしら?
想像がふくらみます。
まったり観ることはできない
最初から最後まで息つく暇がない、畳みかけるような展開なので、観ると正直いつも疲れます。
少なくとも『となりのトトロ』のようにまったり観ることはできません。
双子さんたちの観方にもそれは表れていて、ふたりともすごい集中力でじっと観ているのです。
まあ、笑いのポイントは独特で、大人にはよくわからないところで笑っていますが……。
波や風の描写も圧巻で、アニメーターさん大変だったろうな……とつい思ってしまうのも、息がつけなくなる一因かもしれません。
デフォルメがすごく効果的で、自然のすさまじい迫力はそのままに、違和感なく表現できているのは、高度なチャレンジの賜物ですね。
ああ、とてもじゃないが書ききれない!
あれもこれもと語りたくなってしまいますよ。
何度観ても泣けてしまう
子どものいる生活になってから、めっきり涙もろくなりました。
そのわたしでも、毎度涙がにじむ作品はポニョぐらいでしょうか。
(寝台特急「富士・はやぶさ」のラストランを収めたDVDも面白いように泣けますが、それはまた別の話)
まるで不思議な夢を見たあとのような感覚。
観るごとに、その時点での自分の内面、成長を反映して違う面が見えてくる。
それは、無意識の深いところから汲み上げたもので作り上げられた作品にしか備わらない「力」ではないでしょうか。
子どもたちがどう感じているかはわかりませんが、この作品に限らず、スタジオジブリ作品が持つ「力」を体にしみこませてほしいものです。
きっと、生きる力になるから。
脱学校から4カ月経過 最近のホームエデュケーションどうでしょう?
写真:夫dobiさんがつけている長男taboくんの「HE日誌」。6月1日からつけています。表紙に弟たちが落書きしています……。
脱学校から4カ月が経過しました。
手探りではじめたホームエデュケーション(以下HE)、最近はどんな具合でしょうか。
長男taboくんの学習を見ている夫dobiさんに、久しぶりに話を聞きました。
わたしたちは、不登校になって家庭学習を「する/しない」に正解はないという立場です。
大事なのは
・保護者の価値観を明確にする
・子どもに無理強いをしない
の2点をおさえたうえで、
・子どもと対話して子どもが納得して決めていく
ことだと考えています。
もちろん、不登校になった年齢によっても対応は違ってくるでしょう。
いわゆる勉強をまったくしなくとも、大人になれます。
そして、本人が納得してやること、本人が心から望んでやること以外は、本当の意味では本人の育ちに貢献しない、と考えています。
わがやは、わたしも夫も編集者だったので、水を飲むように書物(まとまった文章と言い換えても構いません)に触れてほしいと考えています。
(そうでない考え方があることも承知しています)
また、生涯学び続けることを楽しめる人になってほしい、と願っています。
よって、以下のようなHEのスタイルをとっています。
ただ、これも発展途上です。
今後、どんどんスタイルは変わっていくだろうし、それが当然だと考えています。
その前提で読んでいただければ、幸いです。
HEに割く時間は当初の半分以下
――今は一日どれくらいHEしているの?
今は1日1時間弱かな。
下の双子たちが保育園に行くのが8時だから、そこから朝イチで1時間というスケジュールでやるようにしているよ。
お互い一日を勢いよくはじめよう、というイメージかな。
ほっとくとまったりしちゃうからね。
とはいえ、なんやかやで8時ちょうどにはじめられることは少ないかな。
――当初は2時間くらいやっていたから、半分の時間だね。
そうだね。
本人の集中力がそこまで続かないんだよね。
ぼく自身も、仕事や用事でそこまで時間が取れなくなっていることもあるな。
HEをはじめた頃は「さっさとやってしまおう!」と考えていたんだけど、うまくいかなくて。
本人にそこまで学習に対してモチベーションがあるわけではない状態だったしね。
今はシフトダウンする方向に考えがかわったよ。
――学習内容はどんな感じ?
まずは『ドラえもん はじめての論語』(小学館)の音読。
そして『うんこ漢字ドリル2年生』(文響社)で新しい漢字を2つやる。
そのあとは日によって違っていて、前日にやって苦労していた漢字のおさらいや、算数の計算、算数×国語のパズル、百ます計算プレの10ます計算をやったり、という感じだよ。
あとは、週1回は小テストをやるようにしているよ。
写真:日誌の中身。毎日やった内容、かかった時間、taboくんの様子や感じたことを書いています。
――論語の音読はけっこうやっているよね。
うん。本人も好きみたい。
ただ読むだけじゃなくて、意味や感じたこと、内容についてその場で話し合えるのがいいね。
本人も「これはどういうこと?」「こういう意味?」「たとえば〇〇っていうことかな?」と、どんどん思ったことを口にしてくれるし。
「とにかくやれ」よりも、話をすることが大事なんだとぼくも気づいてきたよ。
あとは、今は基礎の基礎だから、手を動かす、口を動かすという「身体性」が大切だね。
この間は、「線」という漢字を書いていたら「『線』って『糸』と『泉』でできているんだね!」と自分で気が付いていた。
字だって、丁寧に書くようにしていると、taboくんはいい字を書くんだよ。
本人から「科学もやりたい」とリクエストが
――算数はどう?
一時期いっしょうけんめいやったから、今はあまり心配はしていないよ。
あんなに苦労していた時計もようやく読めるようになってきたし。
今は、算数は1週間に1回もやっていない。
写真:算数の小テスト。だいぶ時計が読めるようになってきたね。小テストの手作り感が泣かせる。
――小テストはどんなことをやっているの?
