「ブルースカイ親の会」に行ってきたよ
写真:「ブルースカイ」の活動場所である、長野市の障害者福祉センター。調理室や体育館もあります。
不登校の当事者、保護者でつくる会「ブルースカイ(登校拒否を考える親と子の会)」に行ってきました。
「ブルースカイ」は平成2年設立ですから、もう27年活動を続けていることになります。
長野県内では古株なのではないでしょうか。
全国的な不登校ネットワークともつながりがあって、会報を出したり、イベントをしたり、積極的に活動を続けている印象です。
すでにお子さんが成人されている方も多く、たくさんの経験と知恵が蓄積している団体です。
とある方が、「ブルースカイ」で相談したところ、話をよく聞いてくれて、すぐに人を紹介してくれて本当に助かったと言っていました。
長野県で不登校支援の団体を調べていたときに、「ブルースカイ」の名前は真っ先に目にしていました。
そこで、一度行ってみたいと思っていたのです。
今回は、新しく来ていたのはわたしともうお一人でした。
気が付けば、こんなによくよく話を聞いてくれるのだと驚くほど時間をかけて話を聞いてくれて、似たような体験をされた方のお話も聞けました。
お子さんが3人いらして、ひとりは完全に不登校、ひとりは途中少し不登校、ひとりは学校に通いとおした、というふうにまったくちがう子育てを経験された方もいました。
以前に書いたように、わたしは今、「子どもを学校に戻せるようにしてほしい」とか「いじめを解決してほしい」とは考えていません。
ただ、
・学校から村の教育委員会へあがっている報告書を開示してほしい
・なぜ、証言の食い違いをそのままにして、解決を放棄したのか
・校長の態度がなぜ途中で変わってしまったのか
・担任はこの一件をどう考えているのか
・村の教育委員会としてはどう考えているのか
を知りたいと考えています。
同じようなことを考えて、学校 → 市の教育委員会 → 県の教育委員会に粘り強く要求を続けた方は、納得のいく回答が得られるまで数年かかったそうです。
回答が出るには出るのですが、満足のいく内容ではなく押し戻す……ということを繰り返さざるを得なかったのだとか。
行政相手ですから、途中で担当者が変わってしまうことも、なかなか満足いく対応が得られなかった要因だったのかもしれません。
最終的には、当時の県の教育長がかなり話のわかる方で、そのご家庭に対して「対応が悪かった」ことを認めて謝罪する文書を出したことで決着したそうです。
ここでもやはり「人」なんですね。
仕方のないこととわかってはいますが、それにしてもここまで対応が属人的だと「賭け」ですよね。
運が悪ければ、なかなか終わりの見えない闘いを強いられることになります。
ため息が出てしまいますよ。
また、スクールソーシャルワーカー(以下、SSW)の本来の機能、仕事内容も聞くことができました。
当事者それぞれに話を聞いて、問題を明確にし、調整しながら話し合いの場を設定して解決に導く手伝いをするなど、子どもを取り巻く環境に働きかけていくのがSSWの役割だそうです。
青木村のSSWは、すべてが終わってからはじめて出てきて、しかも仕事としては「社会資源の紹介」をするだけ。
本来の業務から考えると、きわめて限定的な動きしかしていないことがわかりました。
この親の会と同時刻に、同じセンターの別のフロアで子どもだけの集まりもやっていました。
子どもも親の会に出入りして話に入ってくることがあります。
不登校の当事者(子ども)の視点には、何度もうなずかされました。
お子さんとどう接していいか悩んでいる人には、ヒントになるかもしれません。
これも、この会のいいところだなーと感じました。
不登校は、本当に人それぞれなのだ、と当たり前のことをより強く実感して帰路につきました。
ひとりひとりが、知らない道、前人未到の道を切り拓いていく。
同じ道は、ひとつもない。
そんなイメージです。
わたしの大好きな星野源さんが「知らない」という歌をつくっています。
その歌に、こういう一節があります。
終わり その先に
長く長くつづく 知らない景色
さよならはまだ言わないで
物語つづく 絶望を連れて
不登校は、まさにこれ。
学校に行けなくなって人生終わったと思っても、その先にはまだ知らない景色が続いていく。
絶望は連れていくしかないけれど、でも自分の人生という物語は続いていくんじゃないかな……と。
(この曲は、幼い子どもを亡くした友人夫婦のために作られたようです)
そんなわけで、往復3時間かけて行った甲斐がありました。
来週は教育長とSSWとの面談です。
これまでの経緯と、こちらの望んでいることを文書にまとめなければ。
ため息を鼻息にかえて、がんばるとしますか!
