まだ学校で消耗してるの?

2017年5月より小2長男・脱学校につき、家族で「学校のない生活」を模索中

中間教室に行ってみたよ

ずいぶんごぶさたしております。

 

 

「あ、これ書きたいかも!」というテーマはちょこちょこあったのですが、いかんせんわが家の脱学校生活に変化がないもので、なかなか書けずにいました。

 

 

taboくんはゲーム、読書、アニメやテレビ番組鑑賞、書店や図書館へ行くなど、基本的にやりたいことをやりつつ、少しずつ家の手伝いもやる毎日です。

夏の間は、村営プールによく通いました。

いわゆる学習的なことは一切やっていません。

(ときどき夫が抜き打ちで九九を振って本人焦る、というようなことはありますが)

 

 

そんな暮らしに少し変化があったので、久しぶりに書きます。

 

 

 

 

 

中間教室に子どもを通わせている人に会う

taboくんと同学年で学校に行っていないお子さんのお母さんと、先日ばったり会いました。

そこのお子さんは、車で1時間以上かかるフリースクール的な場所に通っているという話までは聞いていたのですが、その後どうなっていたかは知りませんでした。

 

 

聞けば、上田市内の中間教室に通っているとのこと。

非常にフィットしてほぼ毎日のように通っていると聞いて、「よかったなぁ」と嬉しく思いました。

 

 

中間教室って何? ですよね。

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写真:古いけれど居心地はなかなかです

 

中間教室というのは、どうも長野県内独特の用語のようですね。

上田市では「ふれあい教室」と呼ばれています。

佐久市だと「チャレンジ教室」だそうです。

(いや、別にチャレンジしなくていいんじゃないかな……と思うのはわたしだけ?)

 

おそらく全国的には、「適応指導教室」というような名前で呼ばれているのではないでしょうか。

(適応指導……この名称も凄まじいものがありますね。いや、別に適応しなくてもいいし、指導されなくてもいいんじゃないかな、と思うのは<以下同文>)

 

 

 

「上田市中間教室設置要綱」から引用すると――

小・中学校の不登校の児童生徒を対象に、学校復帰に向けて集団適応指導、学習指導、教育相談等(以下「適応指導等」という。)を行うことを目的として中間教室を設置する。

 

とのことです。

 

「学校復帰に向けて」と明記されていますね。

中間教室のことは、taboくんが学校に行かなくなってすぐのタイミングで、知ってはいました。

が、「学校復帰に向けて」という点がtaboくん本人も、わたしたち保護者も求めていなかったので、早々に選択肢から外していました。

 

 

 

「学校復帰」は過去の話?

 実際に行っている人の話を聞くと、教室によって違うということがわかりました。

これは推測ですが、「学校復帰を第一にしない」と文科省が通達を出したので、その影響もあるのかもしれません。

いずれにしても、現場の運用では学校復帰が最終目標になっていないのはとてもいいことだなと思いました。

 

教えてもらった話に加えて、こちらでも調べられることは調べてみました。

 

本人も、テレビ番組『ウワサの保護者会』の不登校スペシャルで、オルタナティブスクールやデモクラティックスクールの様子を見て、「こういう感じなら行きたい」と言っていたので、「暇つぶしになりそうだから行きたい」とのこと。

(暇つぶしって……すごいなオイ。そんな君を誇りに思うぞ)

 

 

結局は見学に行かないと何とも言えないということがすぐわかり、村の教育委員会経由で見学を申し込みました。

 

 

そして、上田市内にある中間教室5か所のうち、通えそうな3か所の見学に、夫とtaboくんで行ってきました。

 

 

わたしも同行する予定だったんですが、三男が風邪をひいてしまい留守番と相成りました。

そんなわけで、側聞レポートになってしまうことをお許しください。

 

 

 

自然豊かなA教室 

まず、自然豊かな場所にあるA教室から。

通うとしたらわが家からはちょっと遠いのですが、自然の中で過ごすのが好きなお子さんにはたまらないロケーションです。

 

中間教室の建物はログハウスで、なんと薪ストーブがあります。

かつて石油アレルギーのお子さんが通っていたそうで、それで薪ストーブなんだとか。

 

そこまで配慮してくれるのは、すごいですね。

(学校だったら、そこまで配慮してくれるだろうか……)

 

ただ、スペースはとても狭いので、通う子どもが複数いて別々のことをやりたいとなると多少配慮が必要になりそうです。

 

 

 

いちばん近いB教室 

次は、わが家からいちばん近いB教室。

ここは地域の公民館のような建物を流用しており、大きい部屋と小さい部屋がひとつずつあります。

 

ここも、A教室と同じで、決して広いとは言えないので、お子さんによっては過ごしにくいと感じるかもしれませんね。

 

しかも指導員の方に「慣れたら学習に持っていきたい」的なことを言われたそうで、わりと学習系の教室なのかなと夫は感じたようです。

とはいえ、わが家の方針を伝えたら、それはそれで尊重してくれる雰囲気だったことも付け加えておきます。

 

 

 

元保育園のC教室

最後に、上田市中心部に近いC教室。

こちらは保育園だった建物を流用しており、スペース的にはかなり余裕があります。

部屋がいくつかあり、ホールや園庭もあるので、いろんなことができます。

 

ホールには卓球台が2台とバレーボール用のネット、園庭にはバスケットボールのゴールが1つあります。

 

はっきり言ってかなり古いですが、少し変わった設計で、開放感があって不思議と居心地のいい建物です。

taboくんが東京で通っていた保育園もかなり古い建物で、同じようなほっとする感覚がありました。

 

taboくんは、この教室がいちばん気に入ったようです。

その理由は、開放感とマンガ本があること。

本棚の漫画『ドラえもん』を読みふけって、「そろそろ行くよ」と声を掛けられるまで夢中になっていたようです。

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写真:本棚に並ぶ漫画は、昭和世代にはグッとくるラインナップです。わたしが小学生の時に読んだ伝記物まで! 懐かしいなぁ

 

 

 

「その子に応じた対応」 が原則

今回、案内してくださったのは上田市の教育相談所の方でした。

わたしは電話で話しただけですが、とても穏やかで誠実さのにじみ出る、話しやすい方でした。

相談しやすい雰囲気です。

 

 

各教室ともそれぞれに環境、施設、指導員の個性によって毛色は違うものの、一貫しているのは「その子その子に応じた対応をする」という点でした。

開室時間が決まっているとか、上履きは履いてねとか、合理性のある最低限のルールめいたことがあるだけで、いわゆる校則的なことだとか、指示が出るといったようなことは一切ありません。

 

過去には、ずーーーっとゲームをやっているお子さんもいたとか。

 

これって、すごくないですか?

 

形式的には、ほぼほぼフリースクールと同じなのですから。

(フリースクールとは成り立ちや目的が違うので同一視はできませんが)

しかも、公設ですから無料で通えます。

 

 

 

なぜこんなに「学校」と違うのか?

いわゆる学校とあまりに違う、それもグラデーションを感じさせる違いではなく、ほとんど異次元と言っていいほどの違いです。

 

見学に行った夫は驚いて「学校の感じと中間教室の感じにあまりに隔たりがあるんですが、どうして学校はあんな感じなんですか?」と聞いたそうです。

(夫らしい質問だ……)

すると、「学校は学習指導要領に則って運営されているからです」と答えが返ってきたそうです。

 

中間教室を学習指導要領通りにやろうとするのは不可能です。

だから、おのずと違いが出てしまうのでしょう。

 

学校に行けない/行かないということに対して、考え方がだいぶ変わってきたということの証左なのかもしれません。

不登校が「問題行動」としか考えられていなかった時代には、ここまで自由な運営はできなかったのかもしれないと想像します。

 

 

①大勢に効率よく

②極力地域差・教員による差が出ないように

教育を施すとなると、学習指導要領が存在する意味もあるのかもしれません。

 

が、「教育とは何か?」を突き詰めて考えていくと、現場の裁量が少なく、子ども個人のモチベーションや個性といった面倒な変数はとりあえずカウントせず、学習指導要領に頼らざるを得ない教育というのは、かける労力の割にアチーブメントは少なく、何より教育の本義からかけ離れていくような気がします。

 

高度経済成長期で、ある程度の教育が備わった人材が大量に必要だった時代にはこのような教育も意味があった……という言説も、検証が必要なのではないかと思います。(学術的に検証している方がいたら知りたい)

 

そもそも、「人材」という言葉自体がどうなんでしょうか。

人間は、じゃがいもや人参のようにおとなしくカレーになってくれるわけでもなく、文句も言わず家の一部になってくれる材木でもないのですから。

 

 

 

居場所が増えるに越したことはない

見学に行ったその日に、教育長に連絡を取って体験通所(?)を申し込みました。

翌朝には教育長から折り返し連絡があり、いつからでもどうぞということだったので、さっそくC教室に連絡をとり、その日の午前中から通うことになりました。

(青木村の教育長は仕事が早いのです)

 

 