ぼくが問題を作ることもあるし、市販のやつを使うこともあるよ。
小テストといえば、「科学の問題も出してよ」と本人からリクエストがあったね。
彼は今、動物や深海魚にすごく興味があって、NHKの「ダーウィンが来た! 生きもの新伝説」や「ワイルドライフ」、特集番組をよく観ているんだよね。
観た感想を彼が話したいままに話させて、ときどき「絵に描いてみたら」とか「文章にしてみたら」というふうにつなげていっているかな。
小テストにも、記述式で動物の問題を出しているよ。
写真:ブチハイエナについての問題。本人がイチからここまで書けたわけではなく、夫がいろいろ問いかけながらようやくこの長さになったそう。文章を書くというのは、やはり習練が必要ですね。
反応が変わってきた
――taboくんに変化はある?
学習という意味ではあんまりないかな。
でも、前より反応がよくなったよ。
前は勉強もそうだけど、ごみ出しをするとか、風呂掃除をするとかも、本人と話し合って納得ずくでやっているはずなのに、いちいち「えーっ!?」って言っていたんだ。
最近は、自分の生活にリズムとして組み込めるようになってきたのか、そういう反応がなくなってサッサとやるようになったよ。
かと言って、ぼくの顔色をうかがっているわけでもない。
リズムができてきたんだね。
――布団たたむのなんかも、言われなくても自分なりに考えてやっているよね。時間がかかっているから「どうしたの?」って聞いたら、「端と端をちゃんと揃えたいの!」と言われたなー。
そうだね。
――日によって学習量の増減はあるの?
しんどそうであれば量を減らしたり、思い切って休ませたりしているよ。
8月はHEも夏休みということで、ほとんどやっていない。
「勉強」という言葉は使わない
――そういえば、dobiさんは「勉強」という言葉を使わなくなったよね。
うん。
今は「学び」「学習」と言うようにしてる。
「勉強」という言葉はカバーする範囲が狭いと思うんだよね。
あと、ちょっとネガティブな色がついている言葉だと思うし、到達点が低いように感じるんだ。
「学び」ってもっと本質的なもので生涯続くことだし、その一生かかってやっていくことをやっているんだという気持ちだから、「学び」「学習」と言っているよ。
――dobiさんとtaboくんの関係は変わった?
もともと、ぼくのことをちょっと怖いと思っていたみたいで、それは変わらないかな。
ただ、ぼくは怖いところがあるとしても、怒るポイントは決まっていて、彼もそれはわかっている。
自分からやると言ったことをうやむやにしてやめたりすると、怒る。
――前に何かでtaboくんが、dobiさんへの信頼感をはっきり口にしたことがあったね。
そうだっけ?
まあ、毎日よく話をしているし、ぼくも「相手あってのもの」と思って接しているから、そこは信頼感があるのかな。
親子だけどあまりに違う個性
――はじめたころと、dobiさんも雰囲気が変わったよね。力が抜けたというか。
そうだね。
最初は「初等教育はこうやったらいいんじゃないか」という考えがあったんだよ。
でもそれは自分基準の話であって、taboくんにとってどうかという視点が抜けていた。
やってみて骨身に染みたけれど、ぼくとtaboくんはあまりに個性が違うんだよ。
優劣じゃなくて、ただ「違う」ということね。
それから自分自身についても「知っているようで知らないんじゃないか」と考えるようになってきたね。
だから、当初抱いていた「読み書きそろばんなんてさっさと終わらせてその先に早くいけばいい」という考えは取らなくなってきた。
前は「学校と同じルートをもっと効率よく」としか考えていなかったけれど、そうじゃないルートのほうがよりよい場所へ連れていけるんじゃないか、と今は思っているよ。
本は読めるようになってほしいから、漢字の練習はオーソドックスにやらせるけれど、あとはいわゆる勉強とは違うかたちになってもいいと思っているよ。
学びは一生続くからね。
***************************
当初は、夫もわたしもどこかで「勉強で遅れをとらないようにしないと」という思いがあったように感じます。
今は、ほとんど心配していません。
それは「学校の勉強に遅れない」という心配ではなく、「日々が学びなのだ」から、いわゆる勉強に血道をあげる必要はない、という意味においての心配していない、なのです。
「あらゆる場所が学校になり、あらゆる人が先生になる」のがHEで、そこがまさに醍醐味です。
生涯学び続けることを楽しみだと感じる人に育ってほしいし、わたしと夫も死ぬまでそうでありたい。
日々の生活がそうなっていくように、そして何より、家が長男にとって安心して過ごせる巣であるように整えていくことが、わたしと夫がいちばんやるべきことだと感じています。
保護者は友だちではないし、夫もわたしも在宅で仕事をしながら見ているので、彼の要求に100%応えられているわけではありません。
それでも、長男が以前と比べてのびのびと、ストレスなく過ごしているのを感じます。
また、彼といろいろ話ができたり、ちょっとした成長を感じられたりするのはとてもいいなぁ、と感じています。
長男は名言(迷言?)をよく口にする子なので、それを聞けるのも楽しみです。
うれしいことに、夫のおかあさんも長男が不登校であることにまったく心配をしていなくて、信頼を寄せてくれています。
また折に触れて、わたしたちの手探りのHEをご報告しますね。
「繊細の森」HSPカウンセラー・とうこさんの適職診断を受けてみたよ<後編>
「適職診断」を受けるために、カウンセラーの武田とうこさんにお目にかかりました。
後編は、わたしの話を受けてとうこさんからいただいたフィードバック、アドバイスを綴っていきます。
前編はこちらです↓
- 自分×社会の「マッチングポイント」でお金を稼ごう
- 今のわたしは「新しい視点を得た」状態
- マイナーの王!
- すぐにお金になる仕事
- コーディネーター、イベント運営も!
- クラウド・ソーシングの「書く仕事」は効率が悪い!?
