まだ学校で消耗してるの?

2017年5月より小2長男・脱学校につき、家族で「学校のない生活」を模索中

「不登校」と「社会性」について考えてみた

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社会性が身につかない?

学校に行っていないと「社会性が心配」と言われることがあります。

実際、ときどき言われます。

 

 

最初は「そうかも」なんて思っていたわたしですが、はっきりと「違う」と感じるようになりました。

 

 

「学校に行かないと社会性が育たない」という言葉の背景には、「学校」で「集団生活」を送らないと社会性が身につかない、という考え方があるようです。

 

 

 

辞書をひいてみた

そもそも、社会性とはどういう意味なのでしょう。

(不登校を考えるようになって、“そもそも”に立ち返ることが多くなりました。これは良かったことのひとつです)

 

『三省堂国語辞典<第七版>』(三省堂)をひいてみましょう。

 

社会性(名)

①社会のものごとに広く関心を持つ性格。「―をやしなう」

②社会一般に広く通じる性質。「―のある問題」

 

 

ふむふむ。

 

 

では、こういったことを養うには、「学校」「集団生活」は必須なのでしょうか?

 

 

わたしは、断固「否」だと考えます。

 

 

 

「通学」は当たり前ではない

unicef(ユニセフ)が2017年に発表した内容によると、世界中で学校に通えない学齢期の子どもは1億2300万人(11.5%)いるそうです。

(このうち40%が開発途上国、20%が紛争地に住む学齢期の子どもだそうです)

 

 

また、世界にはいろんな環境・ライフスタイルで暮らす子どもがいます。

 

オーストラリアでは、人口過疎地に住んでいて、周囲に通える学校がないので通信教育を受けているという子どもがいます。

 

自分の家の数キロ四方、ほかに民家がないというところに住む子どもがいます。

 

モンゴルなどにいる遊牧民の子どもはどうでしょうか?

 

 

では、こういった環境で育った子どもたちは、社会性が身につかないまま大人になるのでしょうか。

 

 

そんなことはないですよね。

(極度の貧困状態や紛争状態に置かれて、心身ともに甚大な影響を受けた子どもはまた別に考える必要がありますが、ここでは触れません)

 

 

 

それって「同調性」では?

日本で「社会性」が使われる場面は、実は「同調性」のことを指していることが多いと感じます。

 

 

社会にはいろんな人がいる。

大人になれば、やりたくないこともやらなければならない。

嫌な奴とも協力しないと生きていけない。

人の言うことを素直に聞けないと苦労する。(素直、というのもクセモノですね)

それに耐えるため、適応するために「社会性」を身につけなければならない。

そのために「集団生活」「学校」が必要なのだ。

 

こんな感じでしょうか。

 

 

「社会人」という言葉も独特ですね。

学校を卒業して仕事に就くと「社会人」と呼ばれます。

でも、仙人でもない限り、社会とまったく関わらずに生きている人は皆無です。

生まれたての赤ん坊だって、いや、まだお腹の中にいる赤ちゃんだって、子どもだって、寝たきりのお年寄りだって、みんな「社会人」であるはずです。

 

 

社会性という名の同調性を身につけて、いちばん得をするのは誰なのでしょうか?

 

 

言うことを聞かせる側の人間でしょう。

 

 

わたしは、そんな社会性ならば、身につけなくていいと考えます。

 

 

 

自分の外側への興味関心

学校に行かずとも、本来の意味での社会性は十分身につく、と長男を見ていて感じます。

 

 

そもそも、人間は社会をつくる動物です。(人間以外の動物や昆虫でもそういう種はありますね)

邪魔が入らない限り、放っておいても社会性をもつのが人間です。

事実、子どもを見ていると、自分の外側への興味関心がすごいですよね。

社会性というのは、まさにそういうことではないでしょうか。

 

それに、社会とどう関わっていくか・どれだけ関わっていくかは人によって濃淡はあって当然で、「かくあるべし」というものは本来ないはずです。(それこそ余計なお世話だ!)

押し付けられるものではなく、自分で選ぶことです。

 

 

もし、学校に行っていないことで「社会性ガー」という人が現れたら、その人がどういう意味で社会性という言葉を使っているのか、よくよく観察してみることをおすすめします。

 

 

 

生きてるだけで丸儲け

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ごぶさたしております。

春めいてきて、ようやく書きたい気持ちになってきたので久しぶりの投稿です。

 

 

 

www.e-aidem.com

 

 

不登校界隈でも話題になっていたこの少年、記事化されたことで大反響となりお店に人が殺到……というところまでは聞いていて、その後が気になっていました。

 

 

その後を教えてくれる記事が出ました。

 

 

www.e-aidem.com

 

 

お店のキャパシティーを超えるほど人が殺到すると、お店の人は多大な消耗を強いられ、嫌な思いもたくさんする……ということは容易に想像できます。

もちろん、こちらのお店もそのようなことはあったでしょう。

 

が、それよりも、その嵐を乗り越えた家族の軽やかですがすがしい姿に心を打たれました。

 

本当によかった。

 

 

そう思いながらも、別のことを考えていたわたし。

 

 

不登校の子ども、過去に不登校だった人の「成功」を見聞きすると、安堵する自分がどこかにいます。

「ほら、不登校でもこんなに立派に生きられる」ってね。

 

 

でも、立派に生きていないとダメなの?

 

 

不登校で長らくひきこもる生活をしている当事者は大勢います。

 

 

打ち込めるものがない。

お金を稼いでくる仕事はできない、したくない。

社会の役に立つようなことはできていない。

 

 

それではダメなのか?

 

 

わたしが愛読している専門紙『不登校新聞』には、そういう当事者(かつて当事者だった人も含め)の手記や声がよく載ります。

(だからこそ、安堵している自分に気づくことができ、自問することができました。『不登校新聞』ありがとう!)

 

不登校になったとき、当事者もそうですが、そばにいる大人の着地点はどこにあると思いますか?

 

 

わたしは、「生きているだけで丸儲け」だと心から思うことに尽きると考えています。

 

 

話は変わって、わたしの好きなエピソードを紹介させてください。

 

 

アメリカはボストンにあるサドベリースクールでは、入学時に「もしかしたら、お子さんが20歳になった時に字が読めないかもしれません。それでも、子どもを尊重できますか」と尋ねられるそうです。

公教育を離れて過ごした日々 「オルタナティブスクール」とは - Yahoo!ニュース

 

 

まさに、「生きてるだけで丸儲け」の精神です。

 

 

話はまたまた変わります。

ジョン・レノンがオノ・ヨーコと出会った頃に、アーティストだったヨーコの展示を見る機会がありました。

ヨーコの作品は一風変わっていて、脚立と天井からぶら下がった虫眼鏡というものでした。

 

 

脚立にのぼって虫眼鏡で天井を見ると、そこにはとても小さい字で「yes」と書かれていたそうです。

 

 

はじめてこのエピソードを聞いたとき、わたしに「yes」と言ってくれたような、あたたかな気持ちになったことを今でも覚えています。

 

 

学校に行かないことを選択した人へ。

あなたがどうあっても、「生きてるだけで丸儲け」。

あなたがどうあっても、「yes」と伝えたい。

 

 

そんなふうに、不登校という事象と関われたら最高ですよね。

 

 

 

 

長男が夢中になっているもの【2017AW】

青木村にも冬がやってきました。

 

先日、このブログが開設から半年経ったというお報せが、はてなから届きました。

早いですね。

 

このブログでは、長男自身の話はほとんど書いていません。

話を聞いてまとめたい思いはあるのですが、現状では本人が望んでいないからです。

話したくなったとき、またはまとまった話が聞けたときが来たら、と考えています。

 

そんなわけで、間接的にはなりますが、本人が夢中になっているモノを挙げて、長男の“現在位置”を記しておきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

1.LEGO

とにかくLEGO。三度の飯よりLEGO

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リビング上にあるロフトが、現状では長男専用のLEGOルームになっています。

LEGOはパーツが小さく、弟たちに触らせたくないので、このように隔離してあります。

(とはいえ最近、ロフトが気になってはしごを途中までのぼる弟たち……隔離ができなくなるのも時間の問題かも)

 

毎日、気がつけばロフトにあがり、延々黙々とひとりで精巧な作品を生み出しています。

見た映画からインスパイアされることもあれば、LEGOの動画を参考にしていることも。

薪ストーブの世話をする父ちゃんや写真立てなど、実用的なものも作るようになりました。

 

最近、せっかくいろいろ作っているので写真に撮って【長男taboくんのLEGOシリーズ】としてわたしのインスタグラムに投稿するようになったところ、海外のLEGOフリークから「いいね!」してもらえるように!