不登校の子どもたち・親の集まりに行ってきたよ
写真:上田市創造館横の公園。アスレチックあり、芝生あり、木陰あり、東屋あり、幼い子向けの遊具ありで、かなり楽しめます。
料理ブログばかり更新していて、こちらと青木村ブログがずいぶんごぶさたになっておりました。
先週は、長男はいったん勉強はお休みして、好きなことをさせる1週間にしていました。
(夫の仕事が忙しかったこともあり)
ベイブレード、レゴ、ゲーム、デュエマ(カードゲーム)、外遊び、読書などを堪能しつつも、「退屈だー」とよく言っていました。
わたしは友人に誘ってもらい、上田やその周辺地域の不登校当事者、家族の集まりに行ってきました。
まずは、夜やっている母のおしゃべり会へ。
少人数で、特にテーマは決めず、お茶とお菓子でおしゃべりをします。
はじまって半年くらいだそうですが、半年前からくらべると、みなさんの雰囲気がだいぶ明るくなってきたそうです。
やはり、月1回であっても、安心して話せる場所があるのは大事なことなのだなぁ、としみじみ感じました。
お母さんが1人で奮闘しているケースもあるようで、それはそれでまた考える必要がある問題だと感じました。
日曜日の日中、子どもたちもいっしょに参加する集まりでは、体育館でバドミントンやビーチバレー、卓球などを思い思いにやりました。
やってもやらなくてもよし。
誘われてやる子もいれば、何もしない子もいます。
「やらなきゃいけない」という感じがないのが、とてもいいなーと感じました。
そのあとは、となりの公園でおしゃべり&おやつタイム。
「今度はどこに行く?」
「バーベキューなんてどう?」
など今後の構想が広がります。
大きい子どもたちはさすがに公園で遊ぶことはしていませんでしたが、うちの子どもたちは体育館でさんざん走り回ったあとなのに、さらに土まみれになって遊んでいました。
(おかげで、夜はよく寝てくれました)
長男と同い年の男の子もいて、同じようなテンションで交流していました。
小学校低学年の不登校当事者は少ないので、うれしい出会いです。
この会には、ホームエデュケーションで長らくやっていらっしゃる方もいて、その方から「ホームシューレ」の新しい体験記冊子をいただきました。
これ、ほしかったんですよ~。
うちがホームエデュケーションに興味を持ったきっかけが、この前の版だったのです。
20人ほどの不登校当事者・保護者の体験記がのっていました。
やはり、つながることは大きいですね。
家族で気を張ってやっていましたが、仲間はいないよりいたほうがいい。
心強いです。
いろんなケース、いろんな悩み、いろんな変化を知ることができます。
経験した者でなければわからないこともたくさんあります。
この集まりは、「みんなで仲良く」「わたしたちは仲間」みたいな同調圧力がなく、それぞれが出会う場として機能すればいいという雰囲気です。
主宰している方も「ちゃんとした会じゃないので」と言っていましたが、そこがいいなと感じました。
ほかにもいろんな会があって、「合う/合わない」があると思います。
そのときの自分に合う場所を見つけられるといいですよね。
というわけで、こちらの会にも顔を出しつつ、明日は長野市で30年以上活動を続けている「ブルースカイ 親の会」に行ってきます。
また、こちらでレポートあげますね。
「こどもSOSダイヤル」に電話してみたよ
画像:文部科学省のHPに相談窓口一覧があります。
長男が学校に行かなくなって1カ月が過ぎました。
その間、わたしも夫も、悲しみや怒りの波に繰り返し洗われています。
日頃は忘れているのですが、ふとしたときにやってくるのです。
保護者であるわれわれがここまで傷つくとは思ってもみませんでした。
発端が発端だったので戦闘モードになるしかなく、気を張っていた反動なのかもしれません。
学校の外へ出たことで得たものもたくさんあるけれど、
もう二度と戻れない、味わえないことがあるのも確かです。
「平凡な暮らし」の中にある「子どもが学校に通う」ことにまつわるあらゆることが、わたしたちの暮らしにはありません。
両方は選べない。
それは仕方のないことだし、だからといって学校へ通わせる気には到底なれないのだから、この道しかないという結論に毎度至るのですが。
こんなふうに、ときどきしょぼくれた気持ちになっています。
それから「どうしても知りたい」ことが日を追うごとにふくらんでいます。
・なぜ校長先生は証言の食い違いを解消しようとしなかったのか
・もっというと、当初の誠実かつスピード感のある対応がどうして失速してしまったのか