- 同時に中長期の目標も走らせる
- 「印税生活」という意識していなかったこだわり
- 適職診断を受けてみて
自分×社会の「マッチングポイント」でお金を稼ごう
まず「自分の価値観と社会のマッチングポイントを見つけることが、今回の相談のポイントですね」とお話がありました。
加えて「やはり何をするにしても原資になる『お金』を得ることは大事なことです」と続きました。
わたしもそう思います。
今は「好きなときに好きなところへ行けて、好きなときに好きなことができる」生活を送りたいと考えています。
そういう生活を送るには、実はそんなにたくさんお金が必要なわけではありません。(年に何度も高級リゾートに行きたいなら別ですが)
でもある程度はないと身動きが取れないし、何より不安に支配される生活になってしまいます。
そういう生活を送れるようにお金を稼ぐこと、もっと言うとそういう生活を送れるような「お金の稼ぎ方」は大事だということです。
そんなわけで
「自分の価値観と社会がマッチするところでお金を稼げるといちばんいいよね」
「そのためにはどうしたらいいかを考えよう」
が今回のポイントだと理解しました。
今のわたしは「新しい視点を得た」状態
とうこさんは今のわたしを「新しい視点を得た時期」と表現しました。
ここで言う「新しい視点」とは「世の中の視点」です。
以前のわたしはこの「世の中の視点」を怖がっていてうまく使いこなせなかったのが、この1年の経験を経て怖がらなくなったことで、自分の視点にプラスして使えるようなってきたというのです。
世の中と関わるときに使えるアイテムが増えたイメージですね。
たしかに、以前のようにむやみやたらに傷ついたり、悲しんだりすることがグンと減りました。
(そのことを実感するエピソードもあるのですが、ここでは割愛します)
この言葉を聞いたわたしは「ノイズの少ない状況になったからではないか」ととうこさんに返しました。
会社をやめて移住した結果、ふだん人と接する機会がぐんと減りました。
もちろん人と接すること自体がノイズということではなく、かつての状況はわたしにとっては「過剰」で、過剰な分が「ノイズ」になっていたということです。
それがなくなったことで、日常で心をすり減らしたり、振り回されたりすることが減り、怖い怖いと思っていた「世の中の視点」を冷静に自分に取り込むことができた、ということなんでしょう。
マイナーの王!
わたしにはひそかな悩みがありました。
「ある集団に属すると、最終的には嫌われて出ていくことになる」という悩みです。
今までの人生でたびたび、そういうことを繰り返しているのです。
なんでだか、嫌われちゃうんですよね。
嫌う、までいかなくても敬して遠ざけられる感が漂うというか。
もちろん、振り返るとわたしに問題があったこともあります。
反対に、合理的にはそうとは考えにくいケースもありました。
それについては、とうこさんは「マイナーの王」という面白い言葉で表現してくれました。
マイナーというと通常は弱者感があるけれど、gyogoさんにはそれがない。
ただ数が少ないというだけのマイナー。
gyogoさんは「マイナーな“くせに”堂々としている」から、ある種の人の何かを刺激してしまうのだと分析してくれました。
よって「マイナーという言葉に弱者イメージが強い人、ヘンな意味づけをする人とは合わない。お互いのためにも付き合う相手は意識して選びましょう」とアドバイスをもらいました。
14年も勤めておいてナンですが、会社にもずっとしっくりこない感じがありました。
それも「会社はメジャーの巣窟ですからねぇ」というとうこさんの一言で氷解しました。
特にわたしが勤めていた会社はどちらかというと大きい会社で、まさに「メジャー路線」でしたから、「マイナーの王」であるわたしがしっくりこないのは当然の帰結だったのかもしれません。
また自覚している性質として「興味が移ろいやすい」というのがあったんですが、性質はすでにビルトインされているものなので、矯正しようとせず「そういうもの」としてうまく付き合うことを考えたほうがいいというアドバイスもいただきました。
これに関連して「好きなことを好きなだけ知るのが合っていて、資格系はあまり向かない」とも。
ウッ、図星かもしれない。
すぐにお金になる仕事
わたしの前職である「編集者」は就業人数の少ない職業です。
まあ、そんなに大勢いらないですからねぇ。
だから「希少価値がある」ととうこさんは言います。
うーん、需要を考えると大した人数いらないというだけで、希少価値があるとは考えたことがなかったな。
その編集者の希少価値を生かして「まずはすぐにお金になる仕事を考えましょう」ということで出てきたのが
・プロフィール作成
・企画書添削
という仕事でした。
プロフィール作成については、自営業の方に需要があるんだそうです。
自営業者は自分を語る(=知ってもらう)必要があるため、どういうプロフィールを作るかは死活問題なのだそう。
が、それはけっこう難しいことで、できない人も多い。
だから、話を聞いてプロフィール作成を請け負う、というのは意外と需要があるはず、とのことでした。
とうこさんご自身が自営業者だから、実感を伴っていますね。
企画書に限らず、文章や文書の添削は編集者ならお手の物です。
これも、なかなか難しいというか、おいそれとできないスキルなんだそうです。
編集者は特に資格がある仕事ではありません。
編集者でなくとも、そういったことが得意な人はいくらでもいるでしょう。
しかも、話を聞いてまとめるとか、構成を考えるとか、文章をチェックするとか、作業としてはそう複雑ではない……と考えていました。
決して編集者の仕事をみくびっていたわけではなくて、自分はあまり苦にならずにできていた、ということです。
(まあ、売れそうなメジャー感のある企画を出すのが苦手ではありましたが……こういうところが「マイナーの王」たるゆえんなんでしょう)
灯台下暗しですね。
コーディネーター、イベント運営も!
また、編集者は、読者イベント、書店イベント、講演会のようなイベントを開催する立場になることがままあります。
文学賞・新人賞の授賞式やパーティー、作家の葬儀なども裏方として関わります。
ですから、そういったイベントをやるときに、何をどうやればいいのかもある程度わかるようになるのです。
この春、生活クラブ生協主催の講演会を曲がりなりにも成功させた経験もあり、さらにこれから上田市主催の講演会のコーディネートをボランティアでやることになっていて、これも仕事にできるなぁと感じていたところでした。
これについては、とうこさんから「自分の興味のあるジャンルのリーダー的な人に会うようにするといいですよ」とアドバイスをいただきました。
クラウド・ソーシングの「書く仕事」は効率が悪い!?
