まだ学校で消耗してるの?

2017年5月より小2長男・脱学校につき、家族で「学校のない生活」を模索中

不登校ってなんだ?

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上:不登校児童数推移(文部科学省)。グラフは「家庭教師のジャンプHP」http://www.jump-japan.com/truancy/school-refusal-statistics.phpより引用

 

 

学校教育の総元締め、文部科学省によると

 

不登校児童生徒」とは「何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しないあるいはしたくともできない状況にあるために年間30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたもの」

 

と定義されています。

 

ここから読み取れるのは、不登校の原因が生徒個人によるものと限定されていることです。

「社会的要因・背景」というところに、学校が原因であることも含まれていると強弁できなくもないですが、やはり違和感があります。

 

 

不登校に関係する調査として、「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」というものがあります。

2016年までで50回も続いている調査です。

 

この調査は、1966(昭和41)年度の「不登校」(注:当時は「学校ぎらい」と呼ばれていた!)に関する調査に端を発します。

 

不登校は日本の学校教育においてそれなりの歴史があるトピックであることがわかります。

 

とはいえ、公的にはずっと「問題行動」として扱われてきて、当事者からすると違和感・疎外感・隔靴掻痒(かっかそうよう)だらけであることは、今も変わりません。

 

以下の記事に、その問題点が書かれています。

ぜひ読んでみてください。

 

news.yahoo.co.jp

 

 

不登校に対する世間のイメージは、まだまだネガティブです。

 

幸い我が家のケースでは

「子どもがいじめられて学校を休んでいる」

「学校をやめた」

と話したときに、

「それじゃダメ! 行かせないと!」

と言われることはありませんでした。

 

「休ませてあげて」

「今は別の道もあるから」

と声をかけてくださる方ばかりでした。

 

学校に通わせ続け、子どもが自らの命を絶つという事件が何度も報道され続けていることがあるのかもしれません。

日本の子どもの死因1位は「自殺」です。

(15~39歳において。10~14歳では「自殺」は3位。平成21年の厚生労働省のデータより)

 

つい最近も、茨城県取手市でいじめが原因で自殺した中学生について、取手市教育委員会は「いじめの事実はなく、重大事態に該当しない」と言い続け、文科省からの指導で対応を180度改める、ということがありました。

 

大勢の犠牲の上でようやく、ということですから「人が死なないと変わらないのか」と苦々しい気持ちになるのが正直なところですが……。

 

もちろん、当事者や関係者のさまざまな活動も奏功して、見方が変わってきたこともあるでしょう。

 

亀の歩みかもしれませんが、確実に意識は変わってきていると感じています。

 

かくいうわたしですら、何も知らなかったときには不登校にネガティブなイメージを持っていたことを告白します。

不登校についてのニュース、当事者や専門家のインタビューなどを目にして、自分の考えを改めていきました。

 

ネットで「不登校 原因」と検索すると、
「問題行動」「いかに学校に戻すか」という観点が目立ちます。

 

それを見ていると、本人というよりは、保護者(大人)の不安が大きいように感じます。

 

学校に通わなくても、ぜんぜんだいじょうぶ。

 

当事者も関係者も、そしてそうでない人も、心からそう思えるようになってほしい。

 

その思いを燃料に、書いていきます。

別ブログ立ち上げました

 

ichijyu-issai.hatenablog.com

 

ごはんブログを別に増設しました。

こちらは短くサクッと書きます。

 

前はFacebookで、わりとよくできた、要は自慢したいごはんwのときだけアップしていましたが、このブログでは毎日の寺西家のごはんを包み隠さず公開していきますよ。

 

昼ごはんは、ホームエデュケーション中の長男、レパートリーの少ない夫にも作ってもらいますよ。

 

よかったら、ときどき遊びに来てください。

『すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論』(堀江貴文・著)を読んだよ

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写真:光文社新書は「おっ!」と手を伸ばしたくなるテーマが多いな、とかねがね感じていましたよ。 

 

久しぶりに書店へ行き、ベストセラーの棚を見ていたら「脱学校」とあるではないですか。

「おっ?」と思って手に取ると、堀江貴文さんの著書でした。

 

直感的にこれは今読むべき本だナと思い、買いました。

 

新書なので3時間かからず読み切れます。

が、内容は濃厚かつ本質的でした。

 

印象に残ったポイントをいくつか。

 

・学校とは、産業革命時のイギリスで「使いやすい労働者」を大量生産するために生まれた

……だから日本でも戦中や高度成長期にはあまり違和感がなかったが、低成長の時代になっても続けるのは社会的損失が大きいし、人権的にもおおいに問題アリ。

 

・現在においても日本の学校は、軍隊式がまかり通っている

……「行進」とか「前にならえ」とか本当にイヤだったよ。あれって軍隊だよね? 学校は「戦争はいけません」って教えてたけど、軍隊式はOKって矛盾してないかオイ。

 

・教科書を国家が検定するという制度自体、先進国の中ではまれ

……1903年から終戦まで続いた国定教科書制度の考え方が今も続いている。軍隊式の管理法が続いているのと同じか。

 

・「禁止」で生徒を縛るのはもっとも低コストな教育手法である
……もっと言えば「禁止+体罰」がいちばん低コスト。頭を使う必要がなくて、恐怖で支配できるからね!