今のところ2日通いましたが、本人的には満足みたいです。

taboくんは「フリースクール」と呼んでいますが、まあそこはご愛敬ということで。

保護者としては、行きたいという限りは、行かせられるようにサポートしていきたいと思います。

 

 

中間教室に通うことになったというと、「よかったね!」と言ってもらえることが多くてありがたいのですが、もしかしたら「よかった」の意味合いが少し違うかもしれない、とも感じています。

 

 

わがやでは、居場所が増えるに越したことはなかろう、という感じでしか捉えていなくて、本人が望むならばずっと家で過ごしていても一向に構わないのです。

学校の代替物、「通学」できる場所ができてよかった、とは考えていません。

 

 

それにしても、上田市の中間教室がここまで縛りのないかたちで運営するに至った経緯には、大変興味があります。

教育委員会に取材しようかしら。

 

 

また新たなお話を聞けたら、こちらでレポートいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不登校に悩む人、必読!『ありのままで ~しあわせな不登校のすごしかた~』(無料配布)が手元に届きました

わたしは、Facebookオンラインサロン「お母さんのがっこう365」に入っています。

 

《お母さん》とついていますが、お母さんだけでなく、お父さんでも、また不登校などに関心のある大人も入ることができます。

 

 

その主宰者の吉田晃子(よっぴー)さん、星山海琳(まりん)さん母娘から、すてきな冊子が届きました。

 

 

それがこちら↓

 

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喫茶店で読んでいたので、紙ナプキンを細くちぎってしおり代わりにしました。 右どなりの丸い紙は、よっぴーさん・まりんさんからのお便りです。とても素敵でした♪

 

 

この冊子は、NPO法人自由創造ラボたんぽぽがクラウドファンディングを募って作成し、なんと無料配布しているものです。

不登校や教育について、いろんな方が寄稿しています。

 

https://labotanpopo.wixsite.com/labotanpopo

 

 

本文部分は著作権の関係で許可が必要なので、目次だけ……。

 

 

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さっそく、読んでみました。

 

 

まず驚いたのは、不登校まわりや関連領域で活動している人がこんなにも大勢いるということ。

みなさん草の根的に、自分ができること、やりたいことをやっています。

なんだか、それだけでも心強いですよね。

 


このバリエーション豊かな文章の中から、わたしの印象に残ったところを紹介していきますね。(敬称は省略します)

 

 

 

「あなたはあなたのままでいい」前川喜平(前文部科学省事務次官)

 

前川さんは、「学ぶ」ということ、「大人になるために必要なこと」を平易な言葉で語ってくれています。

 

誰かから話を聞いて「へぇ~」と思うことがあったら その分、

あなたは気づかないうちに

たしかに賢くなっているんです。

(中略)

ゆっくり、自分のペースで、

学びたいところで、学んでいけばいいんです。

あなたが学びたいように学んでいけばいいんです。

 

短い詩のような文章はさらっと読めます。

「ふ~ん」と流してしまいそうなくらい、シンプルな内容です。

 

わたしには、長男のふだんの姿が自然と浮かんできて、ああ、本当にその通りだなと感じました。

 

学ぶことについて言葉を尽くそうと思えばいくらでも尽くせるのだろうけれど、煎じ詰めればこれで済んでしまうんですよね。

そんなことに気づかされました。 

 

 

 

「白いご飯を食べられなくても行きていける!」田中洋輔(NPO法人D.Live代表理事)

 

白米が嫌いな力士・炎鵬関の話を枕に、これはまるで不登校と同じだと語っています。

 

「日本人なら白米が好き」と疑いなく考えてしまいますが、炎鵬関はそうではない。

 

田中さんは

 

僕は、「学校」は白米と同じだなと、思う。

みんな行って当たり前。みんな食べて当たり前。

(中略)

しかし、僕は思うのだ。

別に白米が食べられなくてもいいじゃないか、と。

(中略)

なにを食べても良いように、どこで学んでもいい。

 

 

と綴ります。

 

こういうアプローチは、ドキッとしますね。

 

ちなみに、ワインが飲めないフランス人もいると聞いたことがあります。

 

白米が食べられなくても、ワインが飲めなくても、そのことだけで困ったことになるわけじゃない。

食べ物はほかにあるし、飲み物もほかにある。

学校に通うということも、同じではないかと問いかけてくれます。

 

 

 

「ホームスクールという選択肢があることの素晴らしさ」ベンソン(進士)万里子(カナダ在住)

 

ベンソン家には3人の子どもがいます。

カナダはブリティッシュコロンビア州内で引っ越したときに、長男が通う学校の教育方針、教育スタイルが変わってしまったことをきっかけに、ホームスクールという選択肢を選んだ一家です。

 

これが、日本しか知らないわたしのような人間からすると、いやもう夢の世界!

 

引っ越し前のソルトスプリング島のプログラムがすごい。

幼稚園~小5くらいまでを対象として、自然学習にアカデミックな要素(読み書きなどの基礎学力)を盛り込んだ、日本で言えば「森のようちえん」をお兄さん・お姉さん向けにしたようなプログラムなのです。

(このプログラムは<MYSEEC=Middle Years Shared Ecological Educational Centre>というそうです)

 

担任の先生が、自分のことを母鷲(マザーイーグル)に例えて、マザーイーグルが羽を広げたらすぐに彼女の前に集まるようにささやきます。

実際に、先生が腕を広げたら、騒いでいた子どもたちは静かになって、先生を囲んで座り、さまざまな物語に耳を傾ける……。

 

詩的ですね。

これだけで、ため息が出ます。

 

 

が、引っ越し後のペンダー島では日本と同じような教育方針で、長男くんは退屈しきってしまいます。

 

私たちは、子どもの読み書き能力などは、子どもの好奇心、または学びへの意欲が出てきたときに、ほぼ自動的に、かつ、深いレベルで浸透し、身につくものとして理解していた。一方で、担任の先生は、早期に基本的な学力をあげることに集中することで、より効率的な学習ができるという、いわゆる古典的な教育方法を実践していた。

 

ここ、すごくわかります。

わたしたちも、1年前まではここに出ている「担任の先生」と同じように考えていて、そこからベンソン夫妻のような考え方に変わっていったので、よくわかります。

 

で、ホームスクールプログラムを選ぶことになるのですが、この仕組みがまた面白いんです。

ホームスクールと学校教育のハイブリットでホーム《ラーニング》と呼ばれ、先生の監督のもとホームスクーリングを行い、希望があれば学校行事にも参加できるようになっています。

 

週1回、学校の一室でホームスクーラーが集まって交流する場もあります。

親も子どもも交流ができて、「自由な時間の過ごし方が印象的だった」と万里子さんは述べています。

 

極めつきは、教育補助金!

ホームラーニングプログラムに登録すると、お金が出るのです。

その理由が超まともで、「政府や学校側にとっては、その分子どもの教材費、設備費などの経費が節約できる」から。

 

涙ぐんでしまいますよ。

 

日本では、ホームスクール、ホームエデュケーションをやろうとすると、全部自腹です。

「義務教育は無償」といっても、それはあくまで学校に通う範囲の話なのです。

(無償と言いつついろいろ出費が嵩むのが日本の義務教育ですが、それはまたの機会に譲りましょう)

 

ああ、カナダに移住したい! と思ったのはここだけの話です。

 

 

 

「未来から考える教育 ~親が自分を愛することからはじまる子どもの成功哲学~」川本潤(未来の教育コンサルタント)

 

3人の子供を持って教育について取り組んできた結果、むしろ教育が必要なのは大人の方なのかもしれないと思うようになりました。

子どもたちは産まれた時から皆素晴らしく多くを教えてくれました。親として私にできることといったら、子どもの邪魔をしないこと、子どもの可能性を奪わないこと、その子らしさの輝きを曇らせないこと、それくらいしかありませんでした。

強いてあげるならば、こうなってほしいと願う人間像に、自分自身が近づいていく後姿を示すことくらいです。変容を厭わず挑戦を楽しんでいる大人が近くにいると、子どもも人生と生命を愛し続けることができるはずだからと。

  

ああ、首がもげそうなほどぶんぶん振ってしまいますよ。

わたしにはまだまだ不健全なところがあるので、ここに書かれているような後姿を見せられているとは言えませんが、それでもこうありたいと思います。

 

そして、子どもに対して「できること」よりも、「やらないこと」を考えたほうがいいのかもしれない、ということは実はとても大事な視点だと思います。

 

川本さんは、こう締めくくっています。

 

余談ですが、この原稿を書いている時点で長男は不登校ですが、それが何か問題だと思ったことはありません。成績や教育に関係なく、彼は偉大な存在だからです。

 

ああ、いいな。

みんな、beingしているだけで偉大な存在なんですよ。

 

 

 

「父親のつながる力と 多様な生き方・学び方」下村健士(ZOOM版教育と子育てを語り合うお父さんの会)

 

下村さんのお嬢さんが不登校になったとき、下村さんは親の会や教育について考える勉強会に参加して、とてもびっくりしたそうです。

その理由は、集まっているのがお母さんたちばかりだったから。

 