クラウド・ソーシングでは、原稿を書く仕事を主にやっています。
しかし、単価がとても安いのです。
時給に換算すると100円を割り込みます。
(わたしの場合の話です)
もちろん、3000字程度の原稿を月100本以上こなしてしまうツワモノもいます。
ただ、わたしがそのレベルに行くまでは、そうとう時間がかかるな、というのが今の実感です。
webのまとめ記事なので、構成・見出しを考えるのはもちろん、画像も探して貼り付けなければいけません。
場合よっては、SEO対策でキーワードが決められていて、入れる数も指定されます。
誤字脱字、ですますの統一、表記などの基本的事項を押さえるのは言うまでもありません。
その上「このテーマでいちばん充実している記事をめざしてください」とクオリティも求められます。
そんなわけで、どうしても時間がかかってしまいます。
(ほんと、月間100本こなしている人がどうやっているのか知りたいです)
とりあえずお金を稼ぐという意味では、がむしゃらにやればできないこともないのでしょうが、今のわたしの生活を考えるとそこまでの無理はできません。
そんなわけで、とても効率が悪いのです。
とうこさんにもそこは指摘されて、クラウド・ソーシングで書く仕事は最低限にしたほうがいいかもしれません、とアドバイスされました。
ものによってはとても楽しく書けるので、それは無理のない範囲で続けていこうと思います。
同時に中長期の目標も走らせる
とうこさんも「これはとりあえずすぐにお金に変えられるような仕事です」と断っていたように、今まで挙げてきた仕事は、一生の仕事にするにはショートタームすぎます。
これもやりつつ、同時に中長期の目標も意識することが大事だなーと感じました。
「書く仕事」という軸は自分の中ですでにあるので、まずはこの軸において中長期の目標を模索します。
また、編集というのは広げればいろんなところに適用できる考え方です。
わたしはよく「編集」を「献立」や「コース料理」に例えるのですが、そういうイメージです。
イベント等のコーディネートも広義の編集と言えます。
こちらも、仕事として広げていくことができそうですね。
これに関わってくるアドバイスとして「『これが、この人が、世に出るといいのに』と思える相手と仕事をするといいですよ」という言葉をいただきました。
「印税生活」という意識していなかったこだわり
自分でも笑ってしまうのですが、わたしは今後の仕事を考えるときに「取材して本にまとめる」ということにけっこうこだわっていたのですよ。
もちろん、こういうことを取材してみたい、という具体的な興味はあっての話です。
とはいえ、それは金にはならんな、ということもわかっていました。
「印税生活への憧れ」が自分の中にあったんですね。
編集者ならば、それがいかに効率が悪いか、いやというほど知っているはずなのに……。
印税だけで生活できる人はほんの一握りです。
ほかに本業があったり、ヒイヒイ言って書き上げて何とか本にしてもらったり、というのが物書きの世界です。
とうこさんと話していて「あっ、わたし印税生活に憧れがあるんだ!」と気付いて、苦笑してしまいました。
まあ、夢があるのは悪いことではないので、いつかわたしに印税が入ることがあったら、みなさん「よかったね」と言ってやってください。
適職診断を受けてみて
「受けてよかった」という感想が第一ですね。
その中身は、
・自分を振り返る機会になった
・気がついていない「財産」を教えてもらった
・言語化されることの確かさ、効用
といったことでしょうか。
いちばん強く感じたのは、人、それも「的確に聞けて、的確にフィードバックできる人」と話すことの効用です。
これはもう、素人ではなかなかできない、専門家の領域でしょう。
わたしにとっては、その時点で自分の直感が「この人!」と呼んでいる専門家に頼って、力を貸してもらうことはとても大事なことです。
今回は、とうこさんから大いに力を貸していただきました。
人に力を貸してもらえるのは、実はとても豊かなことではないでしょうか。
ひとりでできることは限られていますから……。
さて! 愉快な人生をもっと愉快にすべく、がんばりますか!
「繊細の森」HSPカウンセラー・とうこさんの適職診断を受けてみたよ<前編>
写真:ブログのネタ帳。ネタはいろいろ思いつくし、あらゆることをネタにできる筋力はあるんですが、取材・執筆時間の捻出が今の課題です。14年間、週1回~月1回ネタをひねり出す生活を続けていたことがわたしには確実にプラスになっています。「編集者はネタになってナンボ」という思いもあり。まあ、プライベートで想定外のネタになってしまったのは不覚ではありますがネ。
「適職診断」ってなんだ?
ずいぶんごぶさたしております。
今日は、脱学校とは違うテーマだけど、つながりはあるというネタで書きたいと思います。
わたくし、「適職診断」なるものを体験してきました。
「適職診断」というのはその名の通りで、自分にはどういう仕事が向いているのかを第三者目線で相談に乗ってもらうというものです。
今回は、HSPという切り口から適職診断をやっている武田とうこさんにお願いをしました。
「HSP」とは?