 

・没頭する力 
……自分の内側からわき起こる「これがやりたい!」にはかなわない。この力は誰もが持っているもので(この力がなかったら人は生きられない)、長らく使っていなくてもいつでも蘇生する。つまり「選ばれた人」「一握りの天才」の特権ではない。

 

・逆算しない
……「仕事として成立するかどうか」から考えていくと、発想が痩せて身動きが取れなくなる。

 

・「いざという時」の正体は戦争
……日本は現預金の比率がとても高い。それは戦中に戦費を確保する手段として貯金が奨励されたことがきっかけで、今もそれが続いているだけ。

 

・過去を再利用しない 
……今までの経験、すでに持っているスキル・資格でこれからを考えるとやれることが限られるし、なにより「自分がやりたいこと」「好きなこと」とイコールとは限らない。「今」自分が何をしたいか、何が好きかに注力したほうがフィールドは広がる。

 

・「(会社を)辞められるわけがない」は嘘だ
……辞めたいなら辞めればいい。 

 

……書き出していると本の内容をすべて書いてしまうことになりそうです。

 

新書は、同じ内容が何度も出てきて内容が薄いなーと思うことがありますが、この本は隅から隅までみっちり詰まっていました。

 

そもそも、堀江さんが教育をテーマに本を書いたのは
「ほとんどの人は、何かを読んで感銘を受けても行動には移さない」
ケースを嫌というほど見てきたからだそうです。

 

「思い切って動きたいけど動けない人」は、
アクセルを踏んでいないか(=マインドセットがわからない)、
ハンドルの操作法(=働き方・稼ぎ方)がわからないから、
と想像していたとか。

 

が、あるときに「アクセルは踏んでいる。でも同時にブレーキもベタ踏みしている」から「動けない」ことに気付いて、
根本にあるのが「(学校)教育」という「洗脳」だと気付き、
その「ブレーキの外し方」を解き明かすためにこの本を書いたそうです。

 

「洗脳」はなにやら恐ろしげな色がついた言葉です。

しかし「すべての教育は洗脳だ」ということは事実です。

知らないことを教えていくというのは、そういうことです。

 

とするならば、わたしたちがフォーカスすべきは、

「洗脳! コワイ!」では断じてなくて、

洗脳になるからこそ「本当の意味での学びとは何か?」を実社会に落とし込んでいくことではないでしょうか。

 

 

日本において「脱学校」が意味するところは、「脱会社」であり、「脱家庭」であり、「脱国民国家」までつながっていきます。

 

「国家」が「国民」に求めるのは「国家のために働く(戦時なら兵士として戦う)」「人口を増やす(出産)」「納税」です。

「国家」というフィクションを成り立たせるためには「学校」「家庭」「会社」が不可欠だということになります。

 

インターネットが浸透した社会は、「国家」というフィクションの意味や価値が解体していきます。だから、「学校」「家庭」「会社」の意味や価値も解体していく……。

 

このあたり、もともと詳しい人からすると「あったりまえ」の話なのかもしれませんね。

しかし、脱学校を身近に経験した今のわたしからすると、この意味するところがビシバシ響いてきますね。

 

この本の中で、

「G(グローバル)人材」

「L(ローカル)人材」

「N(国家)人材」

という3つの方向性が書かれていました。

この方向性は、堀江さんが指し示している近未来予想図(すでに現在進行形か)をイメージしやすいんではないかと思います。

 

興味のある人は、ぜひ読んでみてください。

 

堀江さんの本(ほかの本でも!)を読んで感銘を受けた人みんなが行動に移せば、世の中は劇的に変わると考えている堀江さんは、ロマンチストだと感じました。

 

ロマンチストとリアリストは、1人のひとのなかで矛盾なく共存できる。

 

両方の手綱を手放さない人が、大小関係なく世の中を変えていくのだと思います。

 

ホームエデュケーション生活が1週間経ちました<後編>

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上:長男がiPadで描いた絵。水と炎の戦いだそうです。

 

 

ホームエデュケーション生活が1週間経った我が家。

夫(どびさん)へのインタビュー、後編をお届けします。

 

 

 

――最初に「学ぶことへの渇望感」という言葉が出てきたけど、そこをもう少しくわしくお願いします。

 

長男は、学校でいじめがあったり、先生への不信感があったりで、学校はつまらないという感覚がしみついている。

その悪影響なのか、本人の性質なのかはわからないけれど、何かを勉強するということに対して興味や欲が見えないんだよね。

「できた! もっと先に行きたい」という感じはまったくないから、それではとこちらから与えると「めんどくさい」になってしまう。

今やっていることは基礎の基礎だからどうしても魅力に欠けるし。

興味や欲を引き出す何かをぶつけないと、「これだ!」という手ごたえは得られないかもしれないな……。

 

まあ、ぼくが近道を狙いすぎているのかもしれない。

基礎は最短でとっとと済ませて、本人の興味のあることを広く深く掘っていく……というふうに持っていきたいんだけどね。

 

 

――教科書は使わないの?