そうなんですよ。

わたしも親の会に入っていますが、見事にお母さんばかりですね。

 

父親は子どもの不登校にほぼ関わらないか、関わっても否定的な言葉を投げつけてむしろ害悪、というケースも珍しくはありません。

(もちろん、この下村さんのように、きちんと関わっている父親もいます)

 

この世で大切なことは、人と深いつながりを持っていることです。

信頼できる人がいるから、自分の問題を根本から見つめていくことができるのです。

  

すごくシンプルなことですが、このことを実感を伴って知っている人は意外に多くはないのかもしれません。

 

以前、こんな記事を書きました。

 

futoko.hatenablog.jp

 

「仲間」はとても大事です。

そのことに、親の性別は関係ありません。

 

 

 

「思い通りにならないのが子育て。だからこそ、愛するということ」西野奈津子(一般社団法人ひまわり教室代表理事)

 

そして『愛する』ということは、自分から心が離れてしまった人の幸せを素直に祈ることのように思います。愛するということは人間にとって最も強くて冷静な感情に思えるのです。親が子どもに与える最高の思いは、この『愛する』ということだと思っています。

 

「愛する」という言葉をこんなに的確に表現した言葉をわたしは知りません。

 

いやむしろ、子どもに対して「愛」とか「愛する」とか軽々に使えないと思っていたのですよ。

つい最近、友人が「軽々しく愛を口にしましょう」と素敵な言葉を贈ってくれて、少し気持ちが変わっていたところでした。

 

 

話が飛びますが、宇多田ヒカルのニューアルバム『初恋』に収録されている「あなた」という曲も、びっくりするくらいストレートな愛がうたわれていて、びっくりしました(語彙が)。

この曲の「あなた」は恋人というより、おそらく子どもへの愛をうたった曲なのではないかと推察します。

 

 

 

西野さんの言葉に戻ります。

この文章の肝心なところは「自分から心が離れてしまった人の幸せを素直に祈る」というところでしょう。

相手がどう出るか、どうあるかは関係ない。

愛を叫ぶのではなく、幸せを祈る、という「抑制」も愛することの本質なのかもしれません。

 

 

 

「歩く花」吉田晃子・星山海琳(AI-am)

 

合わない場所で耐え抜くより自分を生きるのがいい、と考えている親や大人がそばにいることは、ほんとうに恵まれている。すごくうれしいことだ。

でも、そう教えてくれた、伝えてくれた相手のほとんどは、「自分を生きる」ってどんなことか、体感として知っているわけじゃない。だからわたしたちは、わたしがわたしとして生きる姿をみる親や大人たちへ、なまなましい、「自分を生きる」そのありかたを返していくことができる。そうしておたがいに、敬意を育んでいく。

 

 

これも、ドキッとしますね。

前段のような《理解ある》大人は、今はそれなりに増えてきていると思います。

 

が、子どもが大人の考える「自分を生きる」と違ってきたときに、それを受け入れられるか?

それは、その大人自身がほんとうの意味で「自分を生きる」ことをしていないと、おそらく葛藤が生まれるのだと思います。

 

「学校行きたくない? いいよ、いいよ」

 

子どものそばにいる大人が試されるのは、実はその先なのではないでしょうか。

 

 

 

冊子の入手方法

 

この冊子がほしい方は、以下のサイトからお求めください。

 

labotanpopo.thebase.in

 

送料として300円がかかりますが、本体は無料です。

 

ひと色ではなく、それぞれの人の考えがいろんな言葉で綴られています。

自分の好きなフレーズをぜひ見つけてみてください!

 

 

 

 

 

 

「不登校」と「社会性」について考えてみた

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社会性が身につかない?

学校に行っていないと「社会性が心配」と言われることがあります。

実際、ときどき言われます。

 

 

最初は「そうかも」なんて思っていたわたしですが、はっきりと「違う」と感じるようになりました。

 

 

「学校に行かないと社会性が育たない」という言葉の背景には、「学校」で「集団生活」を送らないと社会性が身につかない、という考え方があるようです。

 

 

 

辞書をひいてみた

そもそも、社会性とはどういう意味なのでしょう。

(不登校を考えるようになって、“そもそも”に立ち返ることが多くなりました。これは良かったことのひとつです)

 

『三省堂国語辞典<第七版>』(三省堂)をひいてみましょう。

 

社会性(名)

①社会のものごとに広く関心を持つ性格。「―をやしなう」

②社会一般に広く通じる性質。「―のある問題」

 

 

ふむふむ。

 

 

では、こういったことを養うには、「学校」「集団生活」は必須なのでしょうか?

 

 

わたしは、断固「否」だと考えます。

 

 

 

「通学」は当たり前ではない

unicef(ユニセフ)が2017年に発表した内容によると、世界中で学校に通えない学齢期の子どもは1億2300万人(11.5%)いるそうです。

(このうち40%が開発途上国、20%が紛争地に住む学齢期の子どもだそうです)

 

 

また、世界にはいろんな環境・ライフスタイルで暮らす子どもがいます。

 

オーストラリアでは、人口過疎地に住んでいて、周囲に通える学校がないので通信教育を受けているという子どもがいます。

 

自分の家の数キロ四方、ほかに民家がないというところに住む子どもがいます。

 

モンゴルなどにいる遊牧民の子どもはどうでしょうか?

 

 

では、こういった環境で育った子どもたちは、社会性が身につかないまま大人になるのでしょうか。

 

 

そんなことはないですよね。

(極度の貧困状態や紛争状態に置かれて、心身ともに甚大な影響を受けた子どもはまた別に考える必要がありますが、ここでは触れません)

 

 

 

それって「同調性」では?

日本で「社会性」が使われる場面は、実は「同調性」のことを指していることが多いと感じます。

 

 

社会にはいろんな人がいる。

大人になれば、やりたくないこともやらなければならない。

嫌な奴とも協力しないと生きていけない。

人の言うことを素直に聞けないと苦労する。(素直、というのもクセモノですね)

それに耐えるため、適応するために「社会性」を身につけなければならない。

そのために「集団生活」「学校」が必要なのだ。

 

こんな感じでしょうか。

 

 

「社会人」という言葉も独特ですね。

学校を卒業して仕事に就くと「社会人」と呼ばれます。

でも、仙人でもない限り、社会とまったく関わらずに生きている人は皆無です。

生まれたての赤ん坊だって、いや、まだお腹の中にいる赤ちゃんだって、子どもだって、寝たきりのお年寄りだって、みんな「社会人」であるはずです。

 

 

社会性という名の同調性を身につけて、いちばん得をするのは誰なのでしょうか?

 

 

言うことを聞かせる側の人間でしょう。

 

 

わたしは、そんな社会性ならば、身につけなくていいと考えます。

 

 

 

自分の外側への興味関心

学校に行かずとも、本来の意味での社会性は十分身につく、と長男を見ていて感じます。

 

 

そもそも、人間は社会をつくる動物です。(人間以外の動物や昆虫でもそういう種はありますね)

邪魔が入らない限り、放っておいても社会性をもつのが人間です。

事実、子どもを見ていると、自分の外側への興味関心がすごいですよね。

社会性というのは、まさにそういうことではないでしょうか。

 

それに、社会とどう関わっていくか・どれだけ関わっていくかは人によって濃淡はあって当然で、「かくあるべし」というものは本来ないはずです。(それこそ余計なお世話だ!)

押し付けられるものではなく、自分で選ぶことです。

 

 

もし、学校に行っていないことで「社会性ガー」という人が現れたら、その人がどういう意味で社会性という言葉を使っているのか、よくよく観察してみることをおすすめします。

 

 

 

生きてるだけで丸儲け

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ごぶさたしております。

春めいてきて、ようやく書きたい気持ちになってきたので久しぶりの投稿です。

 

 

 

www.e-aidem.com

 

 

不登校界隈でも話題になっていたこの少年、記事化されたことで大反響となりお店に人が殺到……というところまでは聞いていて、その後が気になっていました。

 

 

その後を教えてくれる記事が出ました。

 

 

www.e-aidem.com

 

 

お店のキャパシティーを超えるほど人が殺到すると、お店の人は多大な消耗を強いられ、嫌な思いもたくさんする……ということは容易に想像できます。

もちろん、こちらのお店もそのようなことはあったでしょう。

 

が、それよりも、その嵐を乗り越えた家族の軽やかですがすがしい姿に心を打たれました。

 

本当によかった。

 

 

そう思いながらも、別のことを考えていたわたし。

 

 

不登校の子ども、過去に不登校だった人の「成功」を見聞きすると、安堵する自分がどこかにいます。

「ほら、不登校でもこんなに立派に生きられる」ってね。

 

 

でも、立派に生きていないとダメなの?

 

 

不登校で長らくひきこもる生活をしている当事者は大勢います。

 

 

打ち込めるものがない。

お金を稼いでくる仕事はできない、したくない。

社会の役に立つようなことはできていない。

 

 

それではダメなのか?

