まだ学校で消耗してるの?

2017年5月より小2長男・脱学校につき、家族で「学校のない生活」を模索中

七・二十一 教育委員会との面談(第4回)

えー、第4回目の教育委員会との面談日でした。

 

今日は、第三者委員会を立ち上げるか否かの返事をする日です。

 

こちらはわたしと夫、先方は教育長、スクールソーシャルワーカー(SSW)、スクールカウンセラー(SC)という顔ぶれです。

 

結論から言うと、第三者委員会の立ち上げはしないことにしました。

 

要望書への回答等で学校や教育委員会側のスタンスもわかったし、なによりこちらに学校へ戻る意思がないので、これ以上やっても消耗するだけだというのがいちばんの理由です。

 

第三者委員会は、基本的にメンツを選べません。

人権意識があり、とことん追及する気概のある方が選ばれればよいのですが、それは運任せ。

十中八九、激しく消耗するのは目に見えているなあ……というのが正直なところです。

 

もちろん、解決はしていません。

証言の食い違いはそのままです。

 

要望書への回答も、こちらの質問に真正面から答えていない部分が散見されます。

 

教育長は何度も「寺西家の側に立ちます」と明言していました。

ならばあなたの仕事は、証言の食い違いを放置している学校を指導することでは? 

という思いも残っています。

 

相手に論理性も正義もないことは明白ですが、だからといって相手を変えることは容易ではありません。

 

であるならば「愛せなければ通過せよ」です。

 

……わたしも夫も、まだ精神的に克服したとは言い難い状態です。

加害児童やその親を見かけることがあると、やはり複雑な気持ちになります。

この状態で第三者委員会のことで消耗するのは、家族全体にいい影響はないだろうな、と考えています。

 

何より長男が、ふだんの様子を見たり、やりとりをしている限りでは、受けた傷を抱えながらも、もう前を向いているのです。

 

それで、これ以上はもうやらないと決めました。

 

教育委員会との面談も、こちらにとってはもう意味がないので、何か相談したいことや問題が起きたときにこちらからお願いするということにしました。

 

自分たちなりにやれるだけのことはやったつもりです。

それでも、これでよかったのかどうかは、今はわかりません。

 

今できることは、一日一日を積み重ねていくことだけです。

その先に「あの時点で学校とお別れしてよかった」と言える日が来ると信じています。

 

これからは、過去は過去として、前人未到の道を開拓してゆく日々です。

楽しみながら進んでゆくことこそが、わたしたちが生きている証になると信じて。

 

 

七・十一 教育委員会との面談(第三回)

f:id:gyogo:20170712134805j:plain

写真:今回開示・回答された文書です。個人名などが記されているので内容は伏せます。

 

 

 

やってきました第3回目の教育委員会との面談日。

 

今回は、先方は教育長とSCスクールカウンセラー、当方ははわたしと夫という顔ぶれでした。

 

今日は、先日出した要望書への回答をいただくことになっていました。

 

futoko.hatenablog.jp

 

まず、こちらが資料として開示をお願いしていた「学校から教育委員会へあがった報告書」と「児童に実施した記名式アンケート回答」は開示されました。

 

要望書にも、すべて回答がなされていました。

 

この段階で「黒塗り」や「開示拒否」などもあり得たので、まずは開示・回答そのものがなされたことにホッとしました。

 

その場で、夫とふたりで目を通します。

 

いくつか引っかかる点(感想)が出てきました。

 

 

感想1.本当に反省しているの?

アンケートの問い「今までに 自分がお友だちに いやなこと、かなしい おもいをさせてしまったことはありますか?」に「ある」として回答したのは2人だけ。
しかも、やった相手として長男の名前を書いていたのはそのうち1人しかいなかった。

……いじめた子は4人いるのにこの結果ということは、自分のやったことがわかっていないのではないか? もっと言うと、反省していないという可能性もじゅうぶんあり得るのではないか、という感想を持ちました。

 

 

感想2.証言の食い違いは重視しない?

要望書で「学校側が証言の食い違いが起きた段階で検証作業を止めた理由と、どのような収束を考えていたのか具体的な説明を求めます」という問いを設定。

この問いへの回答として、以下のような結論づけが。

「(いじめの再発で聞き取り、アンケートの結果)4名の児童は今回の事件にはかかわっていないと判断した。検証作業を止めたのではなく、4名の児童はかかわっていないと判断したためである。●●さん(注:当方)の主張されることと、平行線になってしまったと考えている。」

……ここから読み取れるのは

1.証言の食い違いの解消は重視しない

2.4名の児童の証言を採用し、目撃者と長男の証言はオミット(除外)する

3.4名の児童の証言のほうを採用した具体的な根拠は示されていない

ということです。

 

1については、こういう考え方はあるだろうし、その中において合理性はあります。

ただ、「証言の食い違いの解消は重視しない」という考え方は、倫理的・教育的にどうなのか? と感じるのが正直なところです。

狭義の合理性は認めるけれど、到底受け入れられない考え方です。

 

また、2と3は解消されないまま残ります。

 

 

感想3.担任の謝罪は限定的

同じく要望書で問うた「自身の責任について担任はどう考えているか」については、「現在、長男さんが長期にわたる欠席が続いていることに対して、長男さんとご家族に対して心からお詫びをしたいと思っています」という回答があり、謝罪は「長期欠席」に限定されている。

……あくまで自分の指導の不手際だとは認識していないことが読み取れました。

 

 

感想4.知らなかった事実

学校から教育委員会への報告書(不登校重大事態に係る調査報告)においては、こちらが知らなかったことがいくつか書かれていた。

……

1.1回目の聞き取りにおいて「4人とも最初はいじめを認めなかった」そうなのです。とするならば、2回目も「やっていない」というのはじゅうぶんあり得る話で、なぜ1回目のような突っ込んだ聞き取りをしなかったのか、かえって疑問がふくらむところです。

 

2.また、Aは長男から「デブ」と言われたり、バカにされたりしたということをいじめた理由として挙げており、これも初耳でした。長男から謝罪をしていないので、Aからすればいじめた側からの謝罪の席は「アンフェア」だと感じたとしても、無理からぬことだと思います。これは完全に憶測ですが、それがいじめの再発の遠因になったかもしれません。

さらに、このことを知らされていたならば、謝罪の席で長男からAに謝罪をさせていたことも付け加えます。

 

 

 

感想5.いじめの真相解明よりも子どもの成長?