 

 

使わない。

学習指導要領にのっとって勉強を進める気はないから。

 

それに、今の教科書は、素人目にもあまりよくできていないように感じるなー。

特に算数。

教科書だけでは予習もできないようなつくりになっているんだよ。

読み物っぽくなっていない。

 

 

――国語・算数以外の教科は?

 

 

長男は図画工作が好きだよね。

午後の時間は、そういうこともやりたいと思っているよ。

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図工、音楽、体育は、学校から離れたほうがもっと面白くやれるんじゃないか、と期待はしてるんだ。

自分自身「もっと系統立った知識があるとより楽しめるのにな」と前から感じていたから、いっしょに楽しんで学びたいな。

本人の興味が向かう先を見るのにも、こういったジャンルはいいかもしれないね。

  

 

――HEをやっていて見えてきた長男の個性ってある?

 

 

納得しないと絶対に前に進めない人。

「父ちゃんが一生懸命やってるから、しゃーない、付き合うか」と譲歩してくれるときもあるけど、それはやっぱり長続きしないねー(苦笑)。

 

 

――HEを実践してみての感想は?

 

 

うーん、万人に通じるとは思えないなー。

完全オーダーメイドだから。

下の双子もまたぜんぜん違うことになるんじゃないかな。

 

結局、年長者がどれだけ手を抜かないでやるかが問われるんだよね。

じつは、やる前は「仕事の片手間でできるか」と気軽に考えていたけど、そうは問屋が卸さなかった(笑)。

まだ7歳だし、「これやっといて」じゃぜんぜんできない。

時間をはかったり、漢字の書き順を見たりと、手と目をかけてやらないと意味がないし、本人も納得しない。

年長者が真面目に取り組まないとできないなー、と痛感しているよ。

 

だから、人にはおいそれとすすめられないかな。

 

ただ、すごく贅沢なことをやっているという実感もあるね。

試行錯誤しながらできるのはおもしろい。

まあ、自分ができなかったことをHEでうまいことやれるかもな、という色気もあるんだけどね(笑)。

 

 

*********************

 

 

いかがでしたでしょうか。

あくまで、どびさんから見てどうか、という話です。

しかもハウ・ツーではないので、あまり参考にはならないでしょう。

 

それでも、学びの本質に触れるところがチラッチラッと垣間見えるなー、とわたしには感じられました。

 

お世話になっている方が「凡事徹底」という言葉を贈ってくださいました。

地味なこと、地道なことを徹底してやることは難しいです。

でもそれをやり通すと、思いのほか遠くまで行けるようです。

 

長男は

・わりとなんでもすぐできてしまう

・でも、できないとあっさり諦める

というところがあります。(わたしに似ていて、見ててつらい……)

 

短所を無理に直す必要はないけれど、「やり通す力」は人生においてやっぱり大事なスキルだよなぁ……とも思っていて、そこは課題のひとつだと感じています。

 

あせらずたゆまず、3人4脚で楽しくやっていきますね!

 

 

ホームエデュケーション生活が1週間経ちました<前編>

 

 

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写真:漢字の書き取りやっています。

 

 

我が家のホームエデュケーション(以下、HE)は夫(どびさん)が中心になって進めています。

どびさんは、やる気があり、勉強の意味も勘所もよくわかっているので。

わたしは大学時代に小学生の家庭教師をやりましたが、あまりに教えるのがヘタでトラウマになっています……。

 

どびさんに、インタビュー形式でこの1週間を聞いてみました。

長いので、前編・後編に分けますね。

 

 

――1週間経って、どう?

 

時代の違いなのか、個性の違いなのかわからないんだけど、

学ぶことに対しての渇望感が、自分の経験と照らし合わせると違っていて、戸惑いがあるね。

刺激(ゲーム、本、マンガ、アニメ……etc.)がたくさんあるので、なかなか気持ちが向かないのかな。

40年以上前とは明らかに違うという印象だな。

 

 

――40年以上前に小学生だったどびさんは、学校や勉強をどう感じていたの?

 

 

ある種の修行みたいに学校に行っていたよ。

「これをやらないといけない」は、親や教師だけでなく、子どもも共通理解としてあったように思う。

 

それと、今は学校での教え方もぜんぜん違うよね。

何度か長男の授業参観に行って、今はクラス全員をどう参加させるかに腐心していると感じた。

退屈な子はずっと退屈なまま強制的に参加しなければならないから、スポイルされちゃうよね。

 

ぼくは、春休み前にもらった次の学年の教科書を、春休み中に全部読んでいたの。

だから、授業が退屈になりがちなんだけど、そのときは次に習うところを読んだり、それにも飽きると落書きしたりして、しまいには怒られていた(笑)。

そんなふうに、こっそりだけど参加しない余地があったんだよね。

 

今は、そういことができる感じじゃないよね。

 

 

――どんな感じでHEを進めているの?