 

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https://www.instagram.com/p/BbxlZN0Dniv/?hl=ja&taken-by=gyogo_gyogo

 

国はハンガリー、ロシア、アメリカ、ブラジル、スペインなどなど。

LEGOフリーク、LEGOの店、LEGO好きなアートディレクター、アーティストなどです。(ほぼ全員男性)

 

長男は、自分の作品を地球の反対側の人も見てくれて「いいね!」してくれるということに、とても興奮していました。

SNSのいちばんの醍醐味ですよね。

 

SNSは上手に付き合えば、子どもにとって、広い世界への窓になるんだナァと実感しています。

 

そんなわけで、LEGO制作にさらに拍車がかかっているようです。

 

 

 

2.アニメ

日本の定番から海外のひとクセあるものまで

「ポケットモンスター」「100%パスカル先生」「ドラえもん」などの日本のアニメから、海外の動画やアニメまで幅広く観ています。

一時期ヘビーローテーションしていたスタジオジブリ作品は最近は一段落したようで、ほとんど観ていません。

 

「LEGOの動画」

www.youtube.com

Amazon、youtubeなどでLEGOの動画をよく見ています。

けっこうよくできているんですよね。

 

HIKAKINなどの動画職人の映像もよく観ています。

今の子どもにとっては、動画職人は憧れの対象。

おもしろいものを生み出すパワーもすごいし、稼いでいる人はかなり稼いでいます。

こういうところは、まさにネクストジェネレーション感があって面白いですねぇ。

 

 

「アドベンチャー・タイム」

www.youtube.com

アメリカのアニメです。

テレビでの放映もありますが、こちらではケーブルテレビなどに入らないと見られないので、今はもっぱらDVDで観賞中。

 

ハイ・ファンタジーの物語です。

架空の大陸「ウー大陸」を舞台に、スーパーヒーローになりたい12歳の少年・フィンとその大親友で老練な犬のジェイクを中心に話が展開していきます。

 

ストーリーはめちゃくちゃなんですが、妙に面白くて魅力的なんです。

登場人物もキャラが立ちすぎていて笑えるし。

 

カートゥーン ネットワークオリジナル「アドベンチャー・タイム」は、2012年5月より日本での放送を開始。
パイロット版を経て2010年にアメリカでスタートした本作は、全米初放送時、視聴率1位(※)を獲得し、現在も大人気放送中の冒険ファンタジーです。


(※)ケーブル&地上波放送作品中、6-11歳、2-11歳児童、 9-14歳男子、各カテゴリで1位(米ニールセン調べ)

――公式サイトより

 

吹き替えの声優さんもすごくいいんだと思います。

特にジェイクの斎藤志郎さん!

おっさん犬で情のあつい知恵者なんですが、いつもフィンといっしょにハチャメチャをやっていて、わがやは全員ジェイクが好き。

(わたしは間抜けなアイスキングとヴァンパイア・クイーンのマーセリンも好き)

 

日本語版吹替えには、主人公フィン役を朴璐美、ジェイクを斎藤志郎はじめ、人気声優が顔を揃えているほか、キャラクターグッズも人気を博し、子供から大人まで幅広いファンを持つ注目作品です。

――公式サイトより

 

詳しくないのでどれがどうと指摘はできないんですが、おそらく、古典や神話を下敷きにしているんじゃないかと思います。

だから物語世界に強度があって、見飽きないのかな、と。

あくまで推測ですが。

 

 

「スポンジボブ」

www.youtube.com

これもアメリカのアニメですね。

友人の息子くんたちも好きだったので、男の子はわりと好きなテイストなんでしょうか。

ぜんぜん違いますが、テンポは「トムとジェリー」を連想させるものが。

エンディングテーマはRIP SLYMEのオリジナル曲で、耳に残りますねー。

 

 

 

3.ドキュメンタリー

ネイチャー関係強し!

「ワイルドライフ」(NHK BSプレミアム)
NHKスペシャル「シリーズ ディープオーシャン」(NHK総合)
「ダーウィンが来た! 生きもの新伝説」(NHK総合)

www4.nhk.or.jp

 

どれもネイチャー関係ですね。

録画したものを本当によく見ています。

 

しかもよく覚えていて、ときどきここから得たらしき知識を披露してくれます。

「心底感動したんだなー」という感じが伝わってきて、なかなかに心震える視聴体験になっているようです。

 

最近の「ダーウィンが来た!」では、野良猫の生態をやっていて、特に面白く観ていたようです。

オスの子殺し(注:ほかのオスの子ども)についても丁寧に説明していて、こういう側面も知ることができるのはいいですよね。

 

NHKスペシャルで放映されている「シリーズ ディープオーシャン」は深海モノ。

ご多聞に漏れず長男も深海には興味があるようです。

 

そういえば、NHKでツタンカーメンの墓についてやっている番組も最近あって、それもかなり真剣に観ていました。

CGを駆使して発掘当時のツタンカーメン王墓を再現していて、かなり見ごたえがありましたよ。

ツタンカーメン王は9歳で即位しているそうです。

「taboくんがあと1年経ったら即位ってことだよ!」と言ったら「ぎょえ~~!」と驚いていました。

 

なんだかんだ言ってもNHKのドキュメンタリーは見ごたえのあるものが多いですね。

夏に戦争関係のドキュメンタリーもやっていたので録画しておきました。

世界の複雑さ、悲惨な側面が理解できるくらい成長したら、一緒に観たいと思います。

 

  

「世界入りにくい居酒屋」(NHK BSプレミアム)

www.nhk.or.jp

 

これはわたしたち両親の好みに付き合わせた結果なのですが……。

この番組は、海外の都市にある「入りにくい居酒屋」を取材するというものです。

 

「入りにくい」の意味は、店のキャラが立っている、見つけにくい、観光客がほぼ来ない、ディープ、といった意味のようです。

 

これがまあ、毎度本当に面白いんです。

店主の人柄が魅力的で、料理やお酒もいかにもおいしそうで、地元の人たちに愛されている店ばかりなのです。

気のいいヘベレケさんたちを見ているだけで幸せな気持ちに。

 

居酒屋にはなかなか行けないわたしたちには癒しの番組ですが、長男にはなんだかおもしろい大人たちがぞろぞろ出てくる番組に見えるようです。

これを見ながら「いつか、この居酒屋行きたいね」と長男と話をしています。

 

子どもたちがもっと大きくなったら……下の双子さんたちが10歳くらいになったらかな? 家族5人で何か月か海外を旅するのが夢です。

バックパッカー旅行で、いろんな国に行って、いろんなものを見ていろんな人に会っていろんなものを食べたい、と夢想しています。

 

 

 

4.映画

映画館&録画で楽しむ

映画は、本人が観たい新作を映画館に観に行ったり、テレビ放映を録画したものをよく観ています。

吹き替えでないものも多いので、その場合は一緒に観ている夫かわたしが字幕を音読しています。

 

「レゴ ニンジャゴー ザ・ムービー」(2017年/アメリカ)

www.youtube.com

 

これもLEGOですね。

 

ちょっと前に長野市の映画館まで夫と2人で観に行っていました。すごく面白くてまた観たいそうです。

 

“ニンジャ”と言いつつずいぶん中国風だなオイという、「欧米から見た東アジアあるある」な舞台設定なんですけどね。

 

 

「スター・ウォーズ」シリーズ(1977年~/アメリカ)

www.youtube.com

 

夫と一緒に観ていました。

 

最初は2話も観れば「もういい」という感じだったのですが、最近また「観たい」と言い出して観ていました。

好きなキャラクターは「チューバッカ」だそうです。

(わたしが「チューバッカ―?」と聞いたら「バッカ! バカじゃねえんだから!」と注意されました)

 

観たあとでインスパイアされるものがあったらしく、LEGOでスターウォーズにいかにも出てきそうな乗り物を作っていました。

 

 

「ブルース・ブラザース」(1980年/アメリカ)

www.youtube.com

これも夫が何気なく観だして、一緒に観ていました。

 

というか、このときは結局家族5人で観ることになってしまい、下の双子さんたちが盛大なカーチェイス&クラッシュシーンに大興奮で、寝付くまで大騒ぎというおまけ付きだったのでした。

 

音楽は最高、キャストは超豪華、下品なジョーク、ワルっぷり、登場人物たちのキャラの濃さ、展開のハチャメチャさ。

最上のエンターテインメントであり、どれをとっても誠に“教育的”な映画ですねぇ。

 

いやそれより何より、単純にお腹の底から力が湧いてくるような楽しさに満ち溢れているのが、何度観ても「いいな」と思える理由でしょうか。

 

長男にどこが面白かったか聞くと「んー、アホなところ!」と言っていました。

 

余談ですが、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの星野源さんも、幼いときに観たこの映画は自身の血肉なるほど影響を受けていると言っています。

今回改めて観て納得、でした。

 

 

 

「プロジェクトA」(1983年/香港)

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ジャッキー・チェン出演の名作ですね。

 

1900年代のイギリス植民地下の香港が舞台で、ジャッキーをはじめとしたカンフーの達人の超絶技巧、テンポのよい展開が、スカッとカラッとしていてとにかく面白いです。

 

ストーリー、展開ともに明快な勧善懲悪でテンポがいいので、字幕を追えない子どもでも楽しめるようです。

 

 

 

5.本

本だけは惜しみなく!