いじめが再発して証言が食い違った後の校長との面談で「4名の児童はかかわっていないと判断した根拠は何か」というこちらからの問いに対しては、報告書では「小学校低学年期の児童における理解と記憶には曖昧さがあり、違いが生じて当然であること、自身の経験も含め全て子どもたちの今ある姿を信じていること、全ての子どもがよりよく成長していくことをまずは大事にしたい」と校長が説明した旨書かれていた。

……たしかにこういった発言がありましたが、今読み返しても、こういう判断でよかったのかという疑問は拭えません。

理解や記憶に曖昧さがあるのは大人でもじゅうぶんあり得ることです。

それに、ことは「いじめ」です。

「真相はこれ以上追及できない(しない)から、そこは目をつぶって、いじめを糧に成長してほしい」というのは、少なくとも被害者側にはとうてい受け入れられない理屈ではないでしょうか。

 

 

教育委員会への返事

学校側は学校側で理屈があることはわかりました。

ですが、その内容については受け入れることはできません。

 

学校側の理屈に沿えば

「あなた(長男)の証言は採用しない。あなたのような年齢では記憶や理解のあいまいさがあるから、(一回謝罪をしているのだから)痛み分けということで、そこは目をつぶってもらえないか。クラス内での加害児童との接触に配慮して、大人の目がなくならないようにして環境は整えるから、登校を再開してほしい」

と言われていることになります。

 

これで納得してほしい、というのはやはり無理があると感じます。

 

いじめで証言が食い違うなんて、そうめずらしいことではないはずです。

何が真相で、何が原因だったかわからないで、何をどうやって指導するつもりなのでしょう。

それ以上追及をしない、できないと諦めるなら、少なくとも教育者という看板は外してほしい。

心の底から疑問に思います。

 

表面的には対応できたとしても、根本はそのまま。

爆弾を抱えたままと同じです。

 

開示・回答してもらったものについて、これをもってさらにどうこうしたいということは今は考えられません。

 

言えることは、

学校には信頼に足る論理性がないということと、長男に対して「もう安心して学校に通えるよ」とはとても言えないということだけです。

 

教育長には、資料の開示と要望書への回答をしてくださったことについて、お礼を伝えました。

 

 

第三者委員会

教育長としては、今日は持ち帰ってもらって回答への返事はまた次回、と考えていたようです。

 

わたしたちがその場で返事を伝えたため、次のステップについて話がありました。

 

第三者委員会の設置です。

 

もちろん、あくまで選択肢であって、必ず設置するものではありません。

わたしたちが望めば、ということです。

 

第三者委員会は、弁護士、臨床心理士有識者、村の民生委員などで構成されます。

その人選は、弁護士なら弁護士会臨床心理士なら当該の協会などに依頼してお任せするそうです。

人選の結果は、もちろんわたしたちにも知らされ、承諾を得てからスタートということになります。

 

これはさすがにすぐに返事ができる内容ではなかったので、持ち帰って後日返答することとなりました。

 

 

終わってみて

学校側の理屈は、「考え方の違い」で済ませてほしくない理屈だと感じました。

これが通るならば、正義はないことになります。

 

都合の悪いことは「ご指摘にはあたらない」ですべてはねつけている安倍政権に似ていると感じました。

 

先日、教育長からの提案された「学校へ戻ってきてほしい」というプランについて、この面談に向かう前に長男に話しました。

 

もちろん、余計な色はつけずにです。

(当然ですが、誘導したくなかったので)

 

長男の答えは、想像を超えていました。

 

「それは、みんな次第じゃない?」

 

このひとことがすべてを物語っています。

 

 

次回の面談までに、第三者委員会の設置を要望するかどうか、よくよく考えたいと思います。

 

以上、現場から報告を終わります。

 

 

『週刊少年ジャンプ』の性表現問題がモヤモヤする

f:id:gyogo:20170707140427j:plain

写真:わたしが編集者時代に担当したティーンエイジャー向け性教育本『おとなになるためのベストアンサー 71のQ&A みんなこうなるの?』写真:ヤン・フォン・ホレーベン、文:アンチェ・ヘルムス、監修:北村邦夫、訳:畑澤裕子(講談社

 

 

 

 問題は「表現の自由」なのか?

ネット界隈で話題になっている『週刊少年ジャンプ』の性表現。

ツイッターを見ていても、すっごくモヤモヤします。

 

(別の媒体になりますが)少なくともわたしは、『週刊少年マガジン』で人気の『七つの大罪』において、主人公がカジュアルかつ脈絡なく女性の胸を揉む描写は、はっきりと不快でした。

 

これを「表現の自由だ!」と言われても……むしろ、バカにされているような気持ちになってしまいますよ。

 

 

 

「反復学習」はあなどれない

「現実世界で犯罪や人権侵害になる性表現が即、性犯罪につながる」という考え方は雑ぱくすぎますが、こういう表現に「繰り返し触れる」ことの「効用」に対して楽観的な人が多いのは、怖いと感じています。

 

犯罪には直結しないけれど、人権侵害的なふるまいを醸成してしまう可能性について、もっと真剣に考えたいところです。

 

「強姦も性行為のひとつ」と認識している大学生がリアルに存在します。

「生理は処女じゃなくなると来る」と理解している大人がリアルに存在します。

 

これらは「反復学習」と「正しい知識の欠如」のコンボではないでしょうか。

 

 

 

日本での女性、性犯罪の扱われ方から見えてくるもの

日本はたしかに、データ上では外国と比べて性犯罪が突出して多くはないようですが、セクシャル・ハラスメントが少ないわけではありません。

 

ジェンダーギャップランキングもどんどん順位を下げています

(これは性犯罪、セクシャルハラスメントと直接関係のない指標ですが、その国で女性がどう扱われているかを端的に数値化しているので、参考にはなります)

 

準強姦罪で実名、顔を出した詩織さんの告発に対して、ここまでバッシングが繰り広げられることからも、「日本において性犯罪がどう扱われているか」は端的に伝わってきます。

 

NHKのテレビ番組「あさイチ」で、性犯罪被害者へのバッシングが多数投書されていることからも、以下同文。

 

110年ぶりの刑法改正においても、「はっきりした抵抗や、暴行や脅迫を伴わないと強姦だと認めない」という点は解消されなかったことからも、以下同文。

 

性表現を云々せずとも、こういう客観的事実、社会状況から人々が「学習」するものは、想像にかたくありません。

 

ましてや「性表現」を「反復学習」して「性的人権感覚、性の価値観・感性」にまったく影響がない、とはどうしても思えないのです。

 

 

 

規制すればいいということでもなさそうだ

頭の中で考えることはどこまでも自由。

そこを取り締まることについては、断じてNOです。

 

だから、「こういう表現を規制すればいい」は違うと考えます。

 

問題なのは、「性表現」ではなくて「セクシャルハラスメントや性暴力を肯定、楽しむ表現」が、「男子にはこういうのが必要」という言説で市民権を得ていることではないでしょうか。

 

そういう表現が受け入れられている社会で、「これはフィクションだ」といくら言っても誰も聞かないんじゃないでしょうか。

 

 

 

性教育は3歳から、がスタンダードになってほしい

だから、やっぱり「性教育」だよなーと思うのです。

 

保護者の出番ですよ。

 

学校で教える性教育「ラスボスと戦うのに木の棒しか渡さない」ようなものです。

運よく、熱意と知識と行動力のある教師がいれば、お子さんは充実した性教育を受けることができるでしょう。

でもそれは、ほんの一握りです。

 