・担任は一連の経過をどう考えているのか
・学校から教育委員会にどのように報告がいっているのか
……はい、もうすでに保護者の心境ではないです。
ジャーナリスト的な「なぜ?」という気持ちです。
なんなら「自称ジャーナリスト」の肩書で取材したいくらいですよ。
もうひとつ、長男が大きくなって疑問を持ったとき、答えられるようにしておきたいということもあります。
わたしが長男だったら(という仮定はあまり意味がありませんが)、ゆくゆく振り返ったときに「どうして校長先生は、学校はぼくを助けてくれなかったんだろう?」と疑問に感じると思うのです。
先日、教育長とスクールソーシャルワーカーと面談して、村の教育委員会も機能していないことはわかったので、どうやったらわたしが知りたいことを知れるのだろうと思い、文科省の相談窓口に電話をしてみました。
「24時間こどもSOSダイヤル」です。
ひととおり話して出てきたアドバイスは
「学校に直接、そういったことを聞きたいと要望していただくしかないのでは」
予想はしていましたが、親身にサポートしてくれる窓口ではないんですね。
これはますます、取手市の教育委員会に文科省が直接指導したのはどういう経緯なのか、知りたいですね。
学校とやりとりするのはものすごく消耗するし、傷をえぐられるだけだからイヤだなぁ……というのが正直なところです。
今までの経緯から合理的に考えても、まともにやりとりできない可能性が高いだろうし。
なんで、いじめられたほうがこんなにがんばらないといけないんですかねー。
なんの罰ゲーム?
とりあえずは、文書にまとめて、次の教育長との面談のときに提示しようと思います。
村の教育委員会としてどう考えているのかも併せて聞きます。
続きはこのブログで書きます。
面談は6月27日。
括目して待たれよ!
嫌われてもいい、からの人を求める気持ち
写真:このブログを読んで、友人Nちゃんが白檀のお香を贈ってくれました。ほかにも、すてきな本を贈ってくれたり、その道の先達を紹介してくれた方もいます。 思いがけないことで、ほんとうに嬉しいです。大げさではなく、こういうときこそ、生きている甲斐があるというもの、と感じます。
この1か月の間に、いろんな発見や気づきがありました。
「あっ、わたしほんとうに、人に嫌われても構わないと思えるようになった」
という発見は、とても大きいものでした。
「人に嫌われたくない」一心で生きてきましたからねー。
おもしろいのが、一度「嫌われてもいい」と心底思えると、
・人とつながりたい
・人から認められたい
という気持ちが自分の中にあることを、はっきり感じられるようになったことです。
一見矛盾しているようにも見えるんですが、これらの思いはわたしのなかに矛盾せずに同居しています。
「人とつながっていたい」とか「人に認めてほしい」というのは、人がもつ、とても根源的な欲求です。
なんとなく、自分のなかでは、そういう気持ちには
・あさましい
・もの欲しそう
・甘えている
・貧乏くさい
という「ブレーキ」が働いていたように感じます。
ずいぶん厳しい「ブレーキ」で す ね……(苦笑)。
もちろん、今までもそういう気持ちがなかったわけではありません。
なかったら、いろいろまったく違うことになっていたはずなので。
でも、ここまではっきりと感じたことはなかった。
……で、だから何とか、だからどうってことはなくて、まったくもってただそれだけの話です。
まとまっていないですが、たまにはラフスケッチもいいだろうということでこのまま投稿してしまいます。
脱学校FAQ集 ~なんでも聞いて!~
写真:長男は、ここでよく外を見ながら読書したり、動画を見たり、ゲームをしたりしています。
「学校に行かせていません」
「家で勉強しています」
というと、みなさん不安そうな表情を浮かべられます。
学校へ行かないのは「極論」だと感じられるようです。
おそらく「学校へ行かない子ども」を身近に知らないからで、無理からぬことです。
ですので、今日はよくある質問(FAQ)に答えていきたいと思います。
ほかにもあれば、ぜひお寄せください。
どんな質問にも、包み隠さず答えます。
Q1. 学校に行かなくていいの?
A1. 行かなくても罰則などは一切ありません。
まず義務教育は「大人が子どもに教育を受けさせる義務」であって、
「子どもが教育を受けなければならない義務」ではありません。
教育は義務ではなく、権利です。
そして、その教育を受ける場が、学校(公教育)でなくてはならないとは規定されていません。
Q2. 学校に行かないと社会性が身につかないのでは?