HSPというのは、Highly Sensitive Person(ハイリーセンシティブパーソン)の略で、人一倍「敏感」だったり「繊細」だったりする特性を持つ人のことです。
アメリカの心理学者であるエレイン・N・アーロン博士が定義した概念で、日本でも最近知られるようになってきました。
生まれ持った特性で、全人口の15~20%が該当するとアーロン博士は言います。
「生まれつき敏感な子ども」HSC(Highly Sensitive Child)という言葉もあります。
「繊細」と言っても、人から同情を集めたい気持ちから発せられる「わたし繊細なの~」「ぼく、繊細だから」というアレではなくてですね。
敏感であることから、人間関係や仕事で振り回されたり、人一倍疲れたりということに真剣に困っている人に、自分自身の捉え方と、周囲との関わり方を再構築する手助けになる概念、と考えてください。
HSPに当てはまるかどうかの質問票があって、大抵の人はどれか当てはまるでしょう。
肝心なのは「自分がそのことで困っているかどうか」です。
そんなわけで「けっこう当てはまるけど環境が変わった現状ではめっちゃ困っているわけではない、でも過去と同じ轍は踏みたくない」というわたしは、ちょうど今後どうしようか迷っていたこともあって、とうこさんの適職診断を受けることにしたのでした。
この1年の自分を振り返る
このブログでも書きましたが、この5月に工務店をクビになって以来「もう組織に雇われて働くのはやめよう。フリーランスでやろう」と決めたまではよかったのですが、今後どうやっていくかずっと悩んでいました。
仕事については流動性の低い人生を送っていたので仕方ないっちゃ仕方ない。
ましてフリーランスでやっていけるのか、ジブン。
もともとは「助産師になりたい!」と意気込んで会社を辞めたのでした。
しかし、移住してみたらその気持ちがみるみる薄れてきてしまい、「働きたいなー」という気持ちが強まっていたところで例の工務店に応募をして、この3月から勤めに出ていたのでした。
そして2か月後にクビ。
振り返ってみると、この1年はずいぶんフラフラしています。
夫からも「なかなか離陸しないね」と言われ、図星刺されて「ウッ」となっていたところでした。
5月以降は、今までの経験が生かせて、元手がなくてもはじめられるものということで、クラウド・ソーシングで「書く仕事」を少しずつ得る、ということをしていました。
例の工務店の絡みで、この10月に宅建士の試験を受けることにしていたこともあり、その勉強もしたりしなかったり。
いろんな不安や「こうでありたい」という気持ちがないまぜになり、どれも中途半端な状態が続いていました。
タイミングよくとうこさんのホームページに出会う
そんなときに、このホームページに出会ったのでした。
今となってはどうしてここに行きついたのか覚えていませんが、読んで感じるものがあり、主宰しているとうこさんに会ってみたいと思い、「適職診断」を受けることにしたのです。
適職診断を受けたからといって、すぐさまバラ色の未来が開けるわけではないことはさすがに百も承知ですが、会いたいと思う人に会ってみて、話をすることで見えてくるものがあるのは経験上知っていました。
スカイプでもできるんですが、せっかくだから直に会ってみたいと思い、上京しました。
行動を起こすと変わるらしい
おもしろいのが、会う直前になってから、仕事に関して状況が変わってきたことです。
まずは「宅建士の試験はやめよう」と決めました。
心の中ではとっくに答えは出ていました。
「不動産業界に興味があるわけじゃないんだよなぁ」
「書く仕事が楽しくやりがいを感じている今、たった2か月でも別のことをするのは惜しく感じるなぁ」
「使う気のない資格のために2か月がむしゃら頑張る……気にどうしてもなれないなぁ」
しかし
「通信講座に安くないお金を払っちゃったし」
「合格して見返してやりたい」
「使わなくても持っていればいつか役に立つかも」
という思いがどうしても消えなかったのです。
宅建士試験の勉強自体は難しいし大変ですが、法律を勉強すること自体は面白いと感じていました。
TACの通信講座でお目にかかる木曽先生も味わいがあって好きだったしね。(講義の録画を見るだけですけど)
どちらに進むにしても、「正解/不正解」はないということはわかっていました。
自分の心持ちで、正解にも不正解にもできます。
そして今のところ、わたしには選べる自由がある。
結局、宅建士試験をあきらめきれない気持ちは「不安」「怒り」から出ていることに気づき、「書きたい」というわくわくする気持ちを選ぶことにしました。
そして、まずは「ブログ運営」と「クラウド・ソーシングの仕事」に本腰を入れることにしました。
すると面白いことに、クラウド・ソーシングの仕事は、提案が通るようになったり、仕事に招待されたりすることが増えてきたのです。
なので、相談当日には「これから何の仕事をするのが自分に合ってるのか」という相談ではなく、「書く仕事をフリーでやっていくことは決めましたが、どういうふうにやっていけばいいのか」と一歩進んだ相談になりました。
そして迎えた相談当日
東京のとあるチェーン喫茶店で、とうこさんと会いました。
初対面ですが、昔から知っているような気がするのは、ホームページを読んでいたからでしょうか。
カウンセラーを仕事としているだけあって、とても話しやすい雰囲気を持った方でした。
とうこさんはアイスコーヒー、わたしはホットココアを頼みました。
まずは、わたしから今までのことを縷々話をしました。
とうこさんがずっと聞いてくれます。
一通り話したところで、いよいよとうこさんからフィードバックをもらう段になりました。
(後編につづく)
七・二十一 教育委員会との面談(第4回)
えー、第4回目の教育委員会との面談日でした。
今日は、第三者委員会を立ち上げるか否かの返事をする日です。
こちらはわたしと夫、先方は教育長、スクールソーシャルワーカー(SSW)、スクールカウンセラー(SC)という顔ぶれです。
結論から言うと、第三者委員会の立ち上げはしないことにしました。
要望書への回答等で学校や教育委員会側のスタンスもわかったし、なによりこちらに学校へ戻る意思がないので、これ以上やっても消耗するだけだというのがいちばんの理由です。
第三者委員会は、基本的にメンツを選べません。
人権意識があり、とことん追及する気概のある方が選ばれればよいのですが、それは運任せ。
十中八九、激しく消耗するのは目に見えているなあ……というのが正直なところです。
もちろん、解決はしていません。
証言の食い違いはそのままです。
要望書への回答も、こちらの質問に真正面から答えていない部分が散見されます。
教育長は何度も「寺西家の側に立ちます」と明言していました。
ならばあなたの仕事は、証言の食い違いを放置している学校を指導することでは?