図書館・書店には、本人の希望もあってよく行っています。

 

「LEGO製品カタログ」

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製品カタログですら熟読……。

「これが欲しいナァ」と夢を膨らませつつ、お小遣いを貯めるモチベーションをあげているみたいですよ。

 

書店で売っている、LEGOのパーツが付録になった本もときどき購入しています。

 

 

月刊「コロコロ」(小学館)

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発売日に新聞といっしょに配達してもらうようにしています。

届くと、パジャマは着替えない、朝ごはんもそっちのけで熟読していますね。

 

そう、長男は「三度の飯より……」な人で、食事に対する欲があまりないんですよね。

わたしは食欲ファーストな人間なので、最初は驚いたものです。

 

寝ても覚めてもLEGOな今はそうでもなくなりましたが、一時期は脳内がコロコロで占められていました。

「でんじゃらすじーさん」シリーズや「100%パスカル先生」がお好みのようです。

 

 

角川まんが科学シリーズ「どっちが強い!?クジラvsダイオウイカ 海のモンスター対決」(KADOKAWA)

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児童書のこのジャンルは人気がありますね。

「最強生物」とか「危険生物」とか。

けっこう前から、この手の本は欲しがることが多かったです。

 

 

「こども博物誌」シリーズ(玉川大学出版部)

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玉川大学出版部が、玉川学園創立90周年を記念して出しているシリーズです。

 

玉川大学出版部は、過去に計8種の児童百科を出版してきたそうです。

どうりで、なかなかの内容なんですよ。

 

全集方式で1巻ずつリリースしているようなんですが、今の時代に珍しい丁寧かつアナログなつくりです。

 

大判のハードカバーで、ビジュアルは写真ではなく緻密なイラスト!

ゆったりした組みなのもいいですね。

 

たしか新聞広告で見て、これは面白そうだということで買ってみたんでした。

 

【全巻構成】
・動物のくらし(2016年5月刊)
・ぐるっと地理めぐり(2016年9月刊)
・数と図形のせかい(2017年1月刊)
・昆虫ワールド(2017年5月刊)
・音楽のカギ/空想びじゅつかん
・植物とくらす
・日本の知恵をつたえる
・地球と生命のれきし
・ロボット未来の部屋
・頭と体のスポーツ
・空と海と大地
・ことばと心

――公式ホームページより

 

 

今は、動物と昆虫の巻を読んでいます。

その生物の生態を詳細かつわかりやすく描いているので満足感があるのか、長男もとても気に入っています。

 

なので、これは学習にも使っています。

1日1種分を音読しながら、疑問や面白いところを話し合いつつ、という感じで使っています。

 

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今はこんなところでしょうか。

 

わたしたち親が素直にいいなと思ったものを勧めたり、一緒に楽しむこともよくありますが、基本的には本人の好みをそのままにしています。

 

まあ、子どもの世界にとって親は所詮“場外”。

とはいえ、言葉の外で無意識に何かを押し付けていることもあるかもしれません。

場外とわきまえたところで、身近な大人の影響は排除できません。

そのへんのさじ加減は本当に難しいところです。

 

本人が楽しいと思えることがあれば他に何を望もうか!

一緒に楽しめればなお言うことなし、ですね。

 

脱学校後、ひとつだけ後悔していること

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長男が学校に行かなくなって、半年が経ちました。

この間、いろいろあったけれど、おおむねよかったなという感じで推移しています。

 

長男が学校に行かなくなったこと自体に後悔は何もないんですが、ひとつだけ悔やんでいることがあります。

 

 

それは、きちんと怒らなかったこと。

 

 

あ、子どもにじゃないですよ。

学校や教育委員会、そして長男をいじめた子どもたちにです。

 

まあ、感情ってのは蓋しても漏れ出てくるものなんで、要所要所では「怒っている」ことは伝わっていたとは思うんですが、ちゃんと怒れてなかったなという後悔があるのです。

 

 

なぜわたしがちゃんと怒れなかったか。

それは、モンペ扱いされたくなかったから

 

 

話し合うとき、人は感情的になることを嫌います。

 

感情的になったが最後、話を聞いてもらえなくなる……!

 

と、わたしは必死に歯を食いしばっていました。

 

 

でも、それは間違いでした。

 なぜなら、怒るべきことにちゃんと怒らないと、怒りはいつまでも成仏しないんですよね。

そしてそれは、内側から自分を蝕んでいくし、瘴気のようなものになって周りにも出てしまうなぁ、と感じています。

 

 

そもそも、感情的になったら負けという「ゲーム」は、本当はおかしい。

わたしたちは、感情を排して話し合うべき、という考え方に縛られ過ぎているんじゃないだろうか。

 

感情を出すのは、そんなにいけないことなんでしょうか。

 

「トーンポリシング」という言葉があります。

日本語に訳すと「話し方警察」「話し方取り締まり」とでもなるでしょうか?

 

人が「怒り」「悲しみ」などを表現したときに、「そんなに感情的だと話聞いてもらえないよ?」「もっと冷静になろうよ」と表現の内容ではなく表現のあり方にフォーカスし、怒りや悲しみを表明した人の口を封じ、結果論点がずれていく、というやつです。

 

たぶんほとんどの人は、怒りや悲しみを受け止めるのに慣れていないんですよね。

だから、困惑するんだと思います。

居心地が悪く感じるのは、わたしもよくわかります。

 

では、どうすればよいのか?

 

まずひとつは、怒りや悲しみといったネガティブな感情が湧いたら、抑えつけるのではなく、十分に味わうこと。

「ああ、わたし今怒っているな」「わたし、すごく悲しい」という具合にです。

そして、怒りや悲しみの対象が目の前にいるならば、その場でそう伝えることです。

 

それを相手がどう受け止めるかは「相手の領域」なので、コントロールはできません。

それでも、伝えることが大事です。

 

逆にこのプロセスがないと、感情の出口がない状態になるので、いつまでも手放せなくなり、くすぶり続けます。

(そういう経験はだれしもあるのではないでしょうか)

 

そして、自分が他人の怒りや悲しみに接したときは、なぜその人がそんなにも怒っていいるのか(悲しんでいるのか)にフォーカスすること。

 

これはちょっと難易度高めに感じるかもしれませんが、結局はいちばん安全な近道なんではないかと考えます。

 

なぜなら、接した側は怒りや悲しみの根っこがわかって安心するし、怒っている(悲しんでいる)側もちゃんと受け止めてもらえたという安心感が得られるからです。

 

なぜ怒っているかわからない「不安」。

受け止めてもらえないかもしれないという「不安」。

 

不安を放置することこそが、人の心を黒くしていくのではないでしょうか。

(不安そのものがいけないという意味ではありません。不安は大事なことを教えてくれます)

 

今は、ちゃんと出せなかった怒りをどうやって解放していくか。

そして、「モンペ扱いされたくない」という保身とどう折り合いをつけていくのか。

それが目下、わたしの課題のひとつです。

 

 

 

「我慢」には2種類あるって知ってた?

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「我慢しなさい」

「我慢が大事だよ」

 

人間社会でつつがなく暮らしていくには、「我慢」がどうやら大事なようですね。

 

わたしもそう言われて育ちました。

我慢がちゃんとできないとまともに扱ってもらえない……くらいの強迫的なイメージを持っていました。

 

 

 

 

でも、それがあるとき覆ったのです。

 

それは、ある小説の一文でした。

 

その小説とは『小やぎのかんむり』著・市川朔久子(講談社)です。

(市川さんは、この作品で第66回(2017年)小学館児童出版文化賞を受賞されました。おめでとうございます!)

 

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bookclub.kodansha.co.jp

 

 

後半に

「――その我慢は、自分を生かす我慢か。それとも殺す我慢か?」

という一文が出てくるのです。

 

この小説は、中学校3年生の夏芽が主人公です。

夏芽は夏休みに田舎のお寺が開催しているサマーキャンプにやってきますが、参加者は夏芽ひとり。

屈託なく接してくれる美鈴さん、一見いい加減な和尚のタケじい、住み込みでお寺の仕事をしているまじめな穂村さんが迎えてくれます。

そこに、置手紙ともに置いていかれた5歳の雷太が転がり込んで……物語が展開していきます。

 

(ネタバレになるのであらすじはここまでにしておきますが、とてもすばらしい小説なので、よかったらぜひ読んでみてください)

 

夏芽がサマーキャンプに来たのは、抑圧的な父親と、それに従うだけの母親との生活が息苦しかったからです。

 

先の一文は、夏芽がスズメバチに刺されて夜眠れないときに、美鈴さんが冷やすための氷嚢を作りながらつぶやく言葉なのです。

美鈴さんは、この言葉を「昔、わたしがおじいちゃん(注:タケじい)に言われた言葉よ」と補足します。

 

夏芽は「我慢強い」「心が広い」と言われてきました。

でもそれは……。

 

わたしは、いったいなにを我慢していたんだろう。もうずっと。

 

夏芽の心にその思いが去来します。

 

 

わたしの心にも、この一文がふかく刺さりました。

 

それ以来、何か迷うことがあると自分の心に問うのです。

「それは、自分を生かす我慢か殺す我慢か?」

 

そして、「自分を殺す我慢だ」と感じたら、我慢しないことに決めました。

 

長男がいじめられていることをまだ知らなかったとき、長男がクラスの子からからかわれることを話してくれたことがあります。

(それがまさにいじめだったのですが……)

 

どういう話の流れだったかは覚えていないのですが、そのときもわたしは「我慢には2種類あって、自分を生かす我慢と殺す我慢があるよ。もしそれが自分を殺す我慢だったら、一切我慢する必要はないよ」と伝えました。

 

長男の心にどんなふうに残ったのか、あるいは残らなかったのかはわかりません。

でも、今もその思いは変わりません。

 

今、ここで我慢して踏ん張ることが自分を生かすと思えるのならば、無駄な我慢ではないでしょう。

 

しかし、世の中で言われる「我慢」のほとんどが、「自分を殺す我慢」ではないでしょうか?