A2. 社会性を身につける場はいくらでもあります。
そもそも「社会性を身につける」とはどういうことなのでしょうか。
集団生活に慣れること?
理不尽さとうまく付き合う術を身につけること?
誰とでも仲良くやっていくこと?
自分を抑えて、我慢強くなること?
だとするならば、社会性とはずいぶん貧相なものだと思います。
「学校=社会性を身につける場」という考えは、とても強いです。
学校では集団生活に重きを置いているから、その中で過ごすことで、社会に出て(という言い方もヘンですよね。誰しも生まれたときから社会の中にいるわけですから)荒波に揉まれても耐えられる人間になれる、ということでしょうか。
社会のなかで、どう身を置いていくか、またどう関わっていくかは、その人が決めることです。
外から「こうあるべき」と押し付けられるものではないはずです。
そう考えると、学校に行かないと社会性が身につかない、というのは思い込みに過ぎないと断言できます。
Q3. 転校やフリースクールじゃダメなの?
A3. 最初は考えました。
でも、長男が学校や学校的な場所を求めていないことがわかり、探すのはやめました。
転校しても公教育である以上教育方針は変わらないわけで、本質的な問題が解決するとは思えません。
これだけいじめが蔓延しており、学校や教育委員会の対応が問題視されている中で、
・またいじめに遭う可能性
・担任の先生(または学校長)によって対応が大きく違ってくる
といったことを考えると、これ以上学校に通わせるのは正直「ギャンブル」と同じだと思っています。
申し訳ありませんが、現状では、子どもを託す先としては不適切だというのがわたしたちの偽らざる気持ちです。
わたしたちが暮らしているエリアでは、小学校2年生でも通えるフリースクールは佐久まで行かないとありません。
車で片道1時間以上かかります。
以前からホームスクーリング(ホームエデュケーション)を知っていたこともあり、たまたま夫婦ともに在宅ワークという環境なので、決断は早かったです。
Q4. どうやって勉強をするの?
A4. 学校のカリキュラムは参考にせず、自分たちで考えて進めます。
年齢的には基礎学力をつける時期なのでそれはやりつつ、生活のなかに学びが詰まっているという目線で考えれば、なんでも勉強につながるし、だれもが先生になり得えます。
地球全体が、いや全宇宙が学校になりますよ!
本人の内からわき起こる「知りたい」という欲求をうまくとらえて、学びにつなげていきたいと考えています。
Q5. 子どもを家に閉じ込めるの?
A5. 閉じ込めもしないし、無理矢理連れ出すこともしません。
本人が行きたい場所があれば可能な限り連れていくし、わたしたち保護者の興味に付き合わせることもあります。いろんな人に会わせたいということは前から思っていたので、それは変わりません。
Q6. 友だちはいなくてだいじょうぶなの?
A6. 本人がどうしたいかによると思います。
いじめが発覚した当時は「もう青木村に友だちは作らない」と言っていました。
いじめそのものはもちろん、ほとんどのクラスメイトが助けてくれなかった、という絶望感が読み取れて、わたしと夫はかける言葉がありませんでした。それほど、つらかったのだと思います。
今は、近所に住むほかのクラスの子、学年の違う子と、夕方や休みの日に遊んでいます。
前からときどき遊んではいましたが、意地悪やイヤなことをしない関係性なので、自然と付き合いが続いているようです。
本人が望んでいればまた別なのでしょうが、友だちをもっと作りたいとは今のところ特に望んでいないようです。
わたしたちも、友だちは「数」ではないので、時間をかけて、自然と気の合う友だちが少しずつ増えていけば十分だと考えています。
「合わない人、イヤな人とも付き合えないとダメ」という考え方があるのは承知しています。
それが「自分を生かす我慢」だと本人が思っているのであれば、付き合えばよいと思います。
が、そういう関係は往々にして「自分を殺す我慢」ではないですか?
そういう「我慢」は、人生のあらゆる局面において一切しなくてよいと考えています。
Q7. 学校との関係はどうなるの?
A7. うちは原籍だけ残すかたちにしています。
学校を通じて配布されるお知らせ等については、今は週1回、教頭先生が持ってきてくださっています。
ですが、心苦しいですし、長男が先生方に会いたがらないので別の方法を相談したいと考えています。
PTAなどは脱退しています。
本人が学校に戻りたいと望めば、いつでもそのように動くつもりです。
不登校ってなんだ?