 

 

午前中は座学。

国語は「漢字の書き取り」「音読」

算数は「計算」「時計」だね。

 

午後は日によってそれぞれかな。

図書館や書店に行ったり、川で遊んだり。

 

休みの日はふだんの勉強はお休みにして、日記だけ書かせているよ。 

 

 

――ではまず、国語から。

 

 

長男は漢字の書き取りが好きじゃないから「イヤなことを先にやろう!」と話してまずここからやっている。

教材は「うんこドリル」ね。まず1年生のをやってから2年生。

 

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写真:たしかに例文はヤバいです。

 

「うんこドリル」はよくできてるねー。

例文の面白さが注目されがちなんだけど、
仲間の漢字を一気に覚えるようにできているんだ。

学校だと、まず文中から習う漢字をひろって……というプロセスだから、やや非効率なんだよね。

ただ、「うんこドリル」の例文は面白いけどかなり品がない(笑)。

本人は喜んで音読しているけど。

 

問題は、ドリルをなぞって書いているだけでは足りないところかな。

漢字の書き取りは回数をこなさないと覚えられないから、漢字練習帳に書かせているよ。

長男には、そこでまたぶうぶう言われるんだけど。

 

「手で書く」「声に出して読む」というアナログなやり方を今は大事にする時期だと思っているよ。

音読にしても、押し付けはしないけど、でも「こういうのがあるよ」というふうに、長男の感性にフィットすればいいなと思って教材を選んでいる。

音読の教材は、児童文学という枠に限らないで選びたいね。

大人が本気で作っているものをぶち当てたい。

たとえば宮沢賢治にしたって、子ども向けに書いていたわけじゃないと思うんだ。

 

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 写真:福音館書店から出ている『にほんご』。谷川俊太郎大岡信安野光雅といった当代きっての日本語の使い手が試みに作った国語教科書。

 

 

――算数はどうでしょう。

 

 

算数は、百ます計算のプレ版みたいなやつを1日1ページ。

さらに、2年生の2ケタの足し算・引き算、そして時計ね。

それぞれにドリルを1冊用意して、こちらも1日1ページ。

1日あたり、合計3ページだね。

 

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百ます計算は、実は7日間まったく同じ計算が続くの。

時間をはかるのがミソ。

計算自体は簡単なんだけど、時間をはかるから集中度合いがダイレクトにわかる。

これがノってこないときは、他の勉強も調子がいまひとつだね。

バロメーターになっておもしろいよ。

 

百ます計算「完答する」「タイムを縮める」というふたつの達成感があるから、できる子とできない子の差をうまく埋められるんじゃないかな。

青木小学校でやっていた「花まる学習会」の教材と似てるね。

 

長男は、引き算がだいぶ苦手みたいだね。

そして「時刻(点)」と「時間(量)」の概念が飲み込めていないみたい。

2ケタの計算がスイスイできないと理解が進まないかもな。

 

国語と算数をミックスしたようなパズルのような問題集は面白がってやっていたな。

 

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写真:国語は論理的思考力を養うので、算数との食い合わせは存外いいのかもしれません。文系・理系で分ける考え方が根強いですが、それもとっぱらったほうがよさそうですね。

 

 

――なかなか苦戦していますね。昨日も長男とふたりで話し合っている声が聞こえてきましたが。

 

 

本当は、国語と算数は1時間くらいでさっさと済ませて、毎日ワンテーマで何かやる、というふうにしたいんだけど、国語と算数で昼までかかっちゃうんだよね。

 

「これだけはやらないといけないよ」ということは、感情的にならずに言い続けるしかないよね。

大人は一通りやっているから「これが必要だ」とわかるけど、今まさに学んでいる本人にしたら、苦行をやらされているような感覚になるのも無理はないかな。

ひとつのことを長時間はまだ難しいから、面白いことをはさんで切り替えポイントを作って、気が散らないようにすることを心がけているよ。

 

 

(後編につづきます!)

 

 

不登校新聞ってのがありまして

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写真:『不登校新聞』。オールドメディアである新聞ですが、専門性の高さと内容の密度が濃ければ、まだまだ存在感はありますね。

 

 

不登校新聞』をご存知ですか?