この言葉を知ってから、わたしには世の中の「我慢」の内実が、そう見えてなりません。

 

今は確信を持って言えます。

自分を殺す我慢は、一生涯を通じて一切する必要はない、と。

 

「いま我慢しないと、まともな人間に育たなよ」

「いま我慢しないと、立派な1年生になれないよ」

「いま我慢しないと、将来いい学校に行けないよ」

「いま我慢しないと、将来まともな仕事につけないよ」

「いま我慢しないと、将来出世できないよ」

「いま我慢しないと、老後は悲惨だよ」

 

「いま我慢したら、すべてが丸く収まるから」

 

わたしたちはいつになったら、我慢しないで済む世界に行けるのだろう?

わたしたちの世界は、これほどまでに「我慢の呪い」に満ちています。

 

我慢をせずにやりたいことをやっている人を見てイラッとするのは、自分が自分に「自分を殺す我慢」を強いているからかもしれません。

 

 

――その我慢、自分を生かす我慢ですか? それとも、自分を殺す我慢ですか?

 

つらいことがあったら、この言葉をぜひ思い出してください。

 

 

 

子どもが不登校になったらまずやることは2つ

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お子さんが不登校になったときに、保護者はまず何をすべきなのでしょうか?

文部科学省不登校は誰の身にも起こりうる」と明言しています。

 

まずは深呼吸して落ち着きましょう。

そして、ゆっくりと、当事者であるお子さんに「わかった。学校を休もう」と伝えてください。

 

それから、2つのアクションを起こしましょう。

 

今日は、そのアクションについて、わたしの経験をもとにお話をしますね。

 

 

 

 

子どもが「学校に行きたくない」と言い出した!

お子さんが「学校へ行きたくない」と言って、学校を休むようになったとします。

そういう事態を具体的に想定していない方がほとんどでしょうから、保護者は焦りや混乱に見舞われるでしょう。

 

でもとりあえず、落ち着きましょうね。

はい、深呼吸~~(*´ω`)

 

「なんで?」「いつ登校を再開するの?」「勉強遅れちゃうじゃない」という言葉が口から飛び出そうになりますが、その答えはおいおいわかりますから、今は脇に置きましょう。

 

 

 

子どもの学校行かない宣言は「自分は瀕死の状態です」申告と思ってください

……落ち着きましたか?

 

お子さんは、やっとの思いで「学校に行きたくない」と打ちあけて、今は心身ともに疲れ切っています。

 

学校を休んで、

ずっと寝ている。

ゲームばかりしている。

ダラダラしている。

 

見た目は怠惰にしか見えなくても、戦場から瀕死の状態で帰ってきたのと同じと考えてください。

(学校は戦場じゃないでしょー? というツッコミはなしでお願いします。当事者はそれくらいの危機的状態だという説明のための比喩です)

 

さらに、家にいるということは、家は少なくとも安心できる巣足り得ているということです。

そのことを喜びましょう。

世の中には、本当に悲しいことですが、家が安心できる場ではないという子どもも大勢います。

 

 

 

保護者がやることは2つ

さて。

ここから保護者がやることは2つです。

 

1.情報を取りに行く

2.同士(仲間)とつながる

 

この2つだけです。

あとは、取りに行った情報と、つながった同士たちが、あなたを次の場所へ連れて行ってくれます。

 

逆に、これをやらないと、まずはお子さんを受け止めるべき保護者がいつまでも無用な不安にとらわれ、お子さんを苦しめます。

また、学校と話し合うにしても孤軍奮闘で消耗する可能性が高いです。

 

 

情報を取るときのポイント

不登校=問題行動」というベクトルはNG

情報は「ネット」がいちばん手っ取り早いでしょう。

不登校 支援」「不登校 団体」「不登校 定義」などで検索してみてください。

 

ただし気をつけていただきたいのは、不登校は今でも「問題行動」という見方がまだまだ強く、ネット上で「不登校支援」をうたっている情報でも「なんとか学校へ戻す」「学校の代わりを探す」というベクトルが多い点です。

 

今は文部科学省ですら、「不登校は問題行動」という考え方を一切捨てています。

2017年に教育機会確保法という法律が成立して、「個々の不登校児童生徒の休養の必要性」を法律で認めたのです。

(教育機会確保法にはまだまだ足りない部分もたくさんありますが、今までの国の不登校への対応の経緯からすると前進と言えます)

 

最初から「元に戻す」方向へ進もうとすると、お子さんをさらに追い詰めて、地獄を見ることになる可能性が非常に高いです。

 

ほうほうのていで戦場から帰ってきた人を、なんとか戦場に戻そう、戦場の代わりになる場所に連れて行こう……とはしませんよね。

まずは心身ともにゆっくり休ませます。

それと同じです。

 

不登校のことをニュートラル、受容的に教えてくれる情報を

まずは、不登校とは何なのか」を正確に、ニュートラルに、受容的に教えてくれる情報を探してください。

 

不登校の当事者による団体、または不登校の当事者が自分らしく生きられるように支援をしている団体のホームページなどが、いいでしょう。

ただし、評判のよくない団体もありますから、要注意です。

 

検索エンジンで最初に出てくるページだけでなく、2~3ページは見出しに目を通されることをおすすめします。

 

お住まいの自治体名と合わせて検索すると、地元や近隣の支援団体が出てくるかもしれません。

 

探すのと読むのとに少し根気がいりますが、文部科学省のホームページにも不登校に関する資料はあります。

 

もちろん、本から情報を得てもいいです。

まずは地元の図書館で調べてみてください。

意外と不登校ジャンルの本は置いてあります。

(わたしが住む青木村の図書館にもありました!)

 

わたしがおすすめするのは、

1.日本で唯一の不登校・ひきこもり専門紙「不登校新聞」のホームページ

2.フリースクール東京シューレ」の総合ホームページ

3.AI-am(アイアム)のホームページ

です。

 

おすすめ情報源1「不登校新聞」

ホームページで誰でも読める情報として、「当事者の声」「親のための不登校Q&A」があります。(1カ月の無料お試し購読のための登録が必要です)

まずはここを読まれることをおすすめします。

 

購読したい場合は、紙版とネット版から選べます。

紙を選んだ場合、他の人に「不登校新聞」ということがわからないように配送してくれるサービスも選べます。

 

わたしはこの新聞をすぐ購読して、すごく救われました。

まず、不登校を一切否定的に扱っていないこと。

そして、当事者の矛盾、悩みをふんだんかつ丁寧に扱っていること

隅から隅まで不登校の当事者と保護者に寄りそう内容で、著名人や専門家へのインタビューも載っています。

不登校関連の政治の動向についての記事が載ることもあり、情報のアップデートには最適です。
わたしがいちばんうれしかったのは、最終面に各地の親の会の開催情報が載っていることでした。

 

おすすめ情報源2「東京シューレ

東京シューレ」はフリースクールやホームエデュケーション(家庭での教育・学習)がメインですが、不登校そのものについても活動をしています。

 

不登校に対して否定的な見方がみじんもなく、不登校フリースクールのイメージを変えてくれるだけの情報量と30年以上の蓄積があります。

 

ちなみに「不登校新聞」の代表理事である奥地圭子さんは、「東京シューレ」「登校拒否を考える会」の代表でもあります。

 

おすすめ情報源3「AI-am」

こちらは、個人(母娘)で運営しているサイトです。

 

デモクラティックスクール(サドベリースクール)のスタッフ経験がある母・よっぴーさんと、小~高まで公教育を受けずに大学に行った娘・まりんさんが、不登校やこれからの「学び」について、実体験や情報の発信を続けています。

 

ホームページでは、おふたりの投稿がたくさん読めるので、気になるところから読んでみてください。

Facebookでオンラインサロンも運営しています。

 

でも最後は自分の目で確かめてね

現時点で、わたしの経験に基づいてこの3つのサイトをお勧めしましたが、これがすべてではありません。

ぜひ、ご自分の目でよく確かめられることをおすすめします。

 

 

同士とつながる方法

不安に心を支配されないために、
悩まなくていいことで右往左往しないために、
学校との話し合いを後悔の嵐にしないために、
そしてお子さんを無用に傷つけないために、

同じような立場の人とつながることを、強くおすすめします。

できればリアルで。

 

「親の会」を探してみる

まずは「親の会」につながってみるのはいかがでしょうか。

 

「親の会」については、「不登校新聞」の最終面に、各地の親の会開催情報が載っていると前述しました。

ここでチェックしてもいいですし、支援団体に問い合わせてみてもいいでしょう。

 

また、お子さんの学校を担当しているスクールソーシャルワーカーに尋ねるのも手です。(スクールソーシャルワーカーは社会資源の情報提供も仕事のひとつです)

 

自治体の子ども支援や教育関連の窓口で尋ねる方法もあります。

とはいえ、小さな自治体だとハードルが高いかもしれませんね。

その場合は、近隣の大きい自治体で電話で尋ねてみてはいかがでしょうか?