上:不登校児童数推移(文部科学省)。グラフは「家庭教師のジャンプHP」http://www.jump-japan.com/truancy/school-refusal-statistics.phpより引用
学校教育の総元締め、文部科学省によると
「不登校児童生徒」とは「何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しないあるいはしたくともできない状況にあるために年間30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたもの」
と定義されています。
ここから読み取れるのは、不登校の原因が生徒個人によるものと限定されていることです。
「社会的要因・背景」というところに、学校が原因であることも含まれていると強弁できなくもないですが、やはり違和感があります。
不登校に関係する調査として、「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」というものがあります。
2016年までで50回も続いている調査です。
この調査は、1966(昭和41)年度の「不登校」(注:当時は「学校ぎらい」と呼ばれていた!)に関する調査に端を発します。
不登校は日本の学校教育においてそれなりの歴史があるトピックであることがわかります。
とはいえ、公的にはずっと「問題行動」として扱われてきて、当事者からすると違和感・疎外感・隔靴掻痒(かっかそうよう)感だらけであることは、今も変わりません。
以下の記事に、その問題点が書かれています。
ぜひ読んでみてください。
不登校に対する世間のイメージは、まだまだネガティブです。
幸い我が家のケースでは
「子どもがいじめられて学校を休んでいる」
「学校をやめた」
と話したときに、
「それじゃダメ! 行かせないと!」
と言われることはありませんでした。
「休ませてあげて」
「今は別の道もあるから」
と声をかけてくださる方ばかりでした。
学校に通わせ続け、子どもが自らの命を絶つという事件が何度も報道され続けていることがあるのかもしれません。
日本の子どもの死因1位は「自殺」です。
(15~39歳において。10~14歳では「自殺」は3位。平成21年の厚生労働省のデータより)
つい最近も、茨城県取手市でいじめが原因で自殺した中学生について、取手市の教育委員会は「いじめの事実はなく、重大事態に該当しない」と言い続け、文科省からの指導で対応を180度改める、ということがありました。
大勢の犠牲の上でようやく、ということですから「人が死なないと変わらないのか」と苦々しい気持ちになるのが正直なところですが……。
もちろん、当事者や関係者のさまざまな活動も奏功して、見方が変わってきたこともあるでしょう。
亀の歩みかもしれませんが、確実に意識は変わってきていると感じています。
かくいうわたしですら、何も知らなかったときには不登校にネガティブなイメージを持っていたことを告白します。
不登校についてのニュース、当事者や専門家のインタビューなどを目にして、自分の考えを改めていきました。
ネットで「不登校 原因」と検索すると、
「問題行動」「いかに学校に戻すか」という観点が目立ちます。
それを見ていると、本人というよりは、保護者(大人)の不安が大きいように感じます。
学校に通わなくても、ぜんぜんだいじょうぶ。
当事者も関係者も、そしてそうでない人も、心からそう思えるようになってほしい。
その思いを燃料に、書いていきます。
別ブログ立ち上げました
『すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論』(堀江貴文・著)を読んだよ
写真:光文社新書は「おっ!」と手を伸ばしたくなるテーマが多いな、とかねがね感じていましたよ。
久しぶりに書店へ行き、ベストセラーの棚を見ていたら「脱学校」とあるではないですか。
「おっ?」と思って手に取ると、堀江貴文さんの著書でした。
直感的にこれは今読むべき本だナと思い、買いました。
新書なので3時間かからず読み切れます。
が、内容は濃厚かつ本質的でした。
印象に残ったポイントをいくつか。
・学校とは、産業革命時のイギリスで「使いやすい労働者」を大量生産するために生まれた
……だから日本でも戦中や高度成長期にはあまり違和感がなかったが、低成長の時代になっても続けるのは社会的損失が大きいし、人権的にもおおいに問題アリ。
・現在においても日本の学校は、軍隊式がまかり通っている
……「行進」とか「前にならえ」とか本当にイヤだったよ。あれって軍隊だよね? 学校は「戦争はいけません」って教えてたけど、軍隊式はOKって矛盾してないかオイ。
・教科書を国家が検定するという制度自体、先進国の中ではまれ
……1903年から終戦まで続いた国定教科書制度の考え方が今も続いている。軍隊式の管理法が続いているのと同じか。
・「禁止」で生徒を縛るのはもっとも低コストな教育手法である
……もっと言えば「禁止+体罰」がいちばん低コスト。頭を使う必要がなくて、恐怖で支配できるからね!