 

 

わたしが愛読している専門紙『不登校新聞』には、そういう当事者(かつて当事者だった人も含め)の手記や声がよく載ります。

(だからこそ、安堵している自分に気づくことができ、自問することができました。『不登校新聞』ありがとう!)

 

不登校になったとき、当事者もそうですが、そばにいる大人の着地点はどこにあると思いますか?

 

 

わたしは、「生きているだけで丸儲け」だと心から思うことに尽きると考えています。

 

 

話は変わって、わたしの好きなエピソードを紹介させてください。

 

 

アメリカはボストンにあるサドベリースクールでは、入学時に「もしかしたら、お子さんが20歳になった時に字が読めないかもしれません。それでも、子どもを尊重できますか」と尋ねられるそうです。

公教育を離れて過ごした日々 「オルタナティブスクール」とは - Yahoo!ニュース

 

 

まさに、「生きてるだけで丸儲け」の精神です。

 

 

話はまたまた変わります。

ジョン・レノンがオノ・ヨーコと出会った頃に、アーティストだったヨーコの展示を見る機会がありました。

ヨーコの作品は一風変わっていて、脚立と天井からぶら下がった虫眼鏡というものでした。

 

 

脚立にのぼって虫眼鏡で天井を見ると、そこにはとても小さい字で「yes」と書かれていたそうです。

 

 

はじめてこのエピソードを聞いたとき、わたしに「yes」と言ってくれたような、あたたかな気持ちになったことを今でも覚えています。

 

 

学校に行かないことを選択した人へ。

あなたがどうあっても、「生きてるだけで丸儲け」。

あなたがどうあっても、「yes」と伝えたい。

 

 

そんなふうに、不登校という事象と関われたら最高ですよね。

 

 

 

 

長男が夢中になっているもの【2017AW】

青木村にも冬がやってきました。

 

先日、このブログが開設から半年経ったというお報せが、はてなから届きました。

早いですね。

 

このブログでは、長男自身の話はほとんど書いていません。

話を聞いてまとめたい思いはあるのですが、現状では本人が望んでいないからです。

話したくなったとき、またはまとまった話が聞けたときが来たら、と考えています。

 

そんなわけで、間接的にはなりますが、本人が夢中になっているモノを挙げて、長男の“現在位置”を記しておきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

1.LEGO

とにかくLEGO。三度の飯よりLEGO

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リビング上にあるロフトが、現状では長男専用のLEGOルームになっています。

LEGOはパーツが小さく、弟たちに触らせたくないので、このように隔離してあります。

(とはいえ最近、ロフトが気になってはしごを途中までのぼる弟たち……隔離ができなくなるのも時間の問題かも)

 

毎日、気がつけばロフトにあがり、延々黙々とひとりで精巧な作品を生み出しています。

見た映画からインスパイアされることもあれば、LEGOの動画を参考にしていることも。

薪ストーブの世話をする父ちゃんや写真立てなど、実用的なものも作るようになりました。

 

最近、せっかくいろいろ作っているので写真に撮って【長男taboくんのLEGOシリーズ】としてわたしのインスタグラムに投稿するようになったところ、海外のLEGOフリークから「いいね!」してもらえるように!

 

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https://www.instagram.com/p/BbxlZN0Dniv/?hl=ja&taken-by=gyogo_gyogo

 

国はハンガリー、ロシア、アメリカ、ブラジル、スペインなどなど。

LEGOフリーク、LEGOの店、LEGO好きなアートディレクター、アーティストなどです。(ほぼ全員男性)

 

長男は、自分の作品を地球の反対側の人も見てくれて「いいね!」してくれるということに、とても興奮していました。

SNSのいちばんの醍醐味ですよね。

 

SNSは上手に付き合えば、子どもにとって、広い世界への窓になるんだナァと実感しています。

 

そんなわけで、LEGO制作にさらに拍車がかかっているようです。

 

 

 

2.アニメ

日本の定番から海外のひとクセあるものまで

「ポケットモンスター」「100%パスカル先生」「ドラえもん」などの日本のアニメから、海外の動画やアニメまで幅広く観ています。

一時期ヘビーローテーションしていたスタジオジブリ作品は最近は一段落したようで、ほとんど観ていません。

 

「LEGOの動画」

www.youtube.com

Amazon、youtubeなどでLEGOの動画をよく見ています。

けっこうよくできているんですよね。

 

HIKAKINなどの動画職人の映像もよく観ています。

今の子どもにとっては、動画職人は憧れの対象。

おもしろいものを生み出すパワーもすごいし、稼いでいる人はかなり稼いでいます。

こういうところは、まさにネクストジェネレーション感があって面白いですねぇ。

 

 

「アドベンチャー・タイム」

www.youtube.com

アメリカのアニメです。

テレビでの放映もありますが、こちらではケーブルテレビなどに入らないと見られないので、今はもっぱらDVDで観賞中。

 

ハイ・ファンタジーの物語です。

架空の大陸「ウー大陸」を舞台に、スーパーヒーローになりたい12歳の少年・フィンとその大親友で老練な犬のジェイクを中心に話が展開していきます。

 

ストーリーはめちゃくちゃなんですが、妙に面白くて魅力的なんです。

登場人物もキャラが立ちすぎていて笑えるし。

 

カートゥーン ネットワークオリジナル「アドベンチャー・タイム」は、2012年5月より日本での放送を開始。
パイロット版を経て2010年にアメリカでスタートした本作は、全米初放送時、視聴率1位(※)を獲得し、現在も大人気放送中の冒険ファンタジーです。


(※)ケーブル&地上波放送作品中、6-11歳、2-11歳児童、 9-14歳男子、各カテゴリで1位(米ニールセン調べ)

――公式サイトより

 

吹き替えの声優さんもすごくいいんだと思います。

特にジェイクの斎藤志郎さん!

おっさん犬で情のあつい知恵者なんですが、いつもフィンといっしょにハチャメチャをやっていて、わがやは全員ジェイクが好き。

(わたしは間抜けなアイスキングとヴァンパイア・クイーンのマーセリンも好き)

 

日本語版吹替えには、主人公フィン役を朴璐美、ジェイクを斎藤志郎はじめ、人気声優が顔を揃えているほか、キャラクターグッズも人気を博し、子供から大人まで幅広いファンを持つ注目作品です。

――公式サイトより

 

詳しくないのでどれがどうと指摘はできないんですが、おそらく、古典や神話を下敷きにしているんじゃないかと思います。

だから物語世界に強度があって、見飽きないのかな、と。

あくまで推測ですが。

 

 

「スポンジボブ」

www.youtube.com

これもアメリカのアニメですね。

友人の息子くんたちも好きだったので、男の子はわりと好きなテイストなんでしょうか。

ぜんぜん違いますが、テンポは「トムとジェリー」を連想させるものが。

エンディングテーマはRIP SLYMEのオリジナル曲で、耳に残りますねー。

 

 

 

3.ドキュメンタリー

ネイチャー関係強し!

「ワイルドライフ」(NHK BSプレミアム)
NHKスペシャル「シリーズ ディープオーシャン」(NHK総合)
「ダーウィンが来た! 生きもの新伝説」(NHK総合)

www4.nhk.or.jp

 

どれもネイチャー関係ですね。

録画したものを本当によく見ています。

 

しかもよく覚えていて、ときどきここから得たらしき知識を披露してくれます。

「心底感動したんだなー」という感じが伝わってきて、なかなかに心震える視聴体験になっているようです。

 

最近の「ダーウィンが来た!」では、野良猫の生態をやっていて、特に面白く観ていたようです。

オスの子殺し(注:ほかのオスの子ども)についても丁寧に説明していて、こういう側面も知ることができるのはいいですよね。

 

NHKスペシャルで放映されている「シリーズ ディープオーシャン」は深海モノ。

ご多聞に漏れず長男も深海には興味があるようです。

 

そういえば、NHKでツタンカーメンの墓についてやっている番組も最近あって、それもかなり真剣に観ていました。

CGを駆使して発掘当時のツタンカーメン王墓を再現していて、かなり見ごたえがありましたよ。

ツタンカーメン王は9歳で即位しているそうです。

「taboくんがあと1年経ったら即位ってことだよ!」と言ったら「ぎょえ~~!」と驚いていました。

 

なんだかんだ言ってもNHKのドキュメンタリーは見ごたえのあるものが多いですね。

夏に戦争関係のドキュメンタリーもやっていたので録画しておきました。

世界の複雑さ、悲惨な側面が理解できるくらい成長したら、一緒に観たいと思います。

 

  

「世界入りにくい居酒屋」(NHK BSプレミアム)

www.nhk.or.jp

 

これはわたしたち両親の好みに付き合わせた結果なのですが……。

この番組は、海外の都市にある「入りにくい居酒屋」を取材するというものです。

 

「入りにくい」の意味は、店のキャラが立っている、見つけにくい、観光客がほぼ来ない、ディープ、といった意味のようです。

 

これがまあ、毎度本当に面白いんです。

店主の人柄が魅力的で、料理やお酒もいかにもおいしそうで、地元の人たちに愛されている店ばかりなのです。

気のいいヘベレケさんたちを見ているだけで幸せな気持ちに。

 