という思いも残っています。
相手に論理性も正義もないことは明白ですが、だからといって相手を変えることは容易ではありません。
であるならば「愛せなければ通過せよ」です。
……わたしも夫も、まだ精神的に克服したとは言い難い状態です。
加害児童やその親を見かけることがあると、やはり複雑な気持ちになります。
この状態で第三者委員会のことで消耗するのは、家族全体にいい影響はないだろうな、と考えています。
何より長男が、ふだんの様子を見たり、やりとりをしている限りでは、受けた傷を抱えながらも、もう前を向いているのです。
それで、これ以上はもうやらないと決めました。
教育委員会との面談も、こちらにとってはもう意味がないので、何か相談したいことや問題が起きたときにこちらからお願いするということにしました。
自分たちなりにやれるだけのことはやったつもりです。
それでも、これでよかったのかどうかは、今はわかりません。
今できることは、一日一日を積み重ねていくことだけです。
その先に「あの時点で学校とお別れしてよかった」と言える日が来ると信じています。
これからは、過去は過去として、前人未到の道を開拓してゆく日々です。
楽しみながら進んでゆくことこそが、わたしたちが生きている証になると信じて。
七・十一 教育委員会との面談(第三回)
写真:今回開示・回答された文書です。個人名などが記されているので内容は伏せます。
やってきました第3回目の教育委員会との面談日。
今回は、先方は教育長とSC(スクールカウンセラー)、当方ははわたしと夫という顔ぶれでした。
今日は、先日出した要望書への回答をいただくことになっていました。
まず、こちらが資料として開示をお願いしていた「学校から教育委員会へあがった報告書」と「児童に実施した記名式アンケート回答」は開示されました。
要望書にも、すべて回答がなされていました。
この段階で「黒塗り」や「開示拒否」などもあり得たので、まずは開示・回答そのものがなされたことにホッとしました。
その場で、夫とふたりで目を通します。
いくつか引っかかる点(感想)が出てきました。
感想1.本当に反省しているの?
アンケートの問い「今までに 自分がお友だちに いやなこと、かなしい おもいをさせてしまったことはありますか?」に「ある」として回答したのは2人だけ。
しかも、やった相手として長男の名前を書いていたのはそのうち1人しかいなかった。
……いじめた子は4人いるのにこの結果ということは、自分のやったことがわかっていないのではないか? もっと言うと、反省していないという可能性もじゅうぶんあり得るのではないか、という感想を持ちました。
感想2.証言の食い違いは重視しない?
要望書で「学校側が証言の食い違いが起きた段階で検証作業を止めた理由と、どのような収束を考えていたのか具体的な説明を求めます」という問いを設定。
この問いへの回答として、以下のような結論づけが。
「(いじめの再発で聞き取り、アンケートの結果)4名の児童は今回の事件にはかかわっていないと判断した。検証作業を止めたのではなく、4名の児童はかかわっていないと判断したためである。●●さん(注:当方)の主張されることと、平行線になってしまったと考えている。」
……ここから読み取れるのは
1.証言の食い違いの解消は重視しない
2.4名の児童の証言を採用し、目撃者と長男の証言はオミット(除外)する
3.4名の児童の証言のほうを採用した具体的な根拠は示されていない
ということです。
1については、こういう考え方はあるだろうし、その中において合理性はあります。
ただ、「証言の食い違いの解消は重視しない」という考え方は、倫理的・教育的にどうなのか? と感じるのが正直なところです。
狭義の合理性は認めるけれど、到底受け入れられない考え方です。
また、2と3は解消されないまま残ります。
感想3.担任の謝罪は限定的
同じく要望書で問うた「自身の責任について担任はどう考えているか」については、「現在、長男さんが長期にわたる欠席が続いていることに対して、長男さんとご家族に対して心からお詫びをしたいと思っています」という回答があり、謝罪は「長期欠席」に限定されている。
……あくまで自分の指導の不手際だとは認識していないことが読み取れました。
感想4.知らなかった事実
学校から教育委員会への報告書(不登校重大事態に係る調査報告)においては、こちらが知らなかったことがいくつか書かれていた。
……
1.1回目の聞き取りにおいて「4人とも最初はいじめを認めなかった」そうなのです。とするならば、2回目も「やっていない」というのはじゅうぶんあり得る話で、なぜ1回目のような突っ込んだ聞き取りをしなかったのか、かえって疑問がふくらむところです。
2.また、Aは長男から「デブ」と言われたり、バカにされたりしたということをいじめた理由として挙げており、これも初耳でした。長男から謝罪をしていないので、Aからすればいじめた側からの謝罪の席は「アンフェア」だと感じたとしても、無理からぬことだと思います。これは完全に憶測ですが、それがいじめの再発の遠因になったかもしれません。
さらに、このことを知らされていたならば、謝罪の席で長男からAに謝罪をさせていたことも付け加えます。
感想5.いじめの真相解明よりも子どもの成長?