・没頭する力
……自分の内側からわき起こる「これがやりたい!」にはかなわない。この力は誰もが持っているもので(この力がなかったら人は生きられない)、長らく使っていなくてもいつでも蘇生する。つまり「選ばれた人」「一握りの天才」の特権ではない。
・逆算しない
……「仕事として成立するかどうか」から考えていくと、発想が痩せて身動きが取れなくなる。
・「いざという時」の正体は戦争
……日本は現預金の比率がとても高い。それは戦中に戦費を確保する手段として貯金が奨励されたことがきっかけで、今もそれが続いているだけ。
・過去を再利用しない
……今までの経験、すでに持っているスキル・資格でこれからを考えるとやれることが限られるし、なにより「自分がやりたいこと」「好きなこと」とイコールとは限らない。「今」自分が何をしたいか、何が好きかに注力したほうがフィールドは広がる。
・「(会社を)辞められるわけがない」は嘘だ
……辞めたいなら辞めればいい。
……書き出していると本の内容をすべて書いてしまうことになりそうです。
新書は、同じ内容が何度も出てきて内容が薄いなーと思うことがありますが、この本は隅から隅までみっちり詰まっていました。
そもそも、堀江さんが教育をテーマに本を書いたのは
「ほとんどの人は、何かを読んで感銘を受けても行動には移さない」
ケースを嫌というほど見てきたからだそうです。
「思い切って動きたいけど動けない人」は、
アクセルを踏んでいないか(=マインドセットがわからない)、
ハンドルの操作法(=働き方・稼ぎ方)がわからないから、
と想像していたとか。
が、あるときに「アクセルは踏んでいる。でも同時にブレーキもベタ踏みしている」から「動けない」ことに気付いて、
根本にあるのが「(学校)教育」という「洗脳」だと気付き、
その「ブレーキの外し方」を解き明かすためにこの本を書いたそうです。
「洗脳」はなにやら恐ろしげな色がついた言葉です。
しかし「すべての教育は洗脳だ」ということは事実です。
知らないことを教えていくというのは、そういうことです。
とするならば、わたしたちがフォーカスすべきは、
「洗脳! コワイ!」では断じてなくて、
洗脳になるからこそ「本当の意味での学びとは何か?」を実社会に落とし込んでいくことではないでしょうか。
日本において「脱学校」が意味するところは、「脱会社」であり、「脱家庭」であり、「脱国民国家」までつながっていきます。
「国家」が「国民」に求めるのは「国家のために働く(戦時なら兵士として戦う)」「人口を増やす(出産)」「納税」です。
「国家」というフィクションを成り立たせるためには「学校」「家庭」「会社」が不可欠だということになります。
インターネットが浸透した社会は、「国家」というフィクションの意味や価値が解体していきます。だから、「学校」「家庭」「会社」の意味や価値も解体していく……。
このあたり、もともと詳しい人からすると「あったりまえ」の話なのかもしれませんね。
しかし、脱学校を身近に経験した今のわたしからすると、この意味するところがビシバシ響いてきますね。
この本の中で、
「G(グローバル)人材」
「L(ローカル)人材」
「N(国家)人材」
という3つの方向性が書かれていました。
この方向性は、堀江さんが指し示している近未来予想図(すでに現在進行形か)をイメージしやすいんではないかと思います。
興味のある人は、ぜひ読んでみてください。
堀江さんの本(ほかの本でも!)を読んで感銘を受けた人みんなが行動に移せば、世の中は劇的に変わると考えている堀江さんは、ロマンチストだと感じました。
ロマンチストとリアリストは、1人のひとのなかで矛盾なく共存できる。
両方の手綱を手放さない人が、大小関係なく世の中を変えていくのだと思います。
ホームエデュケーション生活が1週間経ちました<後編>
上:長男がiPadで描いた絵。水と炎の戦いだそうです。
ホームエデュケーション生活が1週間経った我が家。
夫(どびさん)へのインタビュー、後編をお届けします。
――最初に「学ぶことへの渇望感」という言葉が出てきたけど、そこをもう少しくわしくお願いします。
長男は、学校でいじめがあったり、先生への不信感があったりで、学校はつまらないという感覚がしみついている。
その悪影響なのか、本人の性質なのかはわからないけれど、何かを勉強するということに対して興味や欲が見えないんだよね。
「できた! もっと先に行きたい」という感じはまったくないから、それではとこちらから与えると「めんどくさい」になってしまう。
今やっていることは基礎の基礎だからどうしても魅力に欠けるし。
興味や欲を引き出す何かをぶつけないと、「これだ!」という手ごたえは得られないかもしれないな……。
まあ、ぼくが近道を狙いすぎているのかもしれない。
基礎は最短でとっとと済ませて、本人の興味のあることを広く深く掘っていく……というふうに持っていきたいんだけどね。
――教科書は使わないの?