「寝た子を起こすな」「自然に知ることだ」では「猛獣がうろつく谷に丸腰で突き落とす」のと同じです。

今はネットがあるので、より過激な性表現や悪意ある大人に、簡単にアクセスできてしまいます。

性教育については「教えないのは罪」という時代なのです。

 

だから、丸投げしてはいけません。

 

保護者が、3歳くらいから、機会をとらえて、継続してやるのがベストです。

 

子どもは、小さいうちから「赤ちゃんはどこから来るの?」と疑問を持ち、どこかで「女の子はこういうもの、男の子はこういうもの」ということまで学習していきます。

 

こういうことをいきなり聞かれると「ウッ」となりますよね。

でもここが踏ん張りどき。

 

その子の発達に合わせて、事実を、包み隠さず、ネガティブな色をつけずに伝えます。

 

はぐらかすと「これは聞いてはいけないことなんだ」と学習します。

疑問にきちんと答えると子どもなりに納得します。

 

子どもの発言をきっかけに「どうしてそういうふうに思うの?」と会話を重ねることで、性に対しての考え方が少しずつかたち作られていきます。

 

このとき、何かの規範を元に話をするのではなく「わたしはこう思うよ」という「Iメッセージ」がおすすめです。

 

大事なのは、価値観を押し付けることではなく、考えるくせをつけることなので。

 

千里の道も一歩より。

この積み重ねこそが、のちの「性的人権感覚」「性の価値観・感性」のベースになります。

 

性教育の絵本や本には、使えるものがたくさんありますので、積極的に取り入れてみてください。

(ぜひ、保護者の方ご自身で中身に目を通して選んでください)

 

 

 

結局は大人が性をどうとらえているか

もちろん、わたしだって元からこういうヒトだったわけではありません。

 

高校時代は「婚前交渉はいけない」と真顔で言うヒトでした。

性についてタブー感は強いほうでしたよ。

 

いろんな「学習」のおかげで、自分が性をどうとらえているかを見つめなおし、考え方を変え、表現ができるようになったのです。

 

性(セックス)にはいろんなイメージがあります。

 

恥ずかしいもの。

エロいもの。

隠すべきもの。

いけないもの。

楽しいもの。

自分を解放するもの。

すばらしいもの。

神秘的なもの。

最高!

暴力。

苦痛なもの。

楽しくないもの。

怖いもの……。

 

いろんなイメージがあって、どれも、その人にとっての真実。

 

ただ、子どもに伝えるときに、どういうイメージで手渡したいか? と問われれば、わたしは断然「楽しいもの、すばらしいもの」と伝えたいです。

 

そんなわけで、そのへんは自分会議をしながら、自分が納得できるように考え方を変えていったのです。

抵抗感が生まれてきたら「なんでそう思うの?」「何が問題だと思う?」と自分に問いかけていきます。

そうやって、ひとつひとつ解きほぐしてきました。

 

 

 

セックスはなんのためにある?

セックスへのイメージを広げるためには、セックスの意味の多様性がいいヒントになります。

 

ちまたでセックスというときに多くの人がイメージするのは「コマーシャル・セックス」ではないでしょうか。

「商業的に消費される性」のことです。

ポルノや風俗などの「性産業」と言い換えるとわかりやすいですかね。

 

子どもに性教育するときに大人が戸惑うのは「セックス=コマーシャル・セックス」と思い込んでいるからではないでしょうか。

 

当然、セックスが持つ意味はそれだけではありません。

 

・命をつなぐ「リプロダクティブの性」

・他者との究極の交流である「コミュニケーションとしての性」

・自分自身の性を楽しむ「セルフプレジャーの性」

 

セクシャル・マイノリティを語るときによく出てくる言葉も役に立つでしょう。

・「性自認」……心の性別。自分の性別をどう認識しているか

・「性的指向」……どんな性別の人が好きなのか

・「生物学的性」……身体的な性別

・「ジェンダー」……社会的な性別

 

そうやってみていくと、セックスにまつわる言説の「どういう側面が」「どういう場合に」問題になるのかがわかりやすくなります。

 

そして、セックスをひとつのイメージだけで考える必要がないこともわかります。

 

コマーシャル・セックスに目くじらを立てる必要もないし、リプロダクティブの性を過度に崇める必要もなくなります。

 

 

 

子どもに伝えるときの組み立て方

子どもに伝えるときは、

わたしだったら、まず「リプロダクティブの性」をベースにします。

 

(ここから先は発達に応じてですが)

その上に、「コミュニケーションとしての性」「セルフプレジャーとしての性」を置きます。

 

それとは別に、世の中には「コマーシャル・セックス」があることも伝えます。

それは「ファンタジー」「フィクション」であることも忘れずに。

 

これに、

「自分がどんなふうに扱われたいかを考えると、相手とどう接すればいいかわかるよ。痛いことや嫌なことはされたくないよね」

ということと、

「イヤなものはイヤ。それ以外の意味はないよ」、

そして「避妊」と「性病予防」の知識を伝える……。

 

ほかにも伝えたいことはたくさんあるけれど、大枠はそんな感じで考えています。

 

これは、子どもに伝える「建前」ではなくて、自分のためでもあります。

心から思っていないことは見抜かれます。

伝える内容も大事ですが「どう伝えるか」は恐ろしいほど雄弁ですから。

 

言葉よりも「態度、しぐさ、声色、しゃべり方」といった言葉外の情報のほうが、伝わりやすいのです。

 

だから、「この考え方に自分は納得ができるか?」ということは、いつも確認しています。

 

 

 

結論:まずは足元から

そんなわけで、やるべきことはまず足元から。

 

・自分にとっての性を見つめなおし、再構築する。

・「セクシャルハラスメントや性犯罪を肯定したり、楽しんだりする」言動や表現に違和感を感じたら、隠さない。

 

いやあ、地味ですね。

 

でも結局、こういうことって、どこかの誰かが劇的に変えてくれるものじゃないですよね。

自分を変えるのがいちばん早い。

 

「性」は生涯、生まれてから死ぬまで、わたしたちに寄り添い続けます。

何歳になったら「性」がはじまって、何歳になったら「性」がなくなる、なんてことはありません。

 

だとしたら、だれにとってもできる限り人生を豊かにするものであってほしいし、心地よく付き合っていけたら最高ですよね。

 

週刊少年ジャンプ』が提起した問題は、ほかにもいろんな切り口があるので(売れる=正しいという出版業界の常識とか)この限りではありませんが、 今回は性教育を切り口に考えてみました。

 

不登校は親のせい?

f:id:gyogo:20170629153312j:plain

写真:長男が3歳か4歳のときかなー。よく行っていた新江ノ島水族館にて。長男ももうすぐ8歳。大きくなるのはあっという間だね。

 

 

 

長男が学校に行かなくなって、幸い、第三者から無神経な言葉を頂戴することはありません。(今のところ、ね)

 

 

ただ、ごくごくたまに、「親子関係が……」的なご指摘をいただくことがあります。

 

 

「親御さんが構いすぎなのでは?」

 

 

とかね。

 

 

「うーん、わたしが子どもと適切な距離感をとれているのかどうかは、わたしにはわからないなぁ……」

 

 

というか、原理的に無理。

 

 

じゃないですか?