いじめが再発して証言が食い違った後の校長との面談で「4名の児童はかかわっていないと判断した根拠は何か」というこちらからの問いに対しては、報告書では「小学校低学年期の児童における理解と記憶には曖昧さがあり、違いが生じて当然であること、自身の経験も含め全て子どもたちの今ある姿を信じていること、全ての子どもがよりよく成長していくことをまずは大事にしたい」と校長が説明した旨書かれていた。
……たしかにこういった発言がありましたが、今読み返しても、こういう判断でよかったのかという疑問は拭えません。
理解や記憶に曖昧さがあるのは大人でもじゅうぶんあり得ることです。
それに、ことは「いじめ」です。
「真相はこれ以上追及できない(しない)から、そこは目をつぶって、いじめを糧に成長してほしい」というのは、少なくとも被害者側にはとうてい受け入れられない理屈ではないでしょうか。
教育委員会への返事
学校側は学校側で理屈があることはわかりました。
ですが、その内容については受け入れることはできません。
学校側の理屈に沿えば
「あなた(長男)の証言は採用しない。あなたのような年齢では記憶や理解のあいまいさがあるから、(一回謝罪をしているのだから)痛み分けということで、そこは目をつぶってもらえないか。クラス内での加害児童との接触に配慮して、大人の目がなくならないようにして環境は整えるから、登校を再開してほしい」
と言われていることになります。
これで納得してほしい、というのはやはり無理があると感じます。
いじめで証言が食い違うなんて、そうめずらしいことではないはずです。
何が真相で、何が原因だったかわからないで、何をどうやって指導するつもりなのでしょう。
それ以上追及をしない、できないと諦めるなら、少なくとも教育者という看板は外してほしい。
心の底から疑問に思います。
表面的には対応できたとしても、根本はそのまま。
爆弾を抱えたままと同じです。
開示・回答してもらったものについて、これをもってさらにどうこうしたいということは今は考えられません。
言えることは、
学校には信頼に足る論理性がないということと、長男に対して「もう安心して学校に通えるよ」とはとても言えないということだけです。
教育長には、資料の開示と要望書への回答をしてくださったことについて、お礼を伝えました。
第三者委員会
教育長としては、今日は持ち帰ってもらって回答への返事はまた次回、と考えていたようです。
わたしたちがその場で返事を伝えたため、次のステップについて話がありました。
第三者委員会の設置です。
もちろん、あくまで選択肢であって、必ず設置するものではありません。
わたしたちが望めば、ということです。
第三者委員会は、弁護士、臨床心理士、有識者、村の民生委員などで構成されます。
その人選は、弁護士なら弁護士会、臨床心理士なら当該の協会などに依頼してお任せするそうです。
人選の結果は、もちろんわたしたちにも知らされ、承諾を得てからスタートということになります。
これはさすがにすぐに返事ができる内容ではなかったので、持ち帰って後日返答することとなりました。
終わってみて
学校側の理屈は、「考え方の違い」で済ませてほしくない理屈だと感じました。
これが通るならば、正義はないことになります。
都合の悪いことは「ご指摘にはあたらない」ですべてはねつけている安倍政権に似ていると感じました。
先日、教育長からの提案された「学校へ戻ってきてほしい」というプランについて、この面談に向かう前に長男に話しました。
もちろん、余計な色はつけずにです。
(当然ですが、誘導したくなかったので)
長男の答えは、想像を超えていました。
「それは、みんな次第じゃない?」
このひとことがすべてを物語っています。
次回の面談までに、第三者委員会の設置を要望するかどうか、よくよく考えたいと思います。
以上、現場から報告を終わります。
『週刊少年ジャンプ』の性表現問題がモヤモヤする
写真:わたしが編集者時代に担当したティーンエイジャー向け性教育本『おとなになるためのベストアンサー 71のQ&A みんなこうなるの?』写真:ヤン・フォン・ホレーベン、文:アンチェ・ヘルムス、監修:北村邦夫、訳:畑澤裕子(講談社)
問題は「表現の自由」なのか?
ネット界隈で話題になっている『週刊少年ジャンプ』の性表現。
ツイッターを見ていても、すっごくモヤモヤします。
(別の媒体になりますが)少なくともわたしは、『週刊少年マガジン』で人気の『七つの大罪』において、主人公がカジュアルかつ脈絡なく女性の胸を揉む描写は、はっきりと不快でした。
これを「表現の自由だ!」と言われても……むしろ、バカにされているような気持ちになってしまいますよ。
「反復学習」はあなどれない
「現実世界で犯罪や人権侵害になる性表現が即、性犯罪につながる」という考え方は雑ぱくすぎますが、こういう表現に「繰り返し触れる」ことの「効用」に対して楽観的な人が多いのは、怖いと感じています。
犯罪には直結しないけれど、人権侵害的なふるまいを醸成してしまう可能性について、もっと真剣に考えたいところです。
「強姦も性行為のひとつ」と認識している大学生がリアルに存在します。
「生理は処女じゃなくなると来る」と理解している大人がリアルに存在します。
これらは「反復学習」と「正しい知識の欠如」のコンボではないでしょうか。
日本での女性、性犯罪の扱われ方から見えてくるもの
日本はたしかに、データ上では外国と比べて性犯罪が突出して多くはないようですが、セクシャル・ハラスメントが少ないわけではありません。
ジェンダーギャップランキングもどんどん順位を下げています。
(これは性犯罪、セクシャルハラスメントと直接関係のない指標ですが、その国で女性がどう扱われているかを端的に数値化しているので、参考にはなります)
準強姦罪で実名、顔を出した詩織さんの告発に対して、ここまでバッシングが繰り広げられることからも、「日本において性犯罪がどう扱われているか」は端的に伝わってきます。
NHKのテレビ番組「あさイチ」で、性犯罪被害者へのバッシングが多数投書されていることからも、以下同文。
110年ぶりの刑法改正においても、「はっきりした抵抗や、暴行や脅迫を伴わないと強姦だと認めない」という点は解消されなかったことからも、以下同文。
性表現を云々せずとも、こういう客観的事実、社会状況から人々が「学習」するものは、想像にかたくありません。
ましてや「性表現」を「反復学習」して「性的人権感覚、性の価値観・感性」にまったく影響がない、とはどうしても思えないのです。
規制すればいいということでもなさそうだ
頭の中で考えることはどこまでも自由。
そこを取り締まることについては、断じてNOです。
だから、「こういう表現を規制すればいい」は違うと考えます。
問題なのは、「性表現」ではなくて「セクシャルハラスメントや性暴力を肯定、楽しむ表現」が、「男子にはこういうのが必要」という言説で市民権を得ていることではないでしょうか。