使わない。
学習指導要領にのっとって勉強を進める気はないから。
それに、今の教科書は、素人目にもあまりよくできていないように感じるなー。
特に算数。
教科書だけでは予習もできないようなつくりになっているんだよ。
読み物っぽくなっていない。
――国語・算数以外の教科は?
長男は図画工作が好きだよね。
午後の時間は、そういうこともやりたいと思っているよ。
図工、音楽、体育は、学校から離れたほうがもっと面白くやれるんじゃないか、と期待はしてるんだ。
自分自身「もっと系統立った知識があるとより楽しめるのにな」と前から感じていたから、いっしょに楽しんで学びたいな。
本人の興味が向かう先を見るのにも、こういったジャンルはいいかもしれないね。
――HEをやっていて見えてきた長男の個性ってある?
納得しないと絶対に前に進めない人。
「父ちゃんが一生懸命やってるから、しゃーない、付き合うか」と譲歩してくれるときもあるけど、それはやっぱり長続きしないねー(苦笑)。
――HEを実践してみての感想は?
うーん、万人に通じるとは思えないなー。
完全オーダーメイドだから。
下の双子もまたぜんぜん違うことになるんじゃないかな。
結局、年長者がどれだけ手を抜かないでやるかが問われるんだよね。
じつは、やる前は「仕事の片手間でできるか」と気軽に考えていたけど、そうは問屋が卸さなかった(笑)。
まだ7歳だし、「これやっといて」じゃぜんぜんできない。
時間をはかったり、漢字の書き順を見たりと、手と目をかけてやらないと意味がないし、本人も納得しない。
年長者が真面目に取り組まないとできないなー、と痛感しているよ。
だから、人にはおいそれとすすめられないかな。
ただ、すごく贅沢なことをやっているという実感もあるね。
試行錯誤しながらできるのはおもしろい。
まあ、自分ができなかったことをHEでうまいことやれるかもな、という色気もあるんだけどね(笑)。
*********************
いかがでしたでしょうか。
あくまで、どびさんから見てどうか、という話です。
しかもハウ・ツーではないので、あまり参考にはならないでしょう。
それでも、学びの本質に触れるところがチラッチラッと垣間見えるなー、とわたしには感じられました。
お世話になっている方が「凡事徹底」という言葉を贈ってくださいました。
地味なこと、地道なことを徹底してやることは難しいです。
でもそれをやり通すと、思いのほか遠くまで行けるようです。
長男は
・わりとなんでもすぐできてしまう
・でも、できないとあっさり諦める
というところがあります。(わたしに似ていて、見ててつらい……)
短所を無理に直す必要はないけれど、「やり通す力」は人生においてやっぱり大事なスキルだよなぁ……とも思っていて、そこは課題のひとつだと感じています。
あせらずたゆまず、3人4脚で楽しくやっていきますね!
ホームエデュケーション生活が1週間経ちました<前編>
写真:漢字の書き取りやっています。
我が家のホームエデュケーション(以下、HE)は夫(どびさん)が中心になって進めています。
どびさんは、やる気があり、勉強の意味も勘所もよくわかっているので。
わたしは大学時代に小学生の家庭教師をやりましたが、あまりに教えるのがヘタでトラウマになっています……。
どびさんに、インタビュー形式でこの1週間を聞いてみました。
長いので、前編・後編に分けますね。
――1週間経って、どう?
時代の違いなのか、個性の違いなのかわからないんだけど、
学ぶことに対しての渇望感が、自分の経験と照らし合わせると違っていて、戸惑いがあるね。
刺激(ゲーム、本、マンガ、アニメ……etc.)がたくさんあるので、なかなか気持ちが向かないのかな。
40年以上前とは明らかに違うという印象だな。
――40年以上前に小学生だったどびさんは、学校や勉強をどう感じていたの?