 

 

そこまで正確に客観視できる人がいるのかしら?

 

 

日々、「おっ、いい感じ?」「うわ~、わたしダメ親だ~」を繰り返しながら、少しずつ、それこそ人生ゲームのように(前進のみでなく、停滞もあれば後退もある)進んでいくものじゃないのかな、と。

 

 

親子関係は流動的で、子どもが成長するなら、親も成長する。

ある一地点を切り取って、ああだこうだ言われるのは……悲しいものです。

 

もっと長い目で見てほしい。

 

子どもの成長を信じているなら、親の成長の可能性もあたたかい目で見守ってほしい。

 

人間、いくつになっても成長できるのですから。

 

 

あと、これに関連して思い出した英語のことわざが。

 

 

If it ain't broke, don't fix it.

(壊れていないものは直すな)

 

 

それにしても。

 

 

そのむかし、不登校の原因が「子どもの性格の問題」「親の養育の問題」に一元的に帰されていた空気感を、すこしだけ追体験できました。

 

 

とまあ、もやもやした気持ちを知人にうちあけたら、「至言!」と言いたくなるメッセージが返ってきました。

 

 

(ホームエデュケーションに携わっている知人からの言葉として)子育てが、ちょっとばかし良すぎたから学校に違和感を持つんじゃない?

 

 

これくらいポジティブじゃなくっちゃね。

 

 

要望書の中身をアップします

要望書が読めないことがわかったので、こちらにアップしておきます。

 

 

 

青木村教育委員会

○○○○教育長

                 平成29年6月27日(火)

 

 今回の長男・○○を被害者とするいじめ問題について、いくつかお伺いしたいことがあります。

 日が経つにつれ、なぜこのような事態に至ってしまったのかという疑問は膨らみ続けています。

 遠くない将来、今より成長した○○が「なぜあのとき、大人たちはいじめを解決しようとしなかったのか。なぜ、ぼくを助けてくれなかったのか」と思い悩む時がくる可能性は十分にあると考えます。そのときに、保護者として明確な説明ができるようにしておきたいと考えています。

村内での教育の方針・施策を決定している教育委員会から、「村の宝あおきっこは村で育てる」という言葉に恥じない、明確かつ具体的なご回答をいただきたいと存じます。

時間の経過とともに、検証等が困難になることは言を俟たないところであります。

以下の項目について、学校側に事情聴取をしたうえで、7月11日(火)までに文書によるご回答をお願いいたします。

 

1.検証の前提として、青木小学校から青木村教育委員会へあがっている報告書と、記名式アンケートの書式、回答の開示を求めます。

 

2.学校側が、加害者、被害者、目撃者の証言の食い違いが起きた段階で検証作業を止めた理由、そして、そこを解決しないままでどのような収束を考えていたのか、具体的な説明を求めます。

 

3.担任の○○先生はこの一件についてご自分の責任をどうお考えなのか、具体的に教えてください。

 

4.今回の事態は、文部科学省が「いじめ防止対策推進法」で定義している「いじめにより当該学校に在籍する児童等が相当の期間学校を欠席することを余儀なくされている疑いがあると認める」事態に明確に該当すると当方は認識しています。青木小学校、青木村教育委員会として、今回の一件を「不登校重大事態」として認識をしているかどうか教えてください。

 

5.今回の一連の事態を、青木村教育委員会としてはどうとらえているのか、具体的な説明を求めます。

 

6.スクールソーシャルワーカー(以下SSW)には、当事者から聞き取りをし、問題を明確にし、調整をしながら解決の場を設定する等の役割もあります。なぜ、もっと早い段階(例えば、当事者間の証言の食い違いが起きた段階)で学校側はSSWを活用しなかったのか、その理由をお聞かせください。

 

7.青木村教育委員会としての「学校でのいじめに対する指針・対応」「不登校についての指針・対応」について具体的な説明を求めます。

 

                長野県小県郡青木村○○○○○○

                    どびさん・gyogo

六・二七 教育委員会との面談(第二回)

f:id:gyogo:20170628143405j:plain

写真:この日のために、できる限り「不登校」や「いじめ」に関する文部科学省の資料、法律を用意しました。法律は、知らないより知っていたほうが確実に武器になることを実感。食わず嫌いで触らないのは損です。学校でも、道徳教育やるなら法学教育をやったほうが絶対いいですよ。

 

 

 

やってきました6月27日。

 

いよいよ決闘の話し合いのときです。

 

括目して待っていてくださったみなさん、お待たせしました。

 

 

 

今回はですね、こういうものを用意していきました。

 

f:id:gyogo:20170628143505j:plain

 

要望書ですね。

(全文はこちらから↓)

要望書の中身をアップします - まだ学校で消耗してるの?

 

 

今日は、教育長、スクールソーシャルワーカー(SSW)に加えて、スクールカウンセラー(SC)も同席すると告げられました。

 

 

しかも、教育長から「提案がある」と言うではないですか。

 

 

わたしたちからも要望がある旨を伝え、まずはわたしのターンだっ!

(長男のカードゲーム熱が伝染るんです……)

 

 

最初に、この1か月の長男の様子を伝えます。

 

 

いわゆる座学もやりながら、外にどんどん出かけていること、不登校の当事者や保護者の会に参加したこと、友だちと遊んでいることなどを伝えました。

 

 

先方としては、学校に行っていないことでデメリットが生じているのではないかという懸念があるでしょうから、「ぜんぜんそうではないです。むしろ本人はほっとしていきいきやってます」ということが伝わるように話します。

 

 

そして、要望書と、一連の経緯を時系列で整理した資料を渡しながら、なぜこういうものを用意したのかを説明します。

 

 

教育長は少々面くらいながらも、「きちんと回答します」と約束してくれました。

そして今回の事案が「いじめによる重大事態」と認識していることも明言しました。

 

 

そして、先方からの提案です。

 

 

「長男くんの<遊び>の保障をいちばん心配しているんです」と教育長が切り出します。

 

 

遊び?

学びじゃなくて?