そういう表現が受け入れられている社会で、「これはフィクションだ」といくら言っても誰も聞かないんじゃないでしょうか。
性教育は3歳から、がスタンダードになってほしい
だから、やっぱり「性教育」だよなーと思うのです。
保護者の出番ですよ。
学校で教える性教育は「ラスボスと戦うのに木の棒しか渡さない」ようなものです。
運よく、熱意と知識と行動力のある教師がいれば、お子さんは充実した性教育を受けることができるでしょう。
でもそれは、ほんの一握りです。
「寝た子を起こすな」「自然に知ることだ」では「猛獣がうろつく谷に丸腰で突き落とす」のと同じです。
今はネットがあるので、より過激な性表現や悪意ある大人に、簡単にアクセスできてしまいます。
性教育については「教えないのは罪」という時代なのです。
だから、丸投げしてはいけません。
保護者が、3歳くらいから、機会をとらえて、継続してやるのがベストです。
子どもは、小さいうちから「赤ちゃんはどこから来るの?」と疑問を持ち、どこかで「女の子はこういうもの、男の子はこういうもの」ということまで学習していきます。
こういうことをいきなり聞かれると「ウッ」となりますよね。
でもここが踏ん張りどき。
その子の発達に合わせて、事実を、包み隠さず、ネガティブな色をつけずに伝えます。
はぐらかすと「これは聞いてはいけないことなんだ」と学習します。
疑問にきちんと答えると子どもなりに納得します。
子どもの発言をきっかけに「どうしてそういうふうに思うの?」と会話を重ねることで、性に対しての考え方が少しずつかたち作られていきます。
このとき、何かの規範を元に話をするのではなく「わたしはこう思うよ」という「Iメッセージ」がおすすめです。
大事なのは、価値観を押し付けることではなく、考えるくせをつけることなので。
千里の道も一歩より。
この積み重ねこそが、のちの「性的人権感覚」「性の価値観・感性」のベースになります。
性教育の絵本や本には、使えるものがたくさんありますので、積極的に取り入れてみてください。
(ぜひ、保護者の方ご自身で中身に目を通して選んでください)
結局は大人が性をどうとらえているか
もちろん、わたしだって元からこういうヒトだったわけではありません。
高校時代は「婚前交渉はいけない」と真顔で言うヒトでした。
性についてタブー感は強いほうでしたよ。
いろんな「学習」のおかげで、自分が性をどうとらえているかを見つめなおし、考え方を変え、表現ができるようになったのです。
性(セックス)にはいろんなイメージがあります。
恥ずかしいもの。
エロいもの。
隠すべきもの。
いけないもの。
楽しいもの。
自分を解放するもの。
すばらしいもの。
神秘的なもの。
最高!
暴力。
苦痛なもの。
楽しくないもの。
怖いもの……。
いろんなイメージがあって、どれも、その人にとっての真実。
ただ、子どもに伝えるときに、どういうイメージで手渡したいか? と問われれば、わたしは断然「楽しいもの、すばらしいもの」と伝えたいです。
そんなわけで、そのへんは自分会議をしながら、自分が納得できるように考え方を変えていったのです。
抵抗感が生まれてきたら「なんでそう思うの?」「何が問題だと思う?」と自分に問いかけていきます。
そうやって、ひとつひとつ解きほぐしてきました。
セックスはなんのためにある?
セックスへのイメージを広げるためには、セックスの意味の多様性がいいヒントになります。
ちまたでセックスというときに多くの人がイメージするのは「コマーシャル・セックス」ではないでしょうか。
「商業的に消費される性」のことです。
ポルノや風俗などの「性産業」と言い換えるとわかりやすいですかね。
子どもに性教育するときに大人が戸惑うのは「セックス=コマーシャル・セックス」と思い込んでいるからではないでしょうか。
当然、セックスが持つ意味はそれだけではありません。
・命をつなぐ「リプロダクティブの性」
・他者との究極の交流である「コミュニケーションとしての性」
・自分自身の性を楽しむ「セルフプレジャーの性」
セクシャル・マイノリティを語るときによく出てくる言葉も役に立つでしょう。
・「性自認」……心の性別。自分の性別をどう認識しているか
・「性的指向」……どんな性別の人が好きなのか
・「生物学的性」……身体的な性別
・「ジェンダー」……社会的な性別
そうやってみていくと、セックスにまつわる言説の「どういう側面が」「どういう場合に」問題になるのかがわかりやすくなります。
そして、セックスをひとつのイメージだけで考える必要がないこともわかります。
コマーシャル・セックスに目くじらを立てる必要もないし、リプロダクティブの性を過度に崇める必要もなくなります。
子どもに伝えるときの組み立て方
子どもに伝えるときは、
わたしだったら、まず「リプロダクティブの性」をベースにします。
(ここから先は発達に応じてですが)
その上に、「コミュニケーションとしての性」「セルフプレジャーとしての性」を置きます。
それとは別に、世の中には「コマーシャル・セックス」があることも伝えます。
それは「ファンタジー」「フィクション」であることも忘れずに。
これに、
「自分がどんなふうに扱われたいかを考えると、相手とどう接すればいいかわかるよ。痛いことや嫌なことはされたくないよね」
ということと、
「イヤなものはイヤ。それ以外の意味はないよ」、
そして「避妊」と「性病予防」の知識を伝える……。
ほかにも伝えたいことはたくさんあるけれど、大枠はそんな感じで考えています。
これは、子どもに伝える「建前」ではなくて、自分のためでもあります。
心から思っていないことは見抜かれます。
伝える内容も大事ですが「どう伝えるか」は恐ろしいほど雄弁ですから。
言葉よりも「態度、しぐさ、声色、しゃべり方」といった言葉外の情報のほうが、伝わりやすいのです。
だから、「この考え方に自分は納得ができるか?」ということは、いつも確認しています。
結論:まずは足元から
そんなわけで、やるべきことはまず足元から。
・自分にとっての性を見つめなおし、再構築する。
・「セクシャルハラスメントや性犯罪を肯定したり、楽しんだりする」言動や表現に違和感を感じたら、隠さない。
いやあ、地味ですね。
でも結局、こういうことって、どこかの誰かが劇的に変えてくれるものじゃないですよね。
自分を変えるのがいちばん早い。
「性」は生涯、生まれてから死ぬまで、わたしたちに寄り添い続けます。
何歳になったら「性」がはじまって、何歳になったら「性」がなくなる、なんてことはありません。
だとしたら、だれにとってもできる限り人生を豊かにするものであってほしいし、心地よく付き合っていけたら最高ですよね。
『週刊少年ジャンプ』が提起した問題は、ほかにもいろんな切り口があるので(売れる=正しいという出版業界の常識とか)この限りではありませんが、 今回は性教育を切り口に考えてみました。