 

ネット上のサロンもある

リアルでのつながりが難しければ、ネットのサロンもあります。

例えば、東京シューレが運営している「ホームシューレ」では、親会員専用交流サイトが用意されています。

会員になる必要はありますが、クローズドかつ全国に仲間がいる空間なので、安心感があります。

 

また前出の「AI-am」でもFacebookのオンラインサロンを運営しています。

こちらはまだできて日が浅いですが、よっぴーさん&まりんさんのお人柄もあって、非常にリラックスできる場、さまざまな気付きを得られる場になっています。

 

無理せずにいられる場を選ぼう

ちなみに、わたしはリアルの「親の会」は2か所行きました。

ひとつはたまたま友人が参加していた地元の会。

もうひとつは、長野市で長く続いている会。

 

地元の会はできたばかりで、知っている人も少ないです。

こんなふうに、ネットや公的な情報にも上がっていない親の会もあります

 

長野市の会は、なにしろ長くやっているので蓄積があります。

具体的に困っていることがあったときに相談に行き、話を聞いてもらってアドバイスをいただき、本当に助かりました。

 

会には、まず顔を出してみて(個人相談を受け付けているなら最初はそれを利用する手も)素直にホッとできる場・メンツならば、あなたに合う会である可能性が高いです。

無理のない範囲でつながってみてはいかがでしょうか。

 

逆に「居心地が悪いなぁ」「イヤなこと言われちゃったなぁ」という場合は、しがみつかず、他を当たりましょう。

 

「親の会」の空気感とは?

わたしが「親の会」に出てみて感じたのが、会が目的化しておらず、それぞれが出会う場になればいいというゆるやかな空気があることです。

だから、義務的なことや強制がありません。(場所代・運営費として少額支払うことはあります)

話したいことがあれば顔を出して、そうでなければ来なくてもちろんOK。

会員になるならないも、ご自由に。

そんな感じです。

 

子どもの不登校で打ちのめされたり、消耗したりする保護者は多いです。

親の会でまで、窮屈な思いをしたり無理をしたりはお互いしたくないよね、という雰囲気です。

 

もちろん、そうではない会もあるでしょう。

実際、相談に行ったらかえってお説教めいたことを言われてヘコんだ……という方もいます。

 

自分に合うかどうかは、よーく見てみてください。

最初「いいなー」と感じても、違和感が出てくれば無理に付き合うことはありません。

距離を置いてもよし、さっさと離れるもよし、です。

 

「親の会」は学校じゃないからね!

無理して行かなくていいのですから。

あっ、学校も無理して行かなくていいんですよー。

 

 

「ひとりじゃない」のはあなたも同じ

なにしろ、不登校の当事者は小・中だけで12万人超もいるのです!
高校生まで入れると17万人。
ということは、その保護者・関係者・支援者もかなりの数いるということです。

 

どこかに必ず、あなたにとってジャストサイズでベストタイミングな場があるはず。

きっとあなたをエンパワーメントしてくれる人たちがいるはずです。

 

自殺に追い込まれそうになっている子、不登校の子に対してよく言われる「あなたはひとりじゃない」という言葉は、その保護者にもそのまま当てはまります。

 

どうか、ひとりでなんとかしようとしないでください。

 

「情報」と「仲間」。

 

それが、きっとあなたを助ける頼もしい武器になってくれます!

 

 

 

 

 

 

「わたしはそう思わないけど、世間はそう見るから」と言わないことに決めた

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鳥は「自由になりたい」と思いながら飛んではいません。ただ、あるがままである。自分を不自由にするのはただひとつ、自分だけです。

 

 

 

いきなり宣言します。

 

以前から「わたしはそう思わないけど、世間はそう見るから」という言い回しに、「いや、それは『わたしもそう思っている』と同義だろ?」と気付いてしまっていたわたくしgyogoです。

 

鼻の穴を膨らませてながらそう思っていたわけですが、かく言うわたくしがそう思っていた、ということが先日わかってしまったのでした。

 

 

「ゲシュタルトセラピー」という心理療法をご存知ですか?

 

通常のセラピーでは「過去」にフォーカスする場合が多いですが、ゲシュタルトセラピーは「いま・ここ」にある「からだと心」に何が起きているのかに本人が「気づく」ことにひたすら集中します。

 

分析や解釈、解説は一切しません。

 

 

最近では、漫画家の田房永子さんのコミックエッセイ『キレる私をやめたい』(竹書房)で紹介されて、にわかに注目を集めているようです。

 

「ようです」と言いながら、わたしもまさにそのひとり。

 

『キレる~』で紹介されていた百武正嗣さんの本をさっそく買い求め、長野県内でワークショップをやっていないかどうか調べてたどり着いたのが、「長野ゲシュタルト研究会」でした。

 

今年2017年1月に、ちょうど百武さんが長野にいらっしゃるというではないですか。

すぐに申し込みました。

 

はじめてのワークは、まさにセンセーションの嵐でした。

まわりの人はおろか、ファシリテーターすら見えなくなって、ひたすら自分の世界に没入する。

 

こんな体験は初めてで、なぜこんなシンプルな場でこんなことが起きるのか、本当に不思議でした。

そのときは「母との関係」をテーマにしたのですが、以降、母との間に境界線を引けた実感があり、母のことで頭がぐるぐるすることがなくなりました。

 

 

先日、3回目のワークショップに参加してきました。

「この春から夏にかけて、家族にいろんなことが起きて、今でも怒りや疎外感に支配されることがある」と話をしました。

 

長男の不登校のことに話が進みます。

 

 

 

そこでわたしは、気が付くと「マイノリティ」「世間」という言葉を何度も口にしていました。

 

ファシリテーターは「どういう意味で使っているの?」と尋ねます。

わたしは「全体の中で割合が少なくて、数が少ないという意味です」と答えましたが、「そういう一般論じゃなくて、あなたの中でどういうことを指しているの?」とさらに返してきます。

 

わたしは頭が混乱しました。

「えっ?  ただ数が少ないというだけの話なんだけどな……」

 

その後、わたしがやりたいこと・大切にしたいことに話が移りました。

 

それについて話をし、今感じていること、意識せずに出た仕草が語り掛けていることを翻訳し(「その腕はなんて言っているの?」等)……という具合に進んでいきました。

 

最後、ファシリテーターはわたしの目の前に並んだ「やりたいこと・大切にしたいこと」を指さしました。

 

そして「じゃあ、そこに『マイノリティ』という言葉を置くとしたら、どこに置く?」と尋ねます。

 

わたしは「ここには……どこにも置くところがありません」と返事をしました。

 

ワークは終了しました。

 

そのときにハッと気が付きました。

 

「わたしはまだ、世間の価値観から自由になっていない!」

 

 

・マイノリティをマイノリティと言って何が悪いのか。

・数の多寡の話で、事実を言っているだけじゃないか。

 

と考えていました。

 

でもそうではなかったんです。

 

・小学校低学年で学校に行かなくなった長男はマイノリティ。

・そしてその保護者であるわたしもマイノリティ。

……etc.

 

マイノリティというのは「事実」ではなく、「解釈」だったのです。

 

そしてその解釈の枕詞は「世間の中で」という言葉です。

 

ただ、学校に行っていない子どもがいる。

ただ、学校に行っていない子どもを持つ母親である。

 

ただそれだけのこと、でよかったのです。

 

「世間の中で」という枕詞をわざわざ付けなくてよかったのです。

 

その枕詞を付けたくなる心というのは「わたしはそうは思わないけど、世間はそう見るから」という心、つまり「わたしも世間と同じ価値観を共有している」ということだったのです。

 

移住してからこっち、わたしは「自由に生きたい」と願ってきました。

しかし、そう願うということは「今が自由じゃない」とはからずも告白していることになります。

 

なんだか可笑しくなりました。

 

わたしはもう、

 

「世間はそう見るから」

「自由に生きたい」

 

と言わないことに決めました。

 

すべてを「ただ、それだけのこと」として決断し、受け入れ、自由に生きていることを自分に許可します。

 

 

1年前、小学校の保護者文集に書いたこと

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ちょうど1年ほど前でしょうか。

当時長男が通っていた青木小学校で、保護者が作る文集の原稿依頼がありました。

 

青木小学校では、1年生、4年生、6年生(だったと思う)の保護者で文集を作る慣例があるようです。

当該の学年の保護者全員に原稿を提出させて、そこから文集担当のPTA役員が何本か選んで、文集に載せます。

(残念ながらわたしの原稿はボツでした。まあ、保護者の原稿としては異形の原稿だったので致し方ありません)

 

1年生の最後、文集でボツになった原稿も合わせて、全員分の原稿を冊子にしたものを渡されました。

 

お題は特になく、子どもとの関わりや子どもの成長などを保護者の目から書いてください、という感じでした。

 

前回の、スタジオジブリ作品についての投稿で、この原稿のことを思い出しました。

この原稿でも、宮崎駿監督の言葉に触れているからです。

 