遊びはじゅうぶんやってるんだけど……。

 

 

話が見えないと思いつつ、聞きます。

 

 

「第一段階として、長男くんが図書館に行っているときに、SCとの信頼関係を作っていくようにしたいと考えています」。

 

 

「あくまで、長男くんが承諾したらという前提ですが」と付け加えつつ、SCの方と話をしたり、散歩をしたり、これからの季節ならいっしょにプールで遊んだり……ということをイメージされているようです。

 

 

そして、教育委員会としては、長男くんに最終的には学校に帰ってきてもらいたい、と考えています」と言うではありませんか。

 

 

「ひょっとして話が通じていない?」と思いつつも、まあ、教育委員会は立場的にそうだよね。

(「学校に戻す」ことが不登校の対応の一義ではないと文科省は言っているはずなんだがなー)

 

 

「第二段階として、学校に相談室という部屋があるので、そこでSCといっしょに過ごしてもらいます」。

 

 

相談室というのは、いろんなおもちゃや、箱庭療法用の砂場とさまざまなミニチュアが置かれている部屋なのだそうです。

わたしは過去に精神分析を受けたことがあるので、だいたい想像がつきます)

 

クローズドで安全な場所で、本人がのぞむお友だちなら入室できるそうです。

 

ここに慣れて、もっと大勢のお友だちと関わりたいとなったら、体育館などで遊ぶ……そして最後は教室に、という流れで考えているようです。

 

 

「ついては、その相談室を親御さんがぜひ見学しませんか? なんなら今からでも」と言われ、今度はこちらが面くらってしまいました。

 

 

もちろん「必要なときが来たら」と丁重にお断りをしました。

 

 

すると教育長は、

 

「じつは……相談室の見学の際に、校長と教頭、担任から謝罪をしてもらう機会を設けようと思っていたんです」

 

と告白するではありませんか。

 

 

わたしは

 

「わたしたちも今、学校自体に足を踏み入れる気にとうていなれないのです」

「仮に今の提案を長男が承諾したとしても、また学校側から謝罪を受けるとしても、すべてはこちらの要望にご回答いただいてからの話ではないでしょうか」

 

と答えました。

 

 

まあ、当たり前ですよね。

 

 

わたしは、なぜ学校側の対応が尻切れトンボに終わった理由をこんなにも知りたいと思っているのかを説明しました。

 

 

・いじめを未解決のまま放置するのは、だれにとってもメリットがない。

・誰かが思い違いをしているならば、その思い違いがわかればそれで解決する。

・いじめた側が嘘をついているならば、指導しなければならない。「嘘が通る」経験をさせることは、その子にとっても、周りにとってもいいことはひとつもない。

・長男が嘘をついていたとしても、なぜ嘘をついたのかを明らかにして、やはり「嘘はいけない」と指導しなければならない。もちろん、その場合は親であるわたしたちが一義的にやらないといけない。

・証言が食い違ってきたということは、解決のハードルが上がっているということで、簡単ではないことは百も承知している。

・学校にも、本音と建前があるのはわかる。それでも、教育現場で正義を貫かなければ、どこで正義を貫くのだ? と思っている。

・大変でもやらなければいけない局面なのではないか? 

 

 

われながら、これ以上マーベラスな説明はできないと思いましたよ。

 

 

教育長はどうやら、要望書にどう答えればこちらが納得するかを測りかねているようでした。

 

 

「要望書に答えて、それでどうするんですか?」と聞かれたので、「それで納得ができればそれで結構です」と答えました。

 

 

それでも教育長は釈然としない様子でした。

 

SCさんが「親御さんは、謝罪とか解決とかではなくて、ただ事実を知りたいだけじゃないんですか?」と発言したので、わたしは「そうです、そうです」と首をぶんぶんタテに振りました。

 

 

こちらからすると、学校側の対応がコロッと変わったのはまるでブラックボックスです。

 

 

もしかしたら、「いじめた側の保護者から強烈なクレームがあった」かもしれない。

 

 

また、教育者としては口が裂けても言えない心の動き(めんどくさくなった、とかね)があったとしても、教師とて人間ですから、別に不思議ではない。

 

 

ただ、それを知りたい、というだけなんです。

 

 

それをもってさらにケンカを売りたいとか、出るとこ出るぞとは考えていません。

(まあ、対応や回答がアレな場合は県の教育委員会に持っていきますけど)

 

 

どうやら、校長も教育長も、こちらの意図と違う理解をしていたようだということがわかりました。

内容はともかく、話がわかってもらえてよかったです。

 

 

最後に、

「義務教育を受ける場は法律でも特定していませんが、青木村において、学校以外での学びも教育委員会が包括しているという認識でよろしいですか?」と尋ねました。

 

 

教育長は、「もちろん、そのつもりです」とこれまた明確に答えてくださいました。

 

 

よかったよかった。

「学校に通わないつもりならシラネ」となられちゃ、困りますからね。

 

 

あとは完全に余談ですが、

 

フリースクールみたいな学校の運営をしたら、すごい差別化になりますから、移住者も増えて税収も増えるんじゃないですか?

・アクティブラーニングとか、インクルーシブ教育とか変化はありますけれど、結局学校の大枠が変わらないから、全体としてはあまり効いていないですよね。大枠をはずしたほうがいいんじゃないですか?

・軍隊式の名残がある今の学校の有りようは、これからの時代には対応できないんじゃないですか。

 

と、伝えておきました。

 

 

ほとんど伝わらないだろうなーと思いつつも、こういう話は機会があればいつでもどこでも何回でも話したほうがいいと思っているので、空気を読まずに話しましたよ。

 

 

そんなわけで、想像していたよりはいい方向で面談を終えることができました。

 

 

しかし、「学校に戻し」たいんだなー。

長男が「行きたい!」とならない限り、学校に通わせることはないと言っているのに……!

 

 

SCさん、どういう方が存じ上げませんが、グッジョブでした。

 

 

SSWさんは、東信エリア全体を巡回している方なので、いろんな教育委員会を見ているそうです。

青木村教育委員会はかなり対応してくれる、話が通じやすいということでした。

 

 

少しは期待してもいいかな?

 

 

いやいや、油断は禁物。

期待も諦めもせず、回答期限の7月11日(火)まで待つとしましょうか。

 

 

今度はもう括目しなくていいんで、みなさまもごゆるりとお待ちください。

 

 

以上、現場から報告を終わります。

 

 

東京シューレの方の話を聞いてきたよ!<後編>

f:id:gyogo:20170628130633j:plain

写真:帰りの新幹線「あさま」号から見た東京の夕景。こんなにきれいな夕日は久しぶり。

 

 

 

 

長らくお付き合いいただいて、ありがとうございます。

これで「東京シューレの方の話を聞いてきたよ!」シリーズは終わります。

 

 

 

――不登校の原因に変化はありますか?

 

野村さんの実感では、あまり変化はないそうです。

 

 

ただ、いじめが原因の場合、「ネットがある分、今のほうがつらいかもしれない」ということでした。

 

 

たしかに、ネット空間にはいつまでも残るし、加害が見えにくくなる、生身を伴わないからより苛酷になりえます。

スマホやPCを所有する年齢以降のいじめは、本当に難しいですね。

 

 

ただ、そこを保護者がきっちり押さえて、いじめを白日の下にさらして解決したという実例を聞いたことがあります。

 

その保護者は、いじめになる前から、子どもと仲のいい子が家にくると、LINEでつながるなどしていたそうで、そのことがいじめ解決のキーになったようですね。

 

 

新しい原因として、発達障害が2000年代から増えてきたそうです。

 

 

ただ、発達障害のお子さんをシューレで見ていると、「学校が合わないんだね」と感じることはあっても、特にどうということはない感じだとか。

 

 

シューレの場合、みんなが好きなことをやっているので、相対的に、発達障害のお子さんの振る舞いが目立たないのではないかと、野村さんは分析されていました。

 

 

ここにも、大きなヒントがあるとわたしは感じました。

 

 

 

――運営において経済的な側面はどうされていますか?