居酒屋にはなかなか行けないわたしたちには癒しの番組ですが、長男にはなんだかおもしろい大人たちがぞろぞろ出てくる番組に見えるようです。

これを見ながら「いつか、この居酒屋行きたいね」と長男と話をしています。

 

子どもたちがもっと大きくなったら……下の双子さんたちが10歳くらいになったらかな? 家族5人で何か月か海外を旅するのが夢です。

バックパッカー旅行で、いろんな国に行って、いろんなものを見ていろんな人に会っていろんなものを食べたい、と夢想しています。

 

 

 

4.映画

映画館&録画で楽しむ

映画は、本人が観たい新作を映画館に観に行ったり、テレビ放映を録画したものをよく観ています。

吹き替えでないものも多いので、その場合は一緒に観ている夫かわたしが字幕を音読しています。

 

「レゴ ニンジャゴー ザ・ムービー」(2017年/アメリカ)

www.youtube.com

 

これもLEGOですね。

 

ちょっと前に長野市の映画館まで夫と2人で観に行っていました。すごく面白くてまた観たいそうです。

 

“ニンジャ”と言いつつずいぶん中国風だなオイという、「欧米から見た東アジアあるある」な舞台設定なんですけどね。

 

 

「スター・ウォーズ」シリーズ(1977年~/アメリカ)

www.youtube.com

 

夫と一緒に観ていました。

 

最初は2話も観れば「もういい」という感じだったのですが、最近また「観たい」と言い出して観ていました。

好きなキャラクターは「チューバッカ」だそうです。

(わたしが「チューバッカ―?」と聞いたら「バッカ! バカじゃねえんだから!」と注意されました)

 

観たあとでインスパイアされるものがあったらしく、LEGOでスターウォーズにいかにも出てきそうな乗り物を作っていました。

 

 

「ブルース・ブラザース」(1980年/アメリカ)

www.youtube.com

これも夫が何気なく観だして、一緒に観ていました。

 

というか、このときは結局家族5人で観ることになってしまい、下の双子さんたちが盛大なカーチェイス&クラッシュシーンに大興奮で、寝付くまで大騒ぎというおまけ付きだったのでした。

 

音楽は最高、キャストは超豪華、下品なジョーク、ワルっぷり、登場人物たちのキャラの濃さ、展開のハチャメチャさ。

最上のエンターテインメントであり、どれをとっても誠に“教育的”な映画ですねぇ。

 

いやそれより何より、単純にお腹の底から力が湧いてくるような楽しさに満ち溢れているのが、何度観ても「いいな」と思える理由でしょうか。

 

長男にどこが面白かったか聞くと「んー、アホなところ!」と言っていました。

 

余談ですが、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの星野源さんも、幼いときに観たこの映画は自身の血肉なるほど影響を受けていると言っています。

今回改めて観て納得、でした。

 

 

 

「プロジェクトA」(1983年/香港)

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ジャッキー・チェン出演の名作ですね。

 

1900年代のイギリス植民地下の香港が舞台で、ジャッキーをはじめとしたカンフーの達人の超絶技巧、テンポのよい展開が、スカッとカラッとしていてとにかく面白いです。

 

ストーリー、展開ともに明快な勧善懲悪でテンポがいいので、字幕を追えない子どもでも楽しめるようです。

 

 

 

5.本

本だけは惜しみなく!

図書館・書店には、本人の希望もあってよく行っています。

 

「LEGO製品カタログ」

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製品カタログですら熟読……。

「これが欲しいナァ」と夢を膨らませつつ、お小遣いを貯めるモチベーションをあげているみたいですよ。

 

書店で売っている、LEGOのパーツが付録になった本もときどき購入しています。

 

 

月刊「コロコロ」(小学館)

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発売日に新聞といっしょに配達してもらうようにしています。

届くと、パジャマは着替えない、朝ごはんもそっちのけで熟読していますね。

 

そう、長男は「三度の飯より……」な人で、食事に対する欲があまりないんですよね。

わたしは食欲ファーストな人間なので、最初は驚いたものです。

 

寝ても覚めてもLEGOな今はそうでもなくなりましたが、一時期は脳内がコロコロで占められていました。

「でんじゃらすじーさん」シリーズや「100%パスカル先生」がお好みのようです。

 

 

角川まんが科学シリーズ「どっちが強い!?クジラvsダイオウイカ 海のモンスター対決」(KADOKAWA)

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児童書のこのジャンルは人気がありますね。

「最強生物」とか「危険生物」とか。

けっこう前から、この手の本は欲しがることが多かったです。

 

 

「こども博物誌」シリーズ(玉川大学出版部)

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玉川大学出版部が、玉川学園創立90周年を記念して出しているシリーズです。

 

玉川大学出版部は、過去に計8種の児童百科を出版してきたそうです。

どうりで、なかなかの内容なんですよ。

 

全集方式で1巻ずつリリースしているようなんですが、今の時代に珍しい丁寧かつアナログなつくりです。

 

大判のハードカバーで、ビジュアルは写真ではなく緻密なイラスト!

ゆったりした組みなのもいいですね。

 

たしか新聞広告で見て、これは面白そうだということで買ってみたんでした。

 

【全巻構成】
・動物のくらし(2016年5月刊)
・ぐるっと地理めぐり(2016年9月刊)
・数と図形のせかい(2017年1月刊)
・昆虫ワールド(2017年5月刊)
・音楽のカギ/空想びじゅつかん
・植物とくらす
・日本の知恵をつたえる
・地球と生命のれきし
・ロボット未来の部屋
・頭と体のスポーツ
・空と海と大地
・ことばと心

――公式ホームページより

 

 

今は、動物と昆虫の巻を読んでいます。

その生物の生態を詳細かつわかりやすく描いているので満足感があるのか、長男もとても気に入っています。

 

なので、これは学習にも使っています。

1日1種分を音読しながら、疑問や面白いところを話し合いつつ、という感じで使っています。

 

**********************

 

今はこんなところでしょうか。

 

わたしたち親が素直にいいなと思ったものを勧めたり、一緒に楽しむこともよくありますが、基本的には本人の好みをそのままにしています。

 

まあ、子どもの世界にとって親は所詮“場外”。

とはいえ、言葉の外で無意識に何かを押し付けていることもあるかもしれません。

場外とわきまえたところで、身近な大人の影響は排除できません。

そのへんのさじ加減は本当に難しいところです。

 

本人が楽しいと思えることがあれば他に何を望もうか!

一緒に楽しめればなお言うことなし、ですね。

 

脱学校後、ひとつだけ後悔していること

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長男が学校に行かなくなって、半年が経ちました。

この間、いろいろあったけれど、おおむねよかったなという感じで推移しています。

 

長男が学校に行かなくなったこと自体に後悔は何もないんですが、ひとつだけ悔やんでいることがあります。

 

 

それは、きちんと怒らなかったこと。

 

 

あ、子どもにじゃないですよ。

学校や教育委員会、そして長男をいじめた子どもたちにです。

 

まあ、感情ってのは蓋しても漏れ出てくるものなんで、要所要所では「怒っている」ことは伝わっていたとは思うんですが、ちゃんと怒れてなかったなという後悔があるのです。

 

 

なぜわたしがちゃんと怒れなかったか。

それは、モンペ扱いされたくなかったから

 

 

話し合うとき、人は感情的になることを嫌います。

 

感情的になったが最後、話を聞いてもらえなくなる……!

 

と、わたしは必死に歯を食いしばっていました。

 

 

でも、それは間違いでした。

 なぜなら、怒るべきことにちゃんと怒らないと、怒りはいつまでも成仏しないんですよね。

そしてそれは、内側から自分を蝕んでいくし、瘴気のようなものになって周りにも出てしまうなぁ、と感じています。

 

 

そもそも、感情的になったら負けという「ゲーム」は、本当はおかしい。

わたしたちは、感情を排して話し合うべき、という考え方に縛られ過ぎているんじゃないだろうか。

 

感情を出すのは、そんなにいけないことなんでしょうか。

 

「トーンポリシング」という言葉があります。

日本語に訳すと「話し方警察」「話し方取り締まり」とでもなるでしょうか?

 

人が「怒り」「悲しみ」などを表現したときに、「そんなに感情的だと話聞いてもらえないよ?」「もっと冷静になろうよ」と表現の内容ではなく表現のあり方にフォーカスし、怒りや悲しみを表明した人の口を封じ、結果論点がずれていく、というやつです。

 

たぶんほとんどの人は、怒りや悲しみを受け止めるのに慣れていないんですよね。

だから、困惑するんだと思います。

居心地が悪く感じるのは、わたしもよくわかります。

 

では、どうすればよいのか?