1年前のわたくし、こんなことを考えていたようですよ。

 

 

 

希望のボール

                     一年一組 gyogo

 わが家は、今年の三月に青木村に移住してきました。同じ三月の末、わたしは十四年間勤めた会社を辞めました。

 出版社で、男性情報誌、女性誌、男性週刊誌の編集の仕事を経て、最後は児童書の編集をしていました。おもに、小学一年生から高校三年生までを対象とした読み物(物語、ノンフィクション)を編集していました。

 今の小学生は、親御さんが小学生だったときよりも本を読んでいます。「朝読」などで本に親しむ機会が多いためです。所属していた編集部のおとなりは青い鳥文庫の編集部で、ファンクラブに読書好きの子どもが集まってきます。年間二百冊、三百冊読む子はざらで、多い子で五百冊(!)も読むとか。そういうお子さんの家庭は、親御さんも読書家だったり、子どもには本を惜しみなく与えたりと、しぜんと本に親しめる環境が多いように見受けられました。

 児童書は、きびしい環境にある子どもをえがくことがあります。虐待にあっていたり、家庭が複雑であったり、本人や身近な人に何らかの障害があったり、マイノリティであったりとさまざまです。

 作る側の勝手な思いとして、現実にそういったきびしい状況に生きる子どもに届けたいという思いがいつもありました。ですが、実際にどれだけ届けることができているのか……。

 本一冊を読み切るには、慣れが必要です。また、本人が夢中になれる内容の本に出会うかどうかも大きいです。まして本は生活必需品ではありませんから、シビアな状況にいる人に手に取ってもらえる確率は、高くはないだろうと想像します。

 そもそも、それだけ強い魅力をもつ本をどれだけ作れているのか? と自分に問うと、うつむくしかありませんでした。

 そんなときに、担当していた作家の講演に出かけました。その作家は幼少期から継母に壮絶な虐待を受け、学校でもいじめを受け、文字通りどこにも居場所のない子ども時代を送っていたのでした。彼女が小学生のとき、ただひとつの楽しみだったのが、休み時間に学校の図書室に行って本を読むことだったそうです。本の世界が、つらすぎる現実からひととき、彼女を守ってくれたのでしょう。そんな彼女が長じて童話、絵本、児童文学の作家になったのでした。

 それ以来「投げるボールは数も種類も多いほうがいい」という思いを強くしました。本は子どもに投げるボール。どのボールがどの子に届くかわからない。だから、いろんなボールをなるべく多く投げたい。

 ずいぶん効率の悪い話です。たかが本一冊で人を変えようなんていう考えは、思いあがりかもしれませんね。でも、そういう力をもつ本があるのはたしかで、その人の心にジャストミートしたときに与えるインパクトは、想像をこえるものがあります。かく言うわたしも、自分の何割かは本によって育てられたと感じているので、そういう出会いの仲立ちができたらうれしい、と思って編集者になったのでした。

「風の谷のナウシカ」などを作ったスタジオジブリの宮崎駿監督は、「この世は生きるに値する」ことを伝えたくてあの数々の名作を世に送り出していたそうです。この世は、楽しいことやすてきなこともたくさんあるけれど、理不尽なこと、悲しいこと、怒りをおぼえることのほうが多いかもしれません。それでもなお、この世は生きるに値すると伝えたいのは、希望を捨てないということなのかなと思います。

 わたしはもう本を編むことはありませんが、この青木村で、ちがったかたちで〝希望のボール〟を投げられる人になれたらいいなぁ、と願っているところです。と同時に、いろんな人とのあいだで、〝希望のボール〟を投げたり受けとったりできるような関係を結べたら、とてもすてきだなと思っています。

 

 

 

自分の子どものことを正面切って書くのは、難しいです。

わたしは自分がいわゆる「いい母親」ではないという自覚があるので、人に読ませるものとして書くのはなおさら難しい。

 

それで、自分の前の仕事が児童書の編集だったのをいいことに、そこで感じたことを書くことにしました。

文集では、自分が担当した本の書影まで入れて、少しでも宣伝を……と、ちゃっかりしています。

思っていたより、わたしは編集者という仕事に愛着があったみたいです。

 

この文章、舌っ足らずなところもあるし、いいことを言おうと鼻の穴を膨らませている調子で、見ようによってはずいぶん偉そうですねー。

移住したてで、希望に満ちていて、ついでにけっこう肩に力が入っていたのも見て取れます。

状況があまりに変わってしまった今となっては、ずいぶん健気だなジブン、とも思います。

 

そんなこんなで気恥ずかしくはありますが、とはいえ、ここに書いたことに偽りはありません。

 

それは今も同じです。

 

誰とでも「希望のボール」を投げ合うことはできませんが、投げ合える相手がひとりでもいれば幸せじゃないか、と今は思うのです。

 

 

『崖の上のポニョ』を観ると涙が出てくるのはどうしてなんだろう

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画像:「崖の上のポニョ」公式ホームページより。ダウンロード可の画像です。

映画『崖の上のポニョ』公式サイト

 

 

ホームエデュケーションの一環、ではないですが、最近のわがやは双子さんたちを中心に、スタジオジブリ作品を1日1回は観る生活になっています。

散々観てきたはずの長男も、なんやかやで一緒に観ています。

 

そんななかで、改めて感じた『崖の上のポニョ』についてのあれこれを書き留めたいと思います。

 

※ネタバレありですので、未見で結末を知りたくない方はご注意ください

 

 

 

 

 

スタジオジブリの映画はどれも傑作ぞろいです。

と書くと「太陽は東からのぼる」というほど自明のことを口にするマヌケさが際立ちます。

 

そのマヌケさを承知で書きますが、やはり傑作ぞろいです。

 

先日、スタジオジブリ作品の音楽をオーケストラと合唱団が演奏する番組を観ていて、終始「ああ、これもあったな」「外せない作品ばかりだなぁ」という感想で、その思いを強くしていたところです。

 

 

ポニョを1日1回観る毎日

長男が幼いころに、スタジオジブリ作品のブルーレイを買いました。

このときに、ほとんどの作品を揃えました。

 

いま、ニア3歳児の双子さんがそのブルーレイにはまっているところです。

『となりのトトロ』からはじまって、夫と長男の趣味で『紅の豚』『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』をはさみながら、現時点では『崖の上のポニョ』を1日1回は観ています。

 

わたしがいちばん好きなスタジオジブリ作品も『崖の上のポニョ』です。

 

お話としては、本当に不思議な作品です。

冷静に突っ込んでしまうと、モヤモヤするポイントがたくさんあるでしょう。

 

しかし、わたしにとっては、毎度涙をこらえるのに必死な作品なのです。

 

 

落涙ポイント1~オープニングの唄「海のおかあさん」

歌詞が描く世界、そして徐々に盛り上がっていく曲調、画とのシンクロ具合。

その3つがあわさって、ガツンと圧倒されます。

 

なんかこう、すごく大事なことをのっけから朗々と歌い上げられてしまい、「降参!」と言いたくなるというか。

 

この曲「海のおかあさん」の歌詞は、覚和歌子さんの詩集『海のような大人になる』(理論社)に収められている詩「さかな」がもとになっています。

作詞をした宮崎駿監督は、海の風景を描いた唄、海を舞台にした唄ではなく、「海そのもの」をうたった唄を作りたいと考えていたそうです。

詩「さかな」は見事に「海そのもの」を描いていて、宮崎監督は衝撃を受けたようですね。

 

わたしも、この歌詞に衝撃を受けました。

みんな「きょうだい」で「いっしょにくらしていた」ですよ。

「クラゲもウニもサカナもカニも みんなきょうだいだった」ですよ。

 

過去形なのがポイントですね。

今はそうじゃない、ということですから。

 

グランマンマーレが「わたしたちは(海の)泡から生まれてきた」と言いますが、すべての生き物は元をたどればそうだったわけで。

 

かつてひとつだったものが今はそうではない。

ここに宿る切なさと、すべてを身ひとつに宿していた海のおおきさを感じます。

 

ちなみに、歌っている林正子さんは、世界的に活躍するソプラノ歌手です。

すばらしい歌詞をすばらしい歌声で歌い上げられたら、そりゃ涙も出てくるというものです。

 

 

落涙ポイント2~ポニョがはじめて喋り、フジモトがポニョを取り戻す

ポニョがはじめて「そうすけ!」「ポニョ!」「ポニョ、そうすけ、好き!」と言葉を発します。

それを受けて宗介の瞳に、光がひとつ増えるのです。

ここでまず「うっ」ときます。

 

その後、フジモトの手下がポニョをさらい、宗介がポニョの名を呼びながら泣きます。

さらに「うっ」となる二段仕掛けになっています。

 

それにしてもフジモト、娘であるポニョからは「わるい魔法使い!」と散々な言われようですが、じつに愛すべきキャラクターです。

フジモトはすごく真面目で純粋で正しい人で、こりゃ煙たがられるなーというくらい原理主義的なんですが(今風なら環境マフィア的な?)、なかなかにおっちょこちょいなところが救いというか、チャーミングです。

手下たちも見た目はコワモテながら、失敗したり、ちょっとお間抜けだったりして、憎めません。

 

 