ある種の修行みたいに学校に行っていたよ。
「これをやらないといけない」は、親や教師だけでなく、子どもも共通理解としてあったように思う。
それと、今は学校での教え方もぜんぜん違うよね。
何度か長男の授業参観に行って、今はクラス全員をどう参加させるかに腐心していると感じた。
退屈な子はずっと退屈なまま強制的に参加しなければならないから、スポイルされちゃうよね。
ぼくは、春休み前にもらった次の学年の教科書を、春休み中に全部読んでいたの。
だから、授業が退屈になりがちなんだけど、そのときは次に習うところを読んだり、それにも飽きると落書きしたりして、しまいには怒られていた(笑)。
そんなふうに、こっそりだけど参加しない余地があったんだよね。
今は、そういことができる感じじゃないよね。
――どんな感じでHEを進めているの?
午前中は座学。
国語は「漢字の書き取り」「音読」、
算数は「計算」と「時計」だね。
午後は日によってそれぞれかな。
図書館や書店に行ったり、川で遊んだり。
休みの日はふだんの勉強はお休みにして、日記だけ書かせているよ。
――ではまず、国語から。
長男は漢字の書き取りが好きじゃないから「イヤなことを先にやろう!」と話してまずここからやっている。
教材は「うんこドリル」ね。まず1年生のをやってから2年生。
写真:たしかに例文はヤバいです。
「うんこドリル」はよくできてるねー。
例文の面白さが注目されがちなんだけど、
仲間の漢字を一気に覚えるようにできているんだ。
学校だと、まず文中から習う漢字をひろって……というプロセスだから、やや非効率なんだよね。
ただ、「うんこドリル」の例文は面白いけどかなり品がない(笑)。
本人は喜んで音読しているけど。
問題は、ドリルをなぞって書いているだけでは足りないところかな。
漢字の書き取りは回数をこなさないと覚えられないから、漢字練習帳に書かせているよ。
長男には、そこでまたぶうぶう言われるんだけど。
「手で書く」「声に出して読む」というアナログなやり方を今は大事にする時期だと思っているよ。
音読にしても、押し付けはしないけど、でも「こういうのがあるよ」というふうに、長男の感性にフィットすればいいなと思って教材を選んでいる。
音読の教材は、児童文学という枠に限らないで選びたいね。
大人が本気で作っているものをぶち当てたい。
たとえば宮沢賢治にしたって、子ども向けに書いていたわけじゃないと思うんだ。
写真:福音館書店から出ている『にほんご』。谷川俊太郎、大岡信、安野光雅といった当代きっての日本語の使い手が試みに作った国語教科書。
――算数はどうでしょう。
算数は、百ます計算のプレ版みたいなやつを1日1ページ。
さらに、2年生の2ケタの足し算・引き算、そして時計ね。
それぞれにドリルを1冊用意して、こちらも1日1ページ。
1日あたり、合計3ページだね。
百ます計算は、実は7日間まったく同じ計算が続くの。
時間をはかるのがミソ。
計算自体は簡単なんだけど、時間をはかるから集中度合いがダイレクトにわかる。
これがノってこないときは、他の勉強も調子がいまひとつだね。
バロメーターになっておもしろいよ。
百ます計算は「完答する」と「タイムを縮める」というふたつの達成感があるから、できる子とできない子の差をうまく埋められるんじゃないかな。
青木小学校でやっていた「花まる学習会」の教材と似てるね。
長男は、引き算がだいぶ苦手みたいだね。
そして「時刻(点)」と「時間(量)」の概念が飲み込めていないみたい。
2ケタの計算がスイスイできないと理解が進まないかもな。
国語と算数をミックスしたようなパズルのような問題集は面白がってやっていたな。
写真:国語は論理的思考力を養うので、算数との食い合わせは存外いいのかもしれません。文系・理系で分ける考え方が根強いですが、それもとっぱらったほうがよさそうですね。
――なかなか苦戦していますね。昨日も長男とふたりで話し合っている声が聞こえてきましたが。
本当は、国語と算数は1時間くらいでさっさと済ませて、毎日ワンテーマで何かやる、というふうにしたいんだけど、国語と算数で昼までかかっちゃうんだよね。
「これだけはやらないといけないよ」ということは、感情的にならずに言い続けるしかないよね。
大人は一通りやっているから「これが必要だ」とわかるけど、今まさに学んでいる本人にしたら、苦行をやらされているような感覚になるのも無理はないかな。
ひとつのことを長時間はまだ難しいから、面白いことをはさんで切り替えポイントを作って、気が散らないようにすることを心がけているよ。
(後編につづきます!)