 

フリースクールは無償ではないので、通わせる側としては、お金がかかります。

 

 

東京シューレは月々4万5千円の会費がかかるそうです。

ただ、この会費は30年値上げしていないとか。

 

 

なにより、経済的な理由で入れないということは極力なくしたいという思いがあり、「まずはご相談ください」ということです。

 

 

過去には、生活保護世帯のお子さんの入会を、ソーシャルワーカーと連携して実現させたこともあったそうです。

 

 

運営では、金銭面のことを担当している委員会があり、その中で適宜話し合っているそうです。

 

 

公的な援助があれば、フリースクール無償化も夢ではありません。

 

義務教育は無償(まあ、実際はそうではないですが)憲法でもうたっているのですから、学校以外の場の学びの無償もぜひ保障してほしいですね。

 

 

 

――「どうしても学校に通わせたい」という親への対応は。

 

まず、親御さんの話をよく聞くそうです。

気持ちを受け止めることが第一、ということですね。

 

 

その上で、「どうして学校に通わせないといけない、と思うんですか?」というふうに、丁寧に解きほぐしていきます。

 

 

それでも、「どうしても学校に行かせる」というケースはあるのだとか。

 

残念ですが、それは仕方のないことです。

 

シューレのスタッフに権限はないし、根っこは「学校に行かせなければならない」と思っている親御さんの問題ですから。

 

 

ただ、言うまでもなく、お子さんにはきつい状況になります。

もどかしいですね。

 

 

 

――義務教育課程の場合、卒業はどうなるのですか?

 

一日も通わなかったとしても、今は、ほとんどの学校で卒業はさせるそうです。

 

 

ただ、卒業させるかどうかは校長の裁量。

ときどき、「一日も来ていないのに卒業させるわけにはいかない」という先生もいるのだとか。

 

 

そういう場合は、シューレのスタッフが同席するなどして話し合いを持つことで、たいていの場合は解決するそうです。

 

 

弁護士に同席してもらうと、急に態度が変わったなんていう話も。

 

 

 

……野村さんの22歳のお子さんは、出生時に仮死状態になり、脳性麻痺の状態で成長されたそうです。

 

 

そのことで、野村さんが思い詰めていた時期もあったそうです。

公園で、わが子と同じ年ごろの子が歩いているのを見て、「うちの子はどうして歩けないんだろう」と思ってしまう……。

 

 

「だから、不登校のお子さんを抱えた保護者の方の気持ちがよくわかるのです」とおっしゃいます。

 

 

いちばん思い詰めていたときに、「ひとりで育てなくていいんじゃない? みんなで育てればいいよ」と言われたことで、ずいぶん気持ちが楽になったそうです。

 

 

不登校も同じ。

いや、子育て全部がそうじゃないかな。

 

 

ひとりで、家族の中でなんとかしようとするから、しんどくなる。

いろんな人の手や胸を借りていけるといいですよね。

 

 

最後、不登校は生き方」とおっしゃっていたのが印象的でした。

 

 

不登校」という言い方は、通学を前提としていて、それができない(不)という意味合いだから、何かもっと違う言葉はないか、と考え続けていますとおしゃっていました。

 

 

わたしもそう思います。

「脱学校」もいいんですが、そこまで根本的なところまでいかず、もうちょっとフラットなニュアンスの――学校もそれ以外の学びもシームレスになるような――言葉がほしいと思います。

 

 

山あり谷ありなのは、学校に通っていても通っていなくても同じ。

「これがわたしの(ぼくの)生き方」と胸を張りたいですね。

 

 

 

*********************************

 

いっしょに上京した長男は、大好きな友だちとたっぷり遊んで、帰りはほっぺたが赤くなっていました。

 

 

待ち合わせした駅の構内で、友だちと追っかけっこをしていたから無理もありません。

 

f:id:gyogo:20170628131207j:plain

写真:ほどほどにしとけよー。

 

 

いろんな人に支えられている。

勇気づけられている。

 

 

そんなことを感じた一日でした。

 

 

 

 

東京シューレの方の話を聞いてきたよ!<中編>

 f:id:gyogo:20170628104519j:plain

写真:「東京シューレ」のパンフレット。33年の蓄積はすごいですねー。 

 

 

 

前編から続きます。

 

 

33年続く東京シューレの活動はいろいろです。

 

フリースクールが3か所(東京都王子、新宿、千葉県流山)

・札幌の高校と提携した高校コース

・ホームシューレ

・シューレ大学

東京シューレ葛飾中学校

 

 

フリースクールは、ビル1棟、もしくはビルの一室を借りて運営しています。

 

 

6~20歳が対象で、初等部、中等部、高等部と分かれていて、それぞれに、プログラムもありつつ、個々人でやりたいことをやるというスタイルです。

進学へのサポートもあります。

 

 

「自己決定」という自由を尊重して、それに伴う責任も学んでいこうと明言しています。

 

 

当然ですが私服で、ピアスをしている小学生の女の子が印象的でした。

 

日本だとまだ違和感が強いかな? 

でも、本来、何を身に着けるかは自由なはず。

 

そういうことにも気づかされる映像でした。

 

 

週1回、子どもとスタッフがミーティングをしている姿がいいなーと感じました。

 

学校にも生徒会とか児童会とかありますが、正直かたちだけですよね。

子どもと大人が対等に学校を運営しているわけではありません。

 

東京シューレは成り立ちがそもそも子どものニーズから出発しています。

だから、運営も子どものニーズに合わせて柔軟にすり合わせることが自然とできているのだと思います。

 

 

保護者会も毎月あって、保護者もフリースクールでの子どもの育ちをバックアップするように関わっています。

 

 

そのほかについては、ご興味があればホームページなどをのぞいてみてくださいね。

 

フリースクール東京シューレ

 

 

このあと意見交換の時間に移りました。

 

 

となりの方と「感想」と「質問」を伝え合うスタイルだったのですが、わたしのおとなりさんだったSさんが面白いことをおっしゃっていました。

 

 

Sさんの中学時代、男子は丸刈りを強制させられていたそうです。

そう聞くと、「ザ・管理教育」でさぞかし暗黒の中学時代……を連想したくなるのですが、さにあらず。

 

先生は、言うべきときはビシッと言うけれど、あまり重要ではないことについてはうるさく言わない。

 

なにより、ちゃんと話ができる関係だったということでした。

 

「だから、中学時代は楽しかったというふうに記憶しているんです」と。

 

 

形だけで決まるわけではない好例です。

丸刈り強制はいただけないけれど、いい中学時代を送られたことは本当によかったなーと感じました。

 

 

Sさんからはこんな質問が。

「大人が重要なんじゃないかと思うんですが、シューレでは大人のスタッフはどんなふうに子どもと接するように心がけているんですか?」

 

 

野村さんの答えは、「対等であるということです」。

 

といっても、すべての子どもに同じ対応をするという意味ではなく、その子やその時の状況で変化していくものという前提のようです。

 