落涙ポイント3~ポニョがお魚の波の上を走る

宗介に会いに行くために魔法のふたを開け、嵐を起こしたポニョが、荒れ狂うお魚の波の上を滑るように走っていきます。

 

高らかに鳴り響く金管楽器の音と、緊張感とスピード感のある展開もあいまって、心を揺さぶられて結果、涙が出ちゃうんです。

 

 

落涙ポイント4~宗介とポニョを残してリサがひまわりに行く

子どもを残して母は行くわけですから、それだけで泣ける人は泣けますね。

「行かない」という選択をしても誰も責めないであろう状況です。

それでも「行く」という判断をし、そのことを誠実に説明するリサ。受け入れる宗介。

すごい親子です……。

 

 

落涙ポイント5~宗介がリサの車を見つける

乗り手の姿がなく、打ち捨てられたように停まっている軽自動車は、何かを暗示しているようです。

 

最終的にはみんな生きて再会するのですが、じつは一旦みんな死んでいて、ここは死後の世界なのではないか、とも感じられます。

この直前に、町の人が船団で「山の上ホテル」に移動しているシーンがありますが、天国へ行っていることを示唆しているように見えます。

 

リサがいないことに泣きだす宗介の涙で余計に泣ける。

また、ここで流れる音楽に胸を締め付けられるのです。

 

 

落涙ポイント6~宗介とグランマンマーレの会話

グランマンマーレに、ポニョが元はお魚であること、半魚人であることを知っているかと確認される宗介。

 

宗介は、一点の曇りもなく「お魚のポニョも、半魚人のポニョも、人間のポニョもぜんぶ好きだよ」と即答します。

 

これって、すごいことじゃないでしょうか。

 

この物語においては「魚」「半魚人」という表現ですが、果たしてどれだけの人が、「愛」をこのように言い切って表現できるのだろうか、と感慨深い気持ちになりました。

「どんなあなたも好きだ」ということですから。

 

実際に、お魚のポニョはトキさんには「人面魚じゃないか! 早く海に帰すんだよ。津波を呼ぶよ!」とあからさまに忌み嫌われています。

 

 

落涙ポイント7~グランマンマーレからポニョを託されて

ポニョの妹たちが高速で流れ、ポニョに祝福なのかお別れなのかを伝えにきているところから、金色の光とグランマンマーレの退場、「リサ、ありがとう」「あなたも、グランマンマーレ!」のシーンは圧巻です。

 

そしてラスト、陸に上がって自分からキスをして人間になるところも、最後の最後までポニョらしくて泣けます。

 

そこであの能天気なほど明るいテーマソングが流れてくるのですから、落差が大きすぎてカタルシスありすぎです。

 

 

多幸感あふれる食事のシーン

感涙ポイントではありませんが、ポニョが人間になって宗介のもとへ戻ってきて、宗介の家で過ごすシーンも印象的です。

多幸感に満ちていて、温かさと安寧を感じるシーンです。

 

ふかふかで真っ白なタオル。

はちみつを入れたミルク。(薄茶色に見えるのでミルクティーかもしれません)

ハムとゆで卵がのったラーメン。

 

この映画は、人間と自然の対立が示唆されています。

このシーンは、人間をやめたフジモトからすれば「愚かで忌まわしい生き物」でしかない人間の世界が持つ豊かさ、温かさを描いていて、「希望」を感じるのですよ。

 

不思議なことが起こり続け、嵐に飲み込まれそうになりながらも、この「嵐の中の灯台」においてはいつもの生活を取り戻そう――。

 

そんな健気さすら感じます。

 

 

ポニョがはじめて見る人間の赤ちゃん

ポニョと宗介がリサを探しに行く途中、船にのった親子3人に出会います。

はじめて人間の赤ちゃんを見るポニョの言葉、行動が興味深いです。

 

このシーンは、どうしてこんなに時間を割くのだろう、というくらい赤ちゃんをじっくり見せます。

そして、魚の生態にはない授乳を示唆する「おっぱい」についてのやりとり。

 

宮崎監督が見せたかったものは、何なのでしょうか。

装飾のない生命のすがた、原始から営々と続くいのちのかたちを見せたかったのかもしれない、と想像します。

 

 

リサというユニークな母親

自立していて、自由な精神を持っているリサは魅力的です。

しかし、母親としては珍しいタイプかもしれません。

 

・宗介に、名前で呼ばせている。

・宗介を乗せていても軽自動車(しかもマニュアル!)をかっとばす。

・宗介を子ども扱いしない。

・感情をあらわにする。(耕一が帰れなくなったシーンでの、光によるモールス信号「BAKA」連打は最高)

・こわがらない。(内心ではこわいのかもしれないが、立ち向かうほうを優先する)

・不思議なこと、ふつうではないことをまず受け入れる。

 

なぜ宮崎監督は、リサをこのようなキャラクターにしようと思ったのか、とても興味があります。

 

余談ですが、この映画がいいなと思うところのひとつに、

ポニョについて

「ポニョ。いい名前ね」

「ポニョは素敵な赤毛ね」

と肯定的に表現するシーンが複数回出てくる点があります。

 

お魚から人間になった特殊な存在であるポニョにこんな言葉をかけられるほど自由な心が、とてもすてきだなと感じるのです。

 

そういえば、『崖の上のポニョ』のキャッチコピーは「生まれてきてよかった。」です。

「肯定」の物語なんですね。

 

 

この保育園、いいなぁ

宗介が通っている保育園、保護者目線で見るとなかなかすごいんですよ。

 

まず、通う時にどうやら荷物がほとんどなさそうである点。

 

保護者の負担を減らそうとしてくれているのか? と想像します。

日本ではそういう園は少ないですが、フランスなどでは預けるときに何も持たせなくていい保育園があるようですね。

 

いろんな荷物を毎日毎日用意しなければならず、それに加えて「紙おむつが切れました」「ビニール袋がもうありません」「調理用エプロン持たせてください」「長靴持たせてください」「来週から毛布持たせてください」「泥遊び用の着替えを持たせてください」……etc.という荷物地獄の日本の保育園。

紙おむつ1枚1枚に記名しなければならない園もあります。

 

なぜ預けているのかを考えると、園で貸与もしくは有償支給してくれるととても助かるんですが……ねぇ。

 

さらに、宗介が登園するシーンで「熱が少しあるけれど機嫌はいい、おそらく0~1歳児」を「だいじょうぶでしょう」とこころよく預かる保育士さんが描かれています。

 

これも、普通の保育園では考えられない!

 

「病気をうつすんじゃないか」「体調が悪いときぐらい保護者が休め」と難色を示す向きもあるでしょうし、見極めがものすごく難しいところですが(下手すると責任問題に発展)、ここまで腹の座った対応をしてもらえると助かる保護者は大勢いるのではないでしょうか。

 

この保育園、全体的におおらかなんですよね。

保育園という場所はそのおおらかさがゆるさに変容し、事故を招くことも十分あり得るので、手放しに絶賛はできません。

それでも、このおおらかさに深いところで救われる保護者は多いだろうな、と思えてなりません。

 

スタジオジブリの保育園も、こんな感じなのかしら?

想像がふくらみます。

 

 

まったり観ることはできない

最初から最後まで息つく暇がない、畳みかけるような展開なので、観ると正直いつも疲れます。

少なくとも『となりのトトロ』のようにまったり観ることはできません。

 

双子さんたちの観方にもそれは表れていて、ふたりともすごい集中力でじっと観ているのです。

まあ、笑いのポイントは独特で、大人にはよくわからないところで笑っていますが……。

 

波や風の描写も圧巻で、アニメーターさん大変だったろうな……とつい思ってしまうのも、息がつけなくなる一因かもしれません。

デフォルメがすごく効果的で、自然のすさまじい迫力はそのままに、違和感なく表現できているのは、高度なチャレンジの賜物ですね。

 

ああ、とてもじゃないが書ききれない!

あれもこれもと語りたくなってしまいますよ。 

 

 

何度観ても泣けてしまう

子どものいる生活になってから、めっきり涙もろくなりました。

そのわたしでも、毎度涙がにじむ作品はポニョぐらいでしょうか。

(寝台特急「富士・はやぶさ」のラストランを収めたDVDも面白いように泣けますが、それはまた別の話)

 

まるで不思議な夢を見たあとのような感覚

観るごとに、その時点での自分の内面、成長を反映して違う面が見えてくる。

 

それは、無意識の深いところから汲み上げたもので作り上げられた作品にしか備わらない「力」ではないでしょうか。

 

子どもたちがどう感じているかはわかりませんが、この作品に限らず、スタジオジブリ作品が持つ「力」を体にしみこませてほしいものです。

 

きっと、生きる力になるから。

 

 

 

 

脱学校から4カ月経過 最近のホームエデュケーションどうでしょう?