 

まずひとつは、怒りや悲しみといったネガティブな感情が湧いたら、抑えつけるのではなく、十分に味わうこと。

「ああ、わたし今怒っているな」「わたし、すごく悲しい」という具合にです。

そして、怒りや悲しみの対象が目の前にいるならば、その場でそう伝えることです。

 

それを相手がどう受け止めるかは「相手の領域」なので、コントロールはできません。

それでも、伝えることが大事です。

 

逆にこのプロセスがないと、感情の出口がない状態になるので、いつまでも手放せなくなり、くすぶり続けます。

(そういう経験はだれしもあるのではないでしょうか)

 

そして、自分が他人の怒りや悲しみに接したときは、なぜその人がそんなにも怒っていいるのか(悲しんでいるのか)にフォーカスすること。

 

これはちょっと難易度高めに感じるかもしれませんが、結局はいちばん安全な近道なんではないかと考えます。

 

なぜなら、接した側は怒りや悲しみの根っこがわかって安心するし、怒っている(悲しんでいる)側もちゃんと受け止めてもらえたという安心感が得られるからです。

 

なぜ怒っているかわからない「不安」。

受け止めてもらえないかもしれないという「不安」。

 

不安を放置することこそが、人の心を黒くしていくのではないでしょうか。

(不安そのものがいけないという意味ではありません。不安は大事なことを教えてくれます)

 

今は、ちゃんと出せなかった怒りをどうやって解放していくか。

そして、「モンペ扱いされたくない」という保身とどう折り合いをつけていくのか。

それが目下、わたしの課題のひとつです。

 

 

 

「我慢」には2種類あるって知ってた?

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「我慢しなさい」

「我慢が大事だよ」

 

人間社会でつつがなく暮らしていくには、「我慢」がどうやら大事なようですね。

 

わたしもそう言われて育ちました。

我慢がちゃんとできないとまともに扱ってもらえない……くらいの強迫的なイメージを持っていました。

 

 

 

 

でも、それがあるとき覆ったのです。

 

それは、ある小説の一文でした。

 

その小説とは『小やぎのかんむり』著・市川朔久子(講談社)です。

(市川さんは、この作品で第66回(2017年)小学館児童出版文化賞を受賞されました。おめでとうございます!)

 

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bookclub.kodansha.co.jp

 

 

後半に

「――その我慢は、自分を生かす我慢か。それとも殺す我慢か?」

という一文が出てくるのです。

 

この小説は、中学校3年生の夏芽が主人公です。

夏芽は夏休みに田舎のお寺が開催しているサマーキャンプにやってきますが、参加者は夏芽ひとり。

屈託なく接してくれる美鈴さん、一見いい加減な和尚のタケじい、住み込みでお寺の仕事をしているまじめな穂村さんが迎えてくれます。

そこに、置手紙ともに置いていかれた5歳の雷太が転がり込んで……物語が展開していきます。

 

(ネタバレになるのであらすじはここまでにしておきますが、とてもすばらしい小説なので、よかったらぜひ読んでみてください)

 

夏芽がサマーキャンプに来たのは、抑圧的な父親と、それに従うだけの母親との生活が息苦しかったからです。

 

先の一文は、夏芽がスズメバチに刺されて夜眠れないときに、美鈴さんが冷やすための氷嚢を作りながらつぶやく言葉なのです。

美鈴さんは、この言葉を「昔、わたしがおじいちゃん(注:タケじい)に言われた言葉よ」と補足します。

 

夏芽は「我慢強い」「心が広い」と言われてきました。

でもそれは……。

 

わたしは、いったいなにを我慢していたんだろう。もうずっと。

 

夏芽の心にその思いが去来します。

 

 

わたしの心にも、この一文がふかく刺さりました。

 

それ以来、何か迷うことがあると自分の心に問うのです。

「それは、自分を生かす我慢か殺す我慢か?」

 

そして、「自分を殺す我慢だ」と感じたら、我慢しないことに決めました。

 

長男がいじめられていることをまだ知らなかったとき、長男がクラスの子からからかわれることを話してくれたことがあります。

(それがまさにいじめだったのですが……)

 

どういう話の流れだったかは覚えていないのですが、そのときもわたしは「我慢には2種類あって、自分を生かす我慢と殺す我慢があるよ。もしそれが自分を殺す我慢だったら、一切我慢する必要はないよ」と伝えました。

 

長男の心にどんなふうに残ったのか、あるいは残らなかったのかはわかりません。

でも、今もその思いは変わりません。

 

今、ここで我慢して踏ん張ることが自分を生かすと思えるのならば、無駄な我慢ではないでしょう。

 

しかし、世の中で言われる「我慢」のほとんどが、「自分を殺す我慢」ではないでしょうか?

この言葉を知ってから、わたしには世の中の「我慢」の内実が、そう見えてなりません。

 

今は確信を持って言えます。

自分を殺す我慢は、一生涯を通じて一切する必要はない、と。

 

「いま我慢しないと、まともな人間に育たなよ」

「いま我慢しないと、立派な1年生になれないよ」

「いま我慢しないと、将来いい学校に行けないよ」

「いま我慢しないと、将来まともな仕事につけないよ」

「いま我慢しないと、将来出世できないよ」

「いま我慢しないと、老後は悲惨だよ」

 

「いま我慢したら、すべてが丸く収まるから」

 

わたしたちはいつになったら、我慢しないで済む世界に行けるのだろう?

わたしたちの世界は、これほどまでに「我慢の呪い」に満ちています。

 

我慢をせずにやりたいことをやっている人を見てイラッとするのは、自分が自分に「自分を殺す我慢」を強いているからかもしれません。

 

 

――その我慢、自分を生かす我慢ですか? それとも、自分を殺す我慢ですか?

 

つらいことがあったら、この言葉をぜひ思い出してください。

 

 

 

子どもが不登校になったらまずやることは2つ

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お子さんが不登校になったときに、保護者はまず何をすべきなのでしょうか?

文部科学省不登校は誰の身にも起こりうる」と明言しています。

 

まずは深呼吸して落ち着きましょう。

そして、ゆっくりと、当事者であるお子さんに「わかった。学校を休もう」と伝えてください。

 

それから、2つのアクションを起こしましょう。

 

今日は、そのアクションについて、わたしの経験をもとにお話をしますね。

 

 

 

 

子どもが「学校に行きたくない」と言い出した!

お子さんが「学校へ行きたくない」と言って、学校を休むようになったとします。

そういう事態を具体的に想定していない方がほとんどでしょうから、保護者は焦りや混乱に見舞われるでしょう。

 

でもとりあえず、落ち着きましょうね。

はい、深呼吸~~(*´ω`)

 

「なんで?」「いつ登校を再開するの?」「勉強遅れちゃうじゃない」という言葉が口から飛び出そうになりますが、その答えはおいおいわかりますから、今は脇に置きましょう。

 

 

 

子どもの学校行かない宣言は「自分は瀕死の状態です」申告と思ってください

……落ち着きましたか?

 

お子さんは、やっとの思いで「学校に行きたくない」と打ちあけて、今は心身ともに疲れ切っています。

 

学校を休んで、

ずっと寝ている。

ゲームばかりしている。

ダラダラしている。

 

見た目は怠惰にしか見えなくても、戦場から瀕死の状態で帰ってきたのと同じと考えてください。

(学校は戦場じゃないでしょー? というツッコミはなしでお願いします。当事者はそれくらいの危機的状態だという説明のための比喩です)

 

さらに、家にいるということは、家は少なくとも安心できる巣足り得ているということです。

そのことを喜びましょう。

世の中には、本当に悲しいことですが、家が安心できる場ではないという子どもも大勢います。

 

 

 

保護者がやることは2つ

さて。

ここから保護者がやることは2つです。

 

1.情報を取りに行く

2.同士(仲間)とつながる

 

この2つだけです。

あとは、取りに行った情報と、つながった同士たちが、あなたを次の場所へ連れて行ってくれます。

 

逆に、これをやらないと、まずはお子さんを受け止めるべき保護者がいつまでも無用な不安にとらわれ、お子さんを苦しめます。

また、学校と話し合うにしても孤軍奮闘で消耗する可能性が高いです。

 

 

情報を取るときのポイント

不登校=問題行動」というベクトルはNG

情報は「ネット」がいちばん手っ取り早いでしょう。

不登校 支援」「不登校 団体」「不登校 定義」などで検索してみてください。

 

ただし気をつけていただきたいのは、不登校は今でも「問題行動」という見方がまだまだ強く、ネット上で「不登校支援」をうたっている情報でも「なんとか学校へ戻す」「学校の代わりを探す」というベクトルが多い点です。

 

今は文部科学省ですら、「不登校は問題行動」という考え方を一切捨てています。

2017年に教育機会確保法という法律が成立して、「個々の不登校児童生徒の休養の必要性」を法律で認めたのです。

(教育機会確保法にはまだまだ足りない部分もたくさんありますが、今までの国の不登校への対応の経緯からすると前進と言えます)

 

最初から「元に戻す」方向へ進もうとすると、お子さんをさらに追い詰めて、地獄を見ることになる可能性が非常に高いです。

 

ほうほうのていで戦場から帰ってきた人を、なんとか戦場に戻そう、戦場の代わりになる場所に連れて行こう……とはしませんよね。

まずは心身ともにゆっくり休ませます。

それと同じです。

 

不登校のことをニュートラル、受容的に教えてくれる情報を

まずは、不登校とは何なのか」を正確に、ニュートラルに、受容的に教えてくれる情報を探してください。

 

不登校の当事者による団体、または不登校の当事者が自分らしく生きられるように支援をしている団体のホームページなどが、いいでしょう。

ただし、評判のよくない団体もありますから、要注意です。

 

検索エンジンで最初に出てくるページだけでなく、2~3ページは見出しに目を通されることをおすすめします。

 

お住まいの自治体名と合わせて検索すると、地元や近隣の支援団体が出てくるかもしれません。

 

探すのと読むのとに少し根気がいりますが、文部科学省のホームページにも不登校に関する資料はあります。

 

もちろん、本から情報を得てもいいです。

まずは地元の図書館で調べてみてください。

意外と不登校ジャンルの本は置いてあります。

(わたしが住む青木村の図書館にもありました!)