その子がどう感じているか? どう考えているか? にフォーカスしていく。

あとは、子どものことを信じて接する。

 

 

例えばある子が「勉強したい」と言い出したとします。

 

このとき、言葉だけをとらえるのではなく、どういう気持ちからその言葉が出ているかを見るのだそうです。

 

本人が心からそう望んでいるのであれば、いざ勉強をはじめてもスムーズに進みます。

 

しかし、実は親から勉強するように言われているとか、本人の焦りの気持ちから発せられているとしたら、なかなかうまくいかないそうです。

 

 

こんなふうに接してくれたら、子どもは安心できますよね。

大人のわたしでも、こんなふうに接してもらえたら、すごくうれしいです。

 

 

私からはこんな質問をしました。

「シューレでもいじめが起きることはあるんですか?」

 

 

あります。

「バカ」「死ね」と言われた。

関係が悪化して嫌いになる。

ゲームの貸し借りでもみ合いになる……

 

シューレには、常に新しい子が入ってくるし、いろんな子がいる。

だから、トラブルはあって当たり前という前提で考えています。

 

大事なのは、どうフォローするか。

 

当事者たちととことん話し合うのはもちろんですが、その場にいた目撃者もフォローします。

 

その場、もしくは帰宅後に電話をして「だいじょうぶ? イヤな気持ちにならなかった?」というようにフォローするそうです。

 

この、目撃者へのフォローというのは、言われてみれば確かにという視点でした。

 

 

東京シューレの映像を見て真っ先に感じたのは、「これが公教育のスタンダードになればいいのに」ということです。

 

 

子どもにフリーハンドでやらせることへの不安感は強いです。

かく言うわたしも、そこからまだ完全に自由にはなっていません。

 

 

東京シューレであっても、「今の自分には合わない」と去っていく子どもは当然います。

 

 

ユートピアはどこにもないし、だれもがOKという場もありえない。

 

 

でも、軍隊式の発想や慣習がいまだ残り、集団行動を第一に課せられる学校よりは、ずっといいんじゃないでしょうか。

 

 

学校は、基本的に管理教育です。

 

その根っこにあるのは

・子どもは不完全な存在だから教え導かなければならない

・自由にさせると何をするかわからない

という「不安感」「不信感」です。

 

 

これじゃ、うまくやるのはかなり難しいですよね。

 

大人も「不安」や「不信」に根差した人間関係や組織がうまくいかないことはよく知っているはず。

 

子どもだって同じです。

 

 

そもそも論で言ってしまうと、学びの場が、今のような「学校」という形式しか社会的に認められていないことがいちばんの問題だと感じています。

 

通学式、通信式、家庭学習式、寺子屋式など、いろんな形式がフラットに並列しているといいですよね。

 

 

「整体」という言葉を作った野口晴哉は、「その人の内からの欲求で『やりたい』と思ったこと以外は、本当には身につかない」という趣旨の言葉を残していますが、何かを身に着けるには、内からの欲求を無視してはできないとわたしも感じています。

 

 

長くなってきたので、残りは次回に持ち越しです。

 

次は、ほかの質問を紹介します。

 

当事者や関係者に役立つ内容なので、ぜひご覧ください。

 

(つづく)

 

 

東京シューレの方の話を聞いてきたよ!<前編>

f:id:gyogo:20170627160137j:plain

写真:今回行ってきた「第14回 こども笑顔ミーティング」の様子。誘ってくれたHさん、ありがとう!

 

 

この週末、6月25日(日)は長男とふたりで上京していました。

この講演会に参加したかったからです。

 

 

f:id:gyogo:20170627152934j:plain

 

 

わたしひとりで行くつもりだったのですが、長男も東京のお友だちに会いたい! というので、いっしょに出かけて、講演会の間はお友だちの家で預かってもらうことにしました。

 

 

「こども笑顔ミーティング」は大田区で八百屋「だんだん」と子ども食堂をやっていらっしゃる近藤博子さんが代表をつとめておられる、子どもを支える活動をしているグループです。

近藤さんは子ども食堂でかなり有名な方のようですね。

 

 

今回は、フリースクールで30年以上の実績がある「東京シューレ」スタッフの野村芳美さんがお話しになるということで、ぜひ行ってみたいと思ったのでした。

 

 

結論からいうと……本当に行ってよかった!

 

 

・まず、不登校について全体的なお話が聞けたこと。

・ポイントを押さえて聞けたこと。

・さらに、意見交換で考察が深まったこと。

 

 

なにより、当事者でなくとも、不登校に関心を持って、真剣に考えている人がいることがうれしかったです。

(いつもより参加者が多かったようですよ)

 

 

お話しくださった野村さんは50代で、事実婚のパートナーと22歳と15歳のお子さんと暮らしています。お子さんは2人ともシューレの会員で、野村さんもシューレのスタッフとなって26年のベテランだそうです。

 

 

 

不登校は「治す」対象だった!?

 

 

野村さんが初めてシューレに足を踏み入れたとき、子どもたちがとてもエネルギッシュなのが印象的だったそうです。

 

 

でもそれはシューレだからで、多くの不登校の当事者は苦しんでいることを後から知るようになります。

 

 

子どもの不登校から、親子心中を考えるほど思い詰める方も少なくないそうです特に、地方でその傾向が強いとか。

 

 

では、その「思い詰める」気持ちがどこから来るかというと、不登校に対する社会の捉え方が「否定的」だから。

 

 

不登校は1970年代後半から増え始めました。

高学歴化から競争や管理に重きをおいた教育に拍車がかかり、学校に通うのが苦しく感じる子どもが増えていきます。

 

 

当時は「個人の責任」とされていて「学校恐怖症」などと呼ばれていたようですね。

だから「病気」「怠け」「弱い子」「子育ての失敗」と烙印を押され、親も子も委縮して絶望する……ということが多かったようです。

 

 

不登校は「治す」対象とみなされていたのです。

 

 

また、ひとつ注意したいのは、不登校当事者の人数です。

 

 

今は文科省のデータとしては12万人前後で推移していますが、これは不登校の定義に当てはまっている子どもだけです。

「年間30日以上欠席している」というアレです。

フリースクール保健室登校は出席にカウントされるので、対象外です。

 

 

だから、実際はもっと多いのではないかというのが専門家の見立てです。

なんだか、保育園の待機児童数の話と似ていますよね。

 

 

 

当事者だって黙っちゃいないよ

 

 

不登校は、本当に怠けとか病気なのか?」と考えるようになった親たちが、学校に無理矢理戻すのではなく、子どもを受け止める方向に舵を切り、親の会を作って勉強・情報交換をはじめます。

 

 

また、当事者である子どもたちも声をあげはじめます。

 

 

行政側が行うアンケートは学校が回答しています。

不登校の原因を「病気」「怠け」など子ども本人に帰していることに違和感を感じた当事者たちが、1989年に「登校拒否の子どもによる登校拒否アンケート」を実施します。

 

 

1998年には当事者主体のメディア不登校新聞」が創刊されます。

 

 

そして2009年には不登校の子どもの権利宣言」が起草されます。

 

 

これは日本も批准している「子どもの権利条約」がヒントになっているようです。

子どもの権利条約」に関わった大人たちから「君たちは学校に行けるだけ幸せだ」と言われたことに違和感をおぼえた当事者たちが、「だったら不登校の子どもの権利をうたったものがあってもいいはず」と考えたそうです。

 

 

夏休み中、これを作るために費やし、法律的にも問題がないかどうか、専門家にも意見をもとめる念の入れようだったそうです。

(この権利宣言が、のちの「教育機会確保法」にもつながったそうですよ)

 

 

 

国や行政はカメの歩み?