 

わたしは名前だけは知っていました。

今回のことをきっかけに、やはり定期的に最新の情報がほしいと思い、購読することにしました。

 

NPO法人全国不登校新聞社が月2回発行しています。

紙版とWEB版があって、どちらも月額820円です。

日本で唯一の不登校・ひきこもり専門紙だそうです。

創刊は1998年。

来年で創刊20年ですね。

(2004年までは『Fonte』という媒体名だったようです)

 

タブロイド判で8ページ。

気軽に読めるサイズと量です。

 

編集している方も、不登校の経験者だったりします。

当事者の声や専門家の知見などを知ることができます。

 

例えば458号では、演出家の宮本亜門さんが自身の不登校体験を語っています。

40年以上前に不登校を体験している宮本さんのお話は貴重な証言ですし、いろいろと考えさせられます。

 

また、当事者だけでなく、例えば457号には評論家の荻上チキさんのインタビューが掲載されていて、いわば「アライ*」のような立場から、学校制度にまで切り込み、自己肯定感や自己効力感といった本質的なテーマにも言及されていて、かなり読みごたえがあります。

 

*アライ……性的少数者の権利運動の中で、当事者ではないが支援する立場の人をこう呼ぶようになりました。異性愛者が同性愛者を支援するだけでなく、レズビアンの方がトランスジェンダーの方を支援するといった場合も「アライ」と言えます。英語で「同盟、支援」を意味するallyが由来。ここでは、「当事者ではないが支援する人」という意味で使っています。

 

 

ほかにも不登校50年 証言プロジェクト」「親のためのQ&A」、書籍紹介など、欲しい情報・面白い視点の内容がたくさん詰まっています。

全国の不登校・ひきこもりの親の会例会情報や、イベント情報が載っていて、これはすぐに役立ちそうですね。

 

定期購読すると、過去の記事もネットで読めるようになります。

不登校に関する疑問や不安はほぼこれで解消できるのではないでしょうか。

また、多くの先輩たちのリアルな姿も見られるわけで、おおいに勇気づけられそうです。

 

あとは、不登校といっても原因・経過はさまざまで、一口には言えないという理解も深まりそうです。自分の問題を相対化でき、多様性を実感できるという意味で、これはとても大事なことだと思います。

 

かつて、アメリカのフェミニズム運動で「個人的なことは政治的なこと」というスローガンがありましたが、不登校についても同じことが言えそうですね。

 

自分の問題を相対化しつつも、所詮個人の体験と矮小化することなく、社会や政治の構造問題へとつなげていく。

当事者以外を巻き込んで社会を変えていくには、この視点はとても大事だと感じています。

 

 

教材を買ってきたよ

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写真:買ってきたドリルたち。シール付きで気が利いている!

 

ホームエデュケーションというと、独自の教材、なんなら親が教材を作ってしまう独創的な教育! と思われるかもしれません。

 

しかし、長男は小学2年生。

まずは、読み書きそろばんじゃろうということで、夫がフツーに市販のドリルを買ってきました。

 

 

夫のもくろみでは、漢字はこれからの1年間で小6までやるつもりのようです。

漢字を覚えれば、本を読むのがだいぶ楽になりますからね。

 

漢字は今話題の「うんこドリル」シリーズを起用。

これ、近所のセブンイレブンでも売っているんですよ。

例文はすべてうんこに絡めてあって、中には環境型セクハラになるんじゃないかというヤバい例文もあります。

その点はペアレンタル・アドバイザリーが必要かもしれません。

 

しかし、脳に刻みこむには「うんこ」視点はなかなか侮れないものがあると感じています。

これを思いついて、しかもここまで徹底してうんこ一色にして世に出した方には敬意を表します。

 

 

そして、音読は「これは名作だナ」と感じている絵本や、最近子ども界隈でも人気の『論語』などをテキストにする予定です。

安野光雅大岡信谷川俊太郎という当代きっての日本語の名手たちが編んだ『にほんご』(福音館書店)という国語教科書もとってあったはずなんだが、見当たらない……。

ちなみに今日は、『百万回生きたねこ』を音読させてみました。

 

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写真:言わずとしれた、故・佐野洋子さんの代表作。 

 

 

算数は、四則演算を段階をふんでやっていきます。

 

長男は「科学」に興味があるようなので、

この4月から入っている上田市「おもしろ科学少年団」で実地を、

そして興味のある本などを手掛かりに掘り進めていこうと考えています。

 

 

さらには、社会科見学的なメニューも。

拾ってきた黒曜石を売りたい(!)と言っているので、近々上田市フリーマーケットに参戦予定です。

じつは、最初はネットオークションを考えたんですが、出品料がかかるので断念しました。

相場の安い黒曜石では、売れたとしても完全に赤字なので。

まずは気軽に参加できるフリーマーケットで、リアル売買の現場を味わってもらうことにします。

世の中の厳しさと優しさを知ることになるでしょう。

 

 

読書については、夫婦そろって編集者だったので(夫は今も編集の仕事をしています)、

本だけは惜しみなくと心がけていたのが奏功し、図書館に送りこむと何時間でもいられそうなほどよく読んでいます。

 

世の中に流通している情報の多くは文章というかたちをとっているので、まとまった量の文章を苦労なく読めるに越したことはないとわたしたちは考えています。

 

下の双子(男男・2歳)も本は好きなようで、勝手に謎のストーリーを作りながら読んでおります。

 

 

最後に勉強する場所について。

 

今まで学習机はありませんでした。

ダイニングテーブルや、夫とわたしが使うライティングビューローで宿題をしていたからです。

 

が、どこからか『子どもを賢く育てる暮らし方』隂山英男(学研)という本を引っぱりだしてきて(このタイトル、わたしの自意識があぶり出されてこっぱずかしいな)、そこに描かれていた横長机のイラストを指して「こんなのがいい!」と言い出しました。

 

学習机にはまったく興味がなかったのに、聞けば「かあちゃんっぽくやりたい」とのこと。

自称フリーライター(あやしすぎる!)のわたしが最近設置した机&棚と同じことをやりたいんだとか。

 

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写真:机は東京で食事用に使っていたもの。ふすまのシミがまぶしいぜ!