 

わたしがおすすめするのは、

1.日本で唯一の不登校・ひきこもり専門紙「不登校新聞」のホームページ

2.フリースクール東京シューレ」の総合ホームページ

3.AI-am(アイアム)のホームページ

です。

 

おすすめ情報源1「不登校新聞」

ホームページで誰でも読める情報として、「当事者の声」「親のための不登校Q&A」があります。(1カ月の無料お試し購読のための登録が必要です)

まずはここを読まれることをおすすめします。

 

購読したい場合は、紙版とネット版から選べます。

紙を選んだ場合、他の人に「不登校新聞」ということがわからないように配送してくれるサービスも選べます。

 

わたしはこの新聞をすぐ購読して、すごく救われました。

まず、不登校を一切否定的に扱っていないこと。

そして、当事者の矛盾、悩みをふんだんかつ丁寧に扱っていること

隅から隅まで不登校の当事者と保護者に寄りそう内容で、著名人や専門家へのインタビューも載っています。

不登校関連の政治の動向についての記事が載ることもあり、情報のアップデートには最適です。
わたしがいちばんうれしかったのは、最終面に各地の親の会の開催情報が載っていることでした。

 

おすすめ情報源2「東京シューレ

東京シューレ」はフリースクールやホームエデュケーション(家庭での教育・学習)がメインですが、不登校そのものについても活動をしています。

 

不登校に対して否定的な見方がみじんもなく、不登校フリースクールのイメージを変えてくれるだけの情報量と30年以上の蓄積があります。

 

ちなみに「不登校新聞」の代表理事である奥地圭子さんは、「東京シューレ」「登校拒否を考える会」の代表でもあります。

 

おすすめ情報源3「AI-am」

こちらは、個人(母娘)で運営しているサイトです。

 

デモクラティックスクール(サドベリースクール)のスタッフ経験がある母・よっぴーさんと、小~高まで公教育を受けずに大学に行った娘・まりんさんが、不登校やこれからの「学び」について、実体験や情報の発信を続けています。

 

ホームページでは、おふたりの投稿がたくさん読めるので、気になるところから読んでみてください。

Facebookでオンラインサロンも運営しています。

 

でも最後は自分の目で確かめてね

現時点で、わたしの経験に基づいてこの3つのサイトをお勧めしましたが、これがすべてではありません。

ぜひ、ご自分の目でよく確かめられることをおすすめします。

 

 

同士とつながる方法

不安に心を支配されないために、
悩まなくていいことで右往左往しないために、
学校との話し合いを後悔の嵐にしないために、
そしてお子さんを無用に傷つけないために、

同じような立場の人とつながることを、強くおすすめします。

できればリアルで。

 

「親の会」を探してみる

まずは「親の会」につながってみるのはいかがでしょうか。

 

「親の会」については、「不登校新聞」の最終面に、各地の親の会開催情報が載っていると前述しました。

ここでチェックしてもいいですし、支援団体に問い合わせてみてもいいでしょう。

 

また、お子さんの学校を担当しているスクールソーシャルワーカーに尋ねるのも手です。(スクールソーシャルワーカーは社会資源の情報提供も仕事のひとつです)

 

自治体の子ども支援や教育関連の窓口で尋ねる方法もあります。

とはいえ、小さな自治体だとハードルが高いかもしれませんね。

その場合は、近隣の大きい自治体で電話で尋ねてみてはいかがでしょうか?

 

ネット上のサロンもある

リアルでのつながりが難しければ、ネットのサロンもあります。

例えば、東京シューレが運営している「ホームシューレ」では、親会員専用交流サイトが用意されています。

会員になる必要はありますが、クローズドかつ全国に仲間がいる空間なので、安心感があります。

 

また前出の「AI-am」でもFacebookのオンラインサロンを運営しています。

こちらはまだできて日が浅いですが、よっぴーさん&まりんさんのお人柄もあって、非常にリラックスできる場、さまざまな気付きを得られる場になっています。

 

無理せずにいられる場を選ぼう

ちなみに、わたしはリアルの「親の会」は2か所行きました。

ひとつはたまたま友人が参加していた地元の会。

もうひとつは、長野市で長く続いている会。

 

地元の会はできたばかりで、知っている人も少ないです。

こんなふうに、ネットや公的な情報にも上がっていない親の会もあります

 

長野市の会は、なにしろ長くやっているので蓄積があります。

具体的に困っていることがあったときに相談に行き、話を聞いてもらってアドバイスをいただき、本当に助かりました。

 

会には、まず顔を出してみて(個人相談を受け付けているなら最初はそれを利用する手も)素直にホッとできる場・メンツならば、あなたに合う会である可能性が高いです。

無理のない範囲でつながってみてはいかがでしょうか。

 

逆に「居心地が悪いなぁ」「イヤなこと言われちゃったなぁ」という場合は、しがみつかず、他を当たりましょう。

 

「親の会」の空気感とは?

わたしが「親の会」に出てみて感じたのが、会が目的化しておらず、それぞれが出会う場になればいいというゆるやかな空気があることです。

だから、義務的なことや強制がありません。(場所代・運営費として少額支払うことはあります)

話したいことがあれば顔を出して、そうでなければ来なくてもちろんOK。

会員になるならないも、ご自由に。

そんな感じです。

 

子どもの不登校で打ちのめされたり、消耗したりする保護者は多いです。

親の会でまで、窮屈な思いをしたり無理をしたりはお互いしたくないよね、という雰囲気です。

 

もちろん、そうではない会もあるでしょう。

実際、相談に行ったらかえってお説教めいたことを言われてヘコんだ……という方もいます。

 

自分に合うかどうかは、よーく見てみてください。

最初「いいなー」と感じても、違和感が出てくれば無理に付き合うことはありません。

距離を置いてもよし、さっさと離れるもよし、です。

 

「親の会」は学校じゃないからね!

無理して行かなくていいのですから。

あっ、学校も無理して行かなくていいんですよー。

 

 

「ひとりじゃない」のはあなたも同じ

なにしろ、不登校の当事者は小・中だけで12万人超もいるのです!
高校生まで入れると17万人。
ということは、その保護者・関係者・支援者もかなりの数いるということです。

 

どこかに必ず、あなたにとってジャストサイズでベストタイミングな場があるはず。

きっとあなたをエンパワーメントしてくれる人たちがいるはずです。

 

自殺に追い込まれそうになっている子、不登校の子に対してよく言われる「あなたはひとりじゃない」という言葉は、その保護者にもそのまま当てはまります。

 

どうか、ひとりでなんとかしようとしないでください。

 

「情報」と「仲間」。

 

それが、きっとあなたを助ける頼もしい武器になってくれます!

 

 

 

 

 

 

「わたしはそう思わないけど、世間はそう見るから」と言わないことに決めた

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鳥は「自由になりたい」と思いながら飛んではいません。ただ、あるがままである。自分を不自由にするのはただひとつ、自分だけです。

 

 

 

いきなり宣言します。

 

以前から「わたしはそう思わないけど、世間はそう見るから」という言い回しに、「いや、それは『わたしもそう思っている』と同義だろ?」と気付いてしまっていたわたくしgyogoです。

 

鼻の穴を膨らませてながらそう思っていたわけですが、かく言うわたくしがそう思っていた、ということが先日わかってしまったのでした。

 

 

「ゲシュタルトセラピー」という心理療法をご存知ですか?