 

 

1983年に「子どもの健全育成をめぐる諸問題」で「子どもの性格が問題、親の養育が問題」として登校拒否が扱われたそうです。

 

 

しかし、不登校の原因が見事にばらばらで、正反対の要素でも起きることがわかってきて、「登校拒否は誰にでも起こりうる」という見解に変わっていきます。

 

 

2000年代には、「ただ見守るのではなく働きかけよう」という動きが出てきたことで揺り戻しもあったようです。

 

働きかけるというのは「学校に戻す」「フリースクールも出席とカウントする」ということです。

 

学校に戻る、フリースクールに通う以外の選択肢が排除される傾向になり、当事者で苦しい思いをした人がかなりいたと思われます。

 

 

ちなみに、不登校の子どもの居場所として圧倒的に多いのは「家庭」です。フリースクールや中間教室などに通っている子はとても少ないのです。

 

 

2016年になってようやく不登校を問題行動と判断してはならない」「学校に登校するという結果のみを目標とするのではない」という見解が示されました。

(昨年ですよ、昨年!)

 

 

フリースクールについては、法律こそ未整備なものの、学校の重要なオルタナティブとして位置づけられるようになってきました。

さらに「教育機会確保法」により、不登校児童生徒の休養の必要性」が認められるところまで来ています。

 

 

 

何十年も変わらない悩み

 

 

行政の歩みが遅いか早いかは見解の分かれるところですが、当事者や関係者となって初めて東京シューレに相談に訪れる人の悩みは、もう何十年も変わらない、と野村さんは言います。

 

 

不登校への潜在的な恐怖心、忌避感はここまで強いということですね。

 

 

東京シューレは理念ありきではなく、子どもと試行錯誤しながら作ってきたそうです。

 

そこでたどり着いたのが

 

・安心できる居場所である

・やりたいことを応援する

・自分で決める、自分が決める

・違いを尊重する

 

の4点だそうです。

 

 

学校によくある校訓や目標とはずいぶん違いますよね。

 

 

このあと、東京シューレを紹介する映像を見て、意見交換に移りました。

 

(つづく)

 

ジブリの世界みたいな里山で遊んできたよ

f:id:gyogo:20170622144416j:plain

写真:「地球クラブ」はこーんな山の中にあります。

 

 

※内容に不正確な点等があったため、一部修正しています。なお、この敷地は私有地ですので勝手に立ち入ることはできません。地権者および「地球クラブ」の会員に限って使用されるフィールドです

 

 

 

「子どもが学校をやめたよー」と話をしたら、とあるお友だちがこんなところを紹介してくれました。

 

 

青木村には「地球クラブ」という、乳幼児からお年寄りまで、さまざまな年代が集まって、里山でいろんな体験をする団体があります。

参加者は村内にとどまらず、上田市などからも来ているそうです。

 

 

 

青木村のとある場所にあるのですが、途中からは車1台がやっとという細い道に入っていきます。

なんだか千と千尋の神隠しみたい……。

 

 

とつじょ、縄文人の住居みたいなものが見えてきます。

そこが「地球クラブ」のフィールド「ふくろうの里」なのです。

 

 

立派な木造の小屋と、竪穴式住居が建っています。

大きな木が何本ものびのびと枝をひろげ、池もあるし、『バムとケロの森の小屋』をもっと素朴にしたような高床式の小屋もあるし、五右衛門風呂もあるし、ブランコもあるし、畑もあるし、実のなる木もあるし!

(今回は、グミの実と桑の実が食べごろでした)

 

 

これはすごい……。

 

 

となりのトトロの世界みたい!

 

 

f:id:gyogo:20170622145913j:plain

くるみの木からさがっているブランコ。最高に気持ちいい!

 

 

f:id:gyogo:20170622150007j:plain

有機栽培の畑。こちらは「地球クラブ」のメンバーが植えているそうです。うちの畑よか立派ですよ。

 

 

f:id:gyogo:20170622150107j:plain

カブトムシの、もうすぐ成虫になるヒトたち。本当は掘ってはいけないそうなんですが……子どもの好奇心のためにごめんなさい。

 

  

 

f:id:gyogo:20170622150253j:plain

「オレはゲームとかユーチューブが好きだ」と言っていた人がパンツ一丁で池にみずから入りました。

 

 

濁っていて中がよくわからない池に入れるだけで尊敬しますよ。

 

 

畑のそばで、おがくずなどを積んでいたところには、カブトムシの幼虫が大量発生。

少し掘り起こして様子を観察しました。

 

 

カブトムシの幼虫は、自分用の丸いスペースを作るんですね。

それがまたきれいな卵型で、きめのこまかい陶芸用の土みたいにすべすべなんです。

 

ちょっと掘り崩しただけで、このスペースがたくさんあるのがわかります。

なるべく傷つけないように観察して、埋め戻しました。

(本当は幼虫のスペースを守るために、掘り起こすこと自体やらないほうがいいそうです。カブトムシさんたち、ごめんなさい……)

 

 

そのあとは、ブランコをこいだり、池を観察、池に入る、沢ガニを見つける、初物のきゅうりを収穫など、好奇心のおもむくままに活動しました。

 

 

 

「おれ、ほんとは行きたくねーんだよなー。『コロコロチャンネル』見たいんだよなー」と言っていた長男は、パンツ一丁で遊んでいました。

 

 

そのパンツも池でびしょ濡れ、最後はノーパンでズボンをはいていました。

(「着替え? イラネー」って言ってたのダレだ)

 

 

地球クラブができたのが1995年(わたしが高校を卒業した年!)ですから、もう22年続いているんですね。

 

 

最初は別の場所で活動して、青木村に拠点を移したそうです。

何もなかったであろう里山に、こつこつ手を入れて、ここまで気持ちのいいフィールドを作ってこられたことに、心を揺さぶられました。

 

 

来年度からはここで「森のようちえん」がはじまる、かも? 

(現在、園児募集中のようですが、集まり具合によって開園時期が変わるかもしれないそうです)

朝、青木の道の駅に集合して、歩いてフィールドまで行くそうですよ。

 

なんてすてき!

 

うちの双子も、こちらに通わせようかな?

 

 

長男はすっかり気に入ったようなので、「地球クラブ」の会員になることにしました。

 

 

ここでジブリ的世界の時間を過ごしたいと思います。