 

 

そこで起用したのが、無印良品のパイン材の棚。

 

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おお、それっぽくなったよ。

あるものを使うのは大事なことだね。

 

そんなこんなで、平日は、9:00~11:30の間、この一風変わった机で勉強をやっていきます。

 

 

ホームエデュケーション(HE)という光

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写真:ホームエデュケーションについて書かれた本

 

 

ほかでもない長男の強い意志で「学校へは戻らない」ということは決まりました。

 


じつはわたしたちは、長男が小学校に入る前から

「もし何かあって学校に行きたくなくなったら、無理強いは絶対にしないようにしよう。学校に行かずとも、いろんな道があるから」

 

と夫婦で決めていました。

 

なので、保護者としての不安や葛藤はほとんどありませんでした。

 

 

まあ、地味に傷つくことはちょくちょくありますがね。

 

夫が学校から私物を引き上げにいったときに、担任の先生がかなりよそよそしい態度だったそうで(社交辞令としての言葉も謝罪も一切なし!)、

「この人にとっての長男との14カ月はなんだったのかなー? なかったことになってんのか?」

と泣きたくなったり。

 

教育長からは「学校との感情のもつれが……」「学校と協議してなかったことにする……」という言葉が飛び出て、

「えっ、感情のもつれじゃなくて、学校の対応に合理性がないって話なんだけど???」

「いや、どうやったってなかったことにはできないでしょ」

と、話がしれっと矮小化されることに白目むいたり。

 

おっと、今はしめっぽいのは封印、封印。

 

 

学校をやめても、まだ無意識は「学校的な場所」を求めており、

まずやったのはフリースクール探しでした。

 

ネットで探してみると佐久にありました。

もっと近くにもあるのですが、ハイティーン向けか、小学校5年生以上向けでうちは対象外。

小学校低学年での脱学校は、まだまだマイノリティなのだと初めて知りました。

 

 

夫は夫で、村の図書館で不登校関係の本をドサッと借りてきました。

 

その中に

 

『ホームエデュケーション始めませんか』(2008年版)

NPO法人 東京シューレ編(NPO法人 東京シューレ刊)

 

というブックレットがありました。

 

ホームエデュケーション(以下HE)。

ホームスクーリングとも言いますが、ようは家庭で学ぶということです。

“家庭を拠点に子どもの興味や気持ちを大事にしながら、社会資源や人とつながり、子どもを育てていく方法”

とブックレットにありました。

 

このブックレットには、17人のお子さんの体験記と、20のQ&Aが載っています。(ブックレットは定期的に最新版が出ているようです)

 

不登校からHEに至った17人17様の具体例が語られています。

HEのある暮らしというのがどんどん具体的にイメージできて、

気がつけばワクワクしている自分がいる!

 

 

よくある

 

「社会性は身につくの?」

「友だちはどうするの?」

「学歴はどうなるの?」

「学力が心配」

「長じてひきこもりになるのではないか」

 

といった心配にも明確にNOと答えてくれます。

 

何より説得力があるのは、

学校に行かずとも自立して自分の人生を歩んでいる先輩たちが実際に大勢いるという事実です。

 

子どもを学校に通わせるのとは違う大変さはあるけれど、

学びの場は際限なく広がり、誰もが友人や先生になり得るという、なんとも魅力的な世界のよう。

暮らしと学びが結びつき、子どもの興味の転がり方によって何がどう化けるかわからないスリリングさもある。

 

そもそも、長男は学校の代替物がほしいわけではない。

だったら、フリースクールにこだわらなくてもいいんじゃないか。

何より、夫がすごくやる気を出している。

しかも、このタイミングで、わたしは仕事をクビになりました。

(これはこれで大変だったのですが、それはまた別の機会に)

 

もう人に雇われるのはやめよう、見通しはないが自営業でやっていこうと肚を決めました。

書くことにはあまり興味がなく編集者になった人間ですが、

今は書きたい。とにかく書きたい。

まずはブログでたくさん書こう。

そして、不登校まわりのことを自分なりに掘り進めてみようじゃないか! ということでこのブログを立ち上げたのでした。

 

そんなわけで、2人の大人がだいたいいつも家にいるという、自動的にHEをはじめやすい環境になりました。

(仕事をクビになったのはつらかったけど、HE的にはラッキーでした。ちなみに共働きでHEをやっているご家庭もたくさんあるようです

 

ちなみに、HEについては「ホームシューレ」のHPがくわしいです。

フリースクールとして長い実績のある「NPO法人 東京シューレ」が運営しています。

 