 

通常のセラピーでは「過去」にフォーカスする場合が多いですが、ゲシュタルトセラピーは「いま・ここ」にある「からだと心」に何が起きているのかに本人が「気づく」ことにひたすら集中します。

 

分析や解釈、解説は一切しません。

 

 

最近では、漫画家の田房永子さんのコミックエッセイ『キレる私をやめたい』(竹書房)で紹介されて、にわかに注目を集めているようです。

 

「ようです」と言いながら、わたしもまさにそのひとり。

 

『キレる~』で紹介されていた百武正嗣さんの本をさっそく買い求め、長野県内でワークショップをやっていないかどうか調べてたどり着いたのが、「長野ゲシュタルト研究会」でした。

 

今年2017年1月に、ちょうど百武さんが長野にいらっしゃるというではないですか。

すぐに申し込みました。

 

はじめてのワークは、まさにセンセーションの嵐でした。

まわりの人はおろか、ファシリテーターすら見えなくなって、ひたすら自分の世界に没入する。

 

こんな体験は初めてで、なぜこんなシンプルな場でこんなことが起きるのか、本当に不思議でした。

そのときは「母との関係」をテーマにしたのですが、以降、母との間に境界線を引けた実感があり、母のことで頭がぐるぐるすることがなくなりました。

 

 

先日、3回目のワークショップに参加してきました。

「この春から夏にかけて、家族にいろんなことが起きて、今でも怒りや疎外感に支配されることがある」と話をしました。

 

長男の不登校のことに話が進みます。

 

 

 

そこでわたしは、気が付くと「マイノリティ」「世間」という言葉を何度も口にしていました。

 

ファシリテーターは「どういう意味で使っているの?」と尋ねます。

わたしは「全体の中で割合が少なくて、数が少ないという意味です」と答えましたが、「そういう一般論じゃなくて、あなたの中でどういうことを指しているの?」とさらに返してきます。

 

わたしは頭が混乱しました。

「えっ?  ただ数が少ないというだけの話なんだけどな……」

 

その後、わたしがやりたいこと・大切にしたいことに話が移りました。

 

それについて話をし、今感じていること、意識せずに出た仕草が語り掛けていることを翻訳し(「その腕はなんて言っているの?」等)……という具合に進んでいきました。

 

最後、ファシリテーターはわたしの目の前に並んだ「やりたいこと・大切にしたいこと」を指さしました。

 

そして「じゃあ、そこに『マイノリティ』という言葉を置くとしたら、どこに置く?」と尋ねます。

 

わたしは「ここには……どこにも置くところがありません」と返事をしました。

 

ワークは終了しました。

 

そのときにハッと気が付きました。

 

「わたしはまだ、世間の価値観から自由になっていない!」

 

 

・マイノリティをマイノリティと言って何が悪いのか。

・数の多寡の話で、事実を言っているだけじゃないか。

 

と考えていました。

 

でもそうではなかったんです。

 

・小学校低学年で学校に行かなくなった長男はマイノリティ。

・そしてその保護者であるわたしもマイノリティ。

……etc.

 

マイノリティというのは「事実」ではなく、「解釈」だったのです。

 

そしてその解釈の枕詞は「世間の中で」という言葉です。

 

ただ、学校に行っていない子どもがいる。

ただ、学校に行っていない子どもを持つ母親である。

 

ただそれだけのこと、でよかったのです。

 

「世間の中で」という枕詞をわざわざ付けなくてよかったのです。

 

その枕詞を付けたくなる心というのは「わたしはそうは思わないけど、世間はそう見るから」という心、つまり「わたしも世間と同じ価値観を共有している」ということだったのです。

 

移住してからこっち、わたしは「自由に生きたい」と願ってきました。

しかし、そう願うということは「今が自由じゃない」とはからずも告白していることになります。

 

なんだか可笑しくなりました。

 

わたしはもう、

 

「世間はそう見るから」

「自由に生きたい」

 

と言わないことに決めました。

 

すべてを「ただ、それだけのこと」として決断し、受け入れ、自由に生きていることを自分に許可します。

 

 

1年前、小学校の保護者文集に書いたこと

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ちょうど1年ほど前でしょうか。

当時長男が通っていた青木小学校で、保護者が作る文集の原稿依頼がありました。

 

青木小学校では、1年生、4年生、6年生(だったと思う)の保護者で文集を作る慣例があるようです。

当該の学年の保護者全員に原稿を提出させて、そこから文集担当のPTA役員が何本か選んで、文集に載せます。

(残念ながらわたしの原稿はボツでした。まあ、保護者の原稿としては異形の原稿だったので致し方ありません)

 

1年生の最後、文集でボツになった原稿も合わせて、全員分の原稿を冊子にしたものを渡されました。

 

お題は特になく、子どもとの関わりや子どもの成長などを保護者の目から書いてください、という感じでした。

 

前回の、スタジオジブリ作品についての投稿で、この原稿のことを思い出しました。

この原稿でも、宮崎駿監督の言葉に触れているからです。

 

1年前のわたくし、こんなことを考えていたようですよ。

 

 

 

希望のボール

                     一年一組 gyogo

 わが家は、今年の三月に青木村に移住してきました。同じ三月の末、わたしは十四年間勤めた会社を辞めました。

 出版社で、男性情報誌、女性誌、男性週刊誌の編集の仕事を経て、最後は児童書の編集をしていました。おもに、小学一年生から高校三年生までを対象とした読み物(物語、ノンフィクション)を編集していました。

 今の小学生は、親御さんが小学生だったときよりも本を読んでいます。「朝読」などで本に親しむ機会が多いためです。所属していた編集部のおとなりは青い鳥文庫の編集部で、ファンクラブに読書好きの子どもが集まってきます。年間二百冊、三百冊読む子はざらで、多い子で五百冊(!)も読むとか。そういうお子さんの家庭は、親御さんも読書家だったり、子どもには本を惜しみなく与えたりと、しぜんと本に親しめる環境が多いように見受けられました。

 児童書は、きびしい環境にある子どもをえがくことがあります。虐待にあっていたり、家庭が複雑であったり、本人や身近な人に何らかの障害があったり、マイノリティであったりとさまざまです。

 作る側の勝手な思いとして、現実にそういったきびしい状況に生きる子どもに届けたいという思いがいつもありました。ですが、実際にどれだけ届けることができているのか……。

 本一冊を読み切るには、慣れが必要です。また、本人が夢中になれる内容の本に出会うかどうかも大きいです。まして本は生活必需品ではありませんから、シビアな状況にいる人に手に取ってもらえる確率は、高くはないだろうと想像します。

 そもそも、それだけ強い魅力をもつ本をどれだけ作れているのか? と自分に問うと、うつむくしかありませんでした。

 そんなときに、担当していた作家の講演に出かけました。その作家は幼少期から継母に壮絶な虐待を受け、学校でもいじめを受け、文字通りどこにも居場所のない子ども時代を送っていたのでした。彼女が小学生のとき、ただひとつの楽しみだったのが、休み時間に学校の図書室に行って本を読むことだったそうです。本の世界が、つらすぎる現実からひととき、彼女を守ってくれたのでしょう。そんな彼女が長じて童話、絵本、児童文学の作家になったのでした。

 それ以来「投げるボールは数も種類も多いほうがいい」という思いを強くしました。本は子どもに投げるボール。どのボールがどの子に届くかわからない。だから、いろんなボールをなるべく多く投げたい。

 ずいぶん効率の悪い話です。たかが本一冊で人を変えようなんていう考えは、思いあがりかもしれませんね。でも、そういう力をもつ本があるのはたしかで、その人の心にジャストミートしたときに与えるインパクトは、想像をこえるものがあります。かく言うわたしも、自分の何割かは本によって育てられたと感じているので、そういう出会いの仲立ちができたらうれしい、と思って編集者になったのでした。

「風の谷のナウシカ」などを作ったスタジオジブリの宮崎駿監督は、「この世は生きるに値する」ことを伝えたくてあの数々の名作を世に送り出していたそうです。この世は、楽しいことやすてきなこともたくさんあるけれど、理不尽なこと、悲しいこと、怒りをおぼえることのほうが多いかもしれません。それでもなお、この世は生きるに値すると伝えたいのは、希望を捨てないということなのかなと思います。

 わたしはもう本を編むことはありませんが、この青木村で、ちがったかたちで〝希望のボール〟を投げられる人になれたらいいなぁ、と願っているところです。と同時に、いろんな人とのあいだで、〝希望のボール〟を投げたり受けとったりできるような関係を結べたら、とてもすてきだなと思っています。

 

 

 

自分の子どものことを正面切って書くのは、難しいです。

わたしは自分がいわゆる「いい母親」ではないという自覚があるので、人に読ませるものとして書くのはなおさら難しい。

 

それで、自分の前の仕事が児童書の編集だったのをいいことに、そこで感じたことを書くことにしました。

文集では、自分が担当した本の書影まで入れて、少しでも宣伝を……と、ちゃっかりしています。

思っていたより、わたしは編集者という仕事に愛着があったみたいです。

 

この文章、舌っ足らずなところもあるし、いいことを言おうと鼻の穴を膨らませている調子で、見ようによってはずいぶん偉そうですねー。

移住したてで、希望に満ちていて、ついでにけっこう肩に力が入っていたのも見て取れます。

状況があまりに変わってしまった今となっては、ずいぶん健気だなジブン、とも思います。

 

そんなこんなで気恥ずかしくはありますが、とはいえ、ここに書いたことに偽りはありません。

 

それは今も同じです。

 

誰とでも「希望のボール」を投げ合うことはできませんが、投げ合える相手がひとりでもいれば幸せじゃないか、と今は思うのです。