 

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写真:夫dobiさんがつけている長男taboくんの「HE日誌」。6月1日からつけています。表紙に弟たちが落書きしています……。

 

 

脱学校から4カ月が経過しました。

手探りではじめたホームエデュケーション(以下HE)、最近はどんな具合でしょうか。

長男taboくんの学習を見ている夫dobiさんに、久しぶりに話を聞きました。

 

わたしたちは、不登校になって家庭学習を「する/しない」に正解はないという立場です。

 

大事なのは

・保護者の価値観を明確にする

・子どもに無理強いをしない

の2点をおさえたうえで、

・子どもと対話して子どもが納得して決めていく

ことだと考えています。

 

もちろん、不登校になった年齢によっても対応は違ってくるでしょう。

 

いわゆる勉強をまったくしなくとも、大人になれます。

そして、本人が納得してやること、本人が心から望んでやること以外は、本当の意味では本人の育ちに貢献しない、と考えています。

 

わがやは、わたしも夫も編集者だったので、水を飲むように書物(まとまった文章と言い換えても構いません)に触れてほしいと考えています。

(そうでない考え方があることも承知しています)

また、生涯学び続けることを楽しめる人になってほしい、と願っています。

 

よって、以下のようなHEのスタイルをとっています。

 

ただ、これも発展途上です。

今後、どんどんスタイルは変わっていくだろうし、それが当然だと考えています。 

 

その前提で読んでいただければ、幸いです。

 

 

 

 

HEに割く時間は当初の半分以下

 

 

――今は一日どれくらいHEしているの?

 

今は1日1時間弱かな。

下の双子たちが保育園に行くのが8時だから、そこから朝イチで1時間というスケジュールでやるようにしているよ。

お互い一日を勢いよくはじめよう、というイメージかな。

ほっとくとまったりしちゃうからね。

 

とはいえ、なんやかやで8時ちょうどにはじめられることは少ないかな。

 

 

 

――当初は2時間くらいやっていたから、半分の時間だね。

 

そうだね。

本人の集中力がそこまで続かないんだよね。

ぼく自身も、仕事や用事でそこまで時間が取れなくなっていることもあるな。

 

HEをはじめた頃は「さっさとやってしまおう!」と考えていたんだけど、うまくいかなくて。

本人にそこまで学習に対してモチベーションがあるわけではない状態だったしね。

今はシフトダウンする方向に考えがかわったよ。

 

 

 

――学習内容はどんな感じ?

 

まずは『ドラえもん はじめての論語』(小学館)の音読。

そして『うんこ漢字ドリル2年生』(文響社)で新しい漢字を2つやる。

そのあとは日によって違っていて、前日にやって苦労していた漢字のおさらいや、算数の計算、算数×国語のパズル、百ます計算プレの10ます計算をやったり、という感じだよ。

 

あとは、週1回は小テストをやるようにしているよ。

 

 

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写真:日誌の中身。毎日やった内容、かかった時間、taboくんの様子や感じたことを書いています。 

 

 

――論語の音読はけっこうやっているよね。

 

うん。本人も好きみたい。

ただ読むだけじゃなくて、意味や感じたこと、内容についてその場で話し合えるのがいいね。

本人も「これはどういうこと?」「こういう意味?」「たとえば〇〇っていうことかな?」と、どんどん思ったことを口にしてくれるし。

 

「とにかくやれ」よりも、話をすることが大事なんだとぼくも気づいてきたよ。

あとは、今は基礎の基礎だから、手を動かす、口を動かすという「身体性」が大切だね。

 

この間は、「線」という漢字を書いていたら「『線』って『糸』と『泉』でできているんだね!」と自分で気が付いていた。

字だって、丁寧に書くようにしていると、taboくんはいい字を書くんだよ。

 

 

本人から「科学もやりたい」とリクエストが

 

 

――算数はどう?

 

一時期いっしょうけんめいやったから、今はあまり心配はしていないよ。

あんなに苦労していた時計もようやく読めるようになってきたし。

今は、算数は1週間に1回もやっていない。

 

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写真:算数の小テスト。だいぶ時計が読めるようになってきたね。小テストの手作り感が泣かせる。 

 

 

 

――小テストはどんなことをやっているの?

 

ぼくが問題を作ることもあるし、市販のやつを使うこともあるよ。

小テストといえば、「科学の問題も出してよ」と本人からリクエストがあったね。

彼は今、動物や深海魚にすごく興味があって、NHKの「ダーウィンが来た! 生きもの新伝説」「ワイルドライフ」、特集番組をよく観ているんだよね。

観た感想を彼が話したいままに話させて、ときどき「絵に描いてみたら」とか「文章にしてみたら」というふうにつなげていっているかな。

 

小テストにも、記述式で動物の問題を出しているよ。

 

 

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写真:ブチハイエナについての問題。本人がイチからここまで書けたわけではなく、夫がいろいろ問いかけながらようやくこの長さになったそう。文章を書くというのは、やはり習練が必要ですね。 

 

 

反応が変わってきた

 

 

――taboくんに変化はある?

 

学習という意味ではあんまりないかな。

でも、前より反応がよくなったよ

前は勉強もそうだけど、ごみ出しをするとか、風呂掃除をするとかも、本人と話し合って納得ずくでやっているはずなのに、いちいち「えーっ!?」って言っていたんだ。

 

最近は、自分の生活にリズムとして組み込めるようになってきたのか、そういう反応がなくなってサッサとやるようになったよ。

 

かと言って、ぼくの顔色をうかがっているわけでもない。

リズムができてきたんだね。

 

 

 

――布団たたむのなんかも、言われなくても自分なりに考えてやっているよね。時間がかかっているから「どうしたの?」って聞いたら、「端と端をちゃんと揃えたいの!」と言われたなー。

 

そうだね。

 

 

 

――日によって学習量の増減はあるの?

 

しんどそうであれば量を減らしたり、思い切って休ませたりしているよ。

8月はHEも夏休みということで、ほとんどやっていない。

 

 

「勉強」という言葉は使わない

 

 

――そういえば、dobiさんは「勉強」という言葉を使わなくなったよね。

 

うん。

今は「学び」「学習」と言うようにしてる。

「勉強」という言葉はカバーする範囲が狭いと思うんだよね。

あと、ちょっとネガティブな色がついている言葉だと思うし、到達点が低いように感じるんだ。

「学び」ってもっと本質的なもので生涯続くことだし、その一生かかってやっていくことをやっているんだという気持ちだから、「学び」「学習」と言っているよ。

 

 

――dobiさんとtaboくんの関係は変わった?

 

もともと、ぼくのことをちょっと怖いと思っていたみたいで、それは変わらないかな。

ただ、ぼくは怖いところがあるとしても、怒るポイントは決まっていて、彼もそれはわかっている。

自分からやると言ったことをうやむやにしてやめたりすると、怒る。

 

 

 

――前に何かでtaboくんが、dobiさんへの信頼感をはっきり口にしたことがあったね。

 

そうだっけ?

まあ、毎日よく話をしているし、ぼくも「相手あってのもの」と思って接しているから、そこは信頼感があるのかな。

 

 

親子だけどあまりに違う個性

 

 

――はじめたころと、dobiさんも雰囲気が変わったよね。力が抜けたというか。

 

そうだね。

最初は「初等教育はこうやったらいいんじゃないか」という考えがあったんだよ。

でもそれは自分基準の話であって、taboくんにとってどうかという視点が抜けていた。

やってみて骨身に染みたけれど、ぼくとtaboくんはあまりに個性が違うんだよ

優劣じゃなくて、ただ「違う」ということね。

 

それから自分自身についても「知っているようで知らないんじゃないか」と考えるようになってきたね。

だから、当初抱いていた「読み書きそろばんなんてさっさと終わらせてその先に早くいけばいい」という考えは取らなくなってきた。

 

前は「学校と同じルートをもっと効率よく」としか考えていなかったけれど、そうじゃないルートのほうがよりよい場所へ連れていけるんじゃないか、と今は思っているよ。

 

本は読めるようになってほしいから、漢字の練習はオーソドックスにやらせるけれど、あとはいわゆる勉強とは違うかたちになってもいいと思っているよ。

 

学びは一生続くからね。

 

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当初は、夫もわたしもどこかで「勉強で遅れをとらないようにしないと」という思いがあったように感じます。

 

今は、ほとんど心配していません。

 

それは「学校の勉強に遅れない」という心配ではなく、「日々が学びなのだ」から、いわゆる勉強に血道をあげる必要はない、という意味においての心配していない、なのです。

 

「あらゆる場所が学校になり、あらゆる人が先生になる」のがHEで、そこがまさに醍醐味です。

 

生涯学び続けることを楽しみだと感じる人に育ってほしいし、わたしと夫も死ぬまでそうでありたい。

 

日々の生活がそうなっていくように、そして何より、家が長男にとって安心して過ごせる巣であるように整えていくことが、わたしと夫がいちばんやるべきことだと感じています。

 

保護者は友だちではないし、夫もわたしも在宅で仕事をしながら見ているので、彼の要求に100%応えられているわけではありません

それでも、長男が以前と比べてのびのびと、ストレスなく過ごしているのを感じます。

また、彼といろいろ話ができたり、ちょっとした成長を感じられたりするのはとてもいいなぁ、と感じています。

長男は名言(迷言?)をよく口にする子なので、それを聞けるのも楽しみです。

 

うれしいことに、夫のおかあさんも長男が不登校であることにまったく心配をしていなくて、信頼を寄せてくれています。

 

また折に触れて、わたしたちの手探りのHEをご報告しますね。