これから、HEというと、ネガティブな反応をされることがあるんだろうな、と予想しています。

実際、わりと理解のある風だったご近所さんも「家に閉じ込めちゃダメよ」と忠告してきました。

もちろん、閉じ込めるつもりは毛頭なく、本人の興味のある場所・モノ・人のところへどんどん出向くし、おもしろい人はどんどん家に呼ぶし、ときには親の興味にも付き合わせてしまうつもりです。

 

どうなるかわからないけれど、でもこの道を進みたい。

 

わたしたちは、おそるおそる、HEのとびらを開いたのでした。

幕切れ ~脱学校への道5~

これで一旦「脱学校への道」シリーズを終えます。

このあとは読んでいて苦しくならないようなネタに移りますので、どうかご容赦を。

しばしお付き合いください。

 

******************************

 

17日の夕方、校長先生が我が家を訪れました。

 

そこでもたらされたのは、

「1時間目の休み時間でも、やっていない」という加害児童とされる子どもたちの証言でした。

 

たしかに長男は机の角にお腹を押し付けられたのですが、

それは長男に「ただなんとなく」ぶつかっていったEのしわざで、ほかのA、B、C、Dは関与していないということでした。

 

目撃していた子は、EとAがやっていて、それをB、C、Dが見て笑っていたという証言をしています。

 

長男は、「痛い!」と思って振り返ったらAとBがいた、と言っています。

 

目撃していた子と長男の証言にも食い違いがありますが、A~Eと比べたら食い違いは小さいです。

 

A~Eとは明らかに食い違っています。

 

この結果を受けて、校長先生は、

 

「5人が口裏合わせをする時間はありませんでした」

「どうしても、あの5人が嘘をついているとは思えないんです」

「真実を語っていると思います」

 

と言い出しました。

 

「では、うちの長男が嘘をついているということですか?」

 

夫が静かに尋ねます。

 

「いえ、長男くんも事実を言っていると思います」

「わたしは、5人のことも、長男くんのことも信じています」

「学校は捜査機関ではないので……」

 

…………。

 

ようは、これ以上は「やりたくない」「やる気がない」ということね……。

 

「事実を積み上げていきたいから」と聞き取りを重ねてきた校長先生が、

食い違いが解消していないにもかかわらず、事実上の幕引き宣言をした瞬間でした。

 

わたしたちにとっては、たった1本の頼みの綱が切られた瞬間でした。

 

夫は怒りをおさえて、論理的に問いを投げかけつづけます。

 

しかし校長先生の口から出てくるのは、

 

「わたしはこの仕事に命をかけています」

「子どもたちはみんな自分の子どもだと思っています」

「わたしにも娘がいますから、わかります」

「わたしもいじめを受けた経験があって、それで教職を目指したところがあります」

 

という情緒論ばかり。

話のすり替え以外の何物でもない。

 

穏やかながら有無を言わせない大人の気迫をもって加害児童に語りかけ、諭していた校長先生は、もうどこにもいませんでした。

 

命をかける? 自分の子どもだと思っている?

ならばどうして、とことんまでやらない?

なぜ、ここでうやむやにしようとする?

 

証言が食い違うということは、

誰かが嘘をついている

・誰かが記憶違いをしている

しかありえない。

 

その上、

「今回のことで……長男くんにも、ほかの児童にも、成長になれば……」

と言う始末。

 

あのですね。

長男は、一方的に魂を傷つけられただけで、成長する要素も義理も1ミリもないんですが。

この経験をもってして「成長」しろ、と?

 

はー。

 

言葉が軽い。

じつに軽いですねー。

 

いい先生だけど、ここが限界だと感じました。

 

おそらく、今年度で青木小学校の任期が切れるでしょう。

あと2~3校赴任したらめでたく定年でしょう。

 

教師は聖職だと言っても、仕事は仕事です。

「命をかけ」ているつもりでも、「自分の子どものように思」っても、実際は無理な話なのです。

逆に、教師にそこまで求めるのも違う、と感じます。

 

長男が傷ついた分、あなたの命を削ってもらえますか?

 

……できないですよね。

 

できもしないことを言って、長男を、証言してくれた子を、わたしたちをこれ以上愚弄するのはやめてほしい。

 

校長先生に何があったかは、わかりません。

 

ももう、あらゆる意味で元には戻れない。

 

夫とわたしは、

 

「もう学校へは戻りません」

 

とはっきり伝えました。*

 

校長先生は明らかにホッとした表情をしていました。

 

 

翌朝、全校生徒の前で行う校長講話で、いじめについて話すと言っていました。

すでに教育者を名乗る資格のない校長先生、何を話したのでしょうか。

 

わたしたちには、もう、関係のないことですが。

 

 

 

*わたしと夫で勝手に決めたことではなく、長男の意志を何度も確認して出した結論です。


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再発 ~脱学校への道4~

長男の気持ちが落ち着くのを待って、5月10日水曜日に久しぶりに登校することを決めました。

 

きっとだいじょうぶ。

学校もきちんと対応してくれたし、二度と同じことは起きないだろう。

 

そう思って送りだしました。

 

登校初日は何事もなく帰ってきました。

 

その翌日は、夫の父の葬儀のため休みました。

 

金曜日も学校へ行き、特に変わった様子もなく帰ってきました。

 

週が明けて月曜日。

この朝も、長男はいつも通りに登校していきました。

 

11時くらいだったでしょうが、担任の先生から電話がありました。

「体調がよくないから4時間目が終わったら帰りたい」と長男がうったえてきたそうです。

 

久しぶりの登校で疲れたのだろうと思い、昼過ぎに迎えにいきました。

本人に話を聞くと「金曜日くらいからお腹がもやもやしている」ということでした。

ただ、食欲はあって、お昼ご飯も夕飯もいつも通りに食べていました。

 

夕方には、担任の先生が、長男の忘れ物をわざわざ届けてくださいました。

お忙しいのか、忘れ物だけ渡して挨拶をして帰っていきました。

 

 

その夜。

長男のいじめを証言してくれた子のお母さんから連絡がありました。

 

お子さんが、金曜日に長男がまたいじめられていたのを見たというのです。

 

担任の先生がいない休み時間に、机の角にお腹を押し付けられていたそうです。

長男は「痛いからやめて!」と言ったにもかかわらず、やめようとしない。

見かねたその子が「やめなよ」と言ってくれたそうです。

「これはいじめだから、やめなよ」と。

 

それに対してAは

「なんでこれがいじめなの?」

と返してきたそうです。

 

そのお母さんは、別件で月曜日に学校へ行ったそうです。

そのときに、長男のいじめのことも話してくれたとか。

 

 

翌朝、長男にこのことを聞いてみました。

 

「担任の先生にいじめのことを聞かれたけど、言いたくなかったから言わなかった」

 

…………。

 

夫が、校長先生の携帯電話(注:「何かあったらかけてください」と教えられていた)に連絡したところ、

いじめがたった2日で再開したことに驚いていました。

担任の先生は長男の話をそのまま報告していたようです。

 

こんなにも早い再発に怒りを覚えたわたしたちは、

 

「加害者の出席停止」

「先方の保護者に会いたい」

 

と要望を出しました。

もちろん、無理筋であることは承知の上です。

 

「保護者に会いたい云々」はともかく、

なぜいじめられた側が学校を休まなくてはならないのか、とずっと納得はいっていませんでした。

いじめた側を、解決するまで登校させないのが筋なんじゃないか?

 

長男から話を聞くまでは

「何で(長男は)言わなかったんだろう」という思いも正直ありましたが、

「言いたくなかった」という言葉に、彼のさまざまな思いが見てとれて、胸がはりさけそうでした。

 

校長先生は迅速に動いてくれて、その日のうちに学級で記名式のアンケートを取り、関係者に再度聞き取りをしました。

 

記名式のアンケートでは、目撃者はたった1名だったそうです。

しかし、聞き取りの段になってから、目撃者と加害児童の証言に食い違いが出てきます。

 

5月16日火曜日夕方、「もう学校へ戻りたくない」という長男と夫が、校長先生との面談に向かいました。

 

そこで判明したのは、いじめがあったとされる休み時間の食い違いでした。

長男がいじめをうけたのは「1時間目の休み時間」、体育のあとの着替えタイムです。

教室での位置関係も仔細に聞かれたようですが、長男は矛盾なく答えていました。

 

目撃者の証言が「2時間目の休み時間」だったので、その時間で加害児童たちに聞き取りをしたそうです。

その時間、長男はクラスメイトとドッジビーをやっていたので、「2時間目の休み時間にやったの?」と聞けば、「いや、やっていないよ。長男くんはドッジビーをみんなとやっていたよ」という話になるわけで、「やってない」というのも当然です。

目撃していた子の記憶違いだったのかもしれません。

 

そんなわけで、翌17日にあらためて、「1時間目休み」で聞き取りをし直すことになりました。

 

 

しかし不可解なのは、目撃者がたった1人ということです。

体育のあとの着替えタイムならば、まわりにはクラスメイトが複数いたはずです。

 

そのことに関連して、さらに驚くことがありました。

17日の午後、近所に住む隣のクラスの子が、長男に届け物をしてくれました。

お母さんもいっしょにいたので立ち話になり、

「長男がいじめられていて、学校を休んでいるんです」と伝えました。

そのとき、お子さんのほうが

「Aくん! ぼくも背中ぐりぐりってやられた」

と言うではありませんか。

わたしは「誰から」いじめられているとは一切言っていません。

 

となりのクラスの子が長男のいじめを知っているということは、

同じクラスの子たちが知らないなんてことは、絶対、ない。

 

ということは、クラスメイトたちは立派な傍観者で、

見て見ぬふりをしているということになります。

 

加害者と傍観者はイコールです。

 

6,7歳の子たちが、そのような術を集団で身に着けていることに、この村の「保小中一貫教育」がここまで行き届いているのかと感嘆せざるを得ませんでした。

 

